~99

 自殺するのなら、死ぬ前に病院に運べばいい。


 こいつが、自分の喉元へと包丁を突き立てた。


 病院に電話を掛けた。もたついた指先がボタンを叩いている内に、俺はあいつの上に跨がっていた。間に合わなかったから、新しい方法を考えた。


 包丁を、こいつの手が届かないところに投げ捨てた。


 こいつはベランダに向かい、躊躇う様子も見せずに飛び降りた。


 手すりから身を乗り出し下を見れば、轢き殺された蛙の死体みたいにぺちゃんこのあいつの死体があった。

 芸術作品のようだと見惚れている内に、俺はこいつの上に跨がっていた。


 ……こんな受け身の姿勢では駄目だと理解した。


 こいつの上から退き、こいつを背負い上げた。


 どこか、安全な場所へ。


 安全な場所など存在するのか。

 とにかく、ここにいるよりは外に出るべきだと思った。


 見た目通りに軽いこいつを背負い、マンションの廊下を走った。隣のババアが、俺たちの姿に目を見開き驚いた。それを無視し、そのままエレベーターへと向かった。


 ボタンを押しても、筺は一階から動かない。

 焦れったくなり、階段を使う。軽いとはいっても、子どもを背負って走るのはきつい。汗だくで螺旋階段を駆け下りれば、背負った重みが唐突に消えた。


 振り返れば、あいつはいなかった。

 ぼやけた視界の向こう側、手すりの外へと落ちゆく残像と目が合った。


 慌てて手を伸ばすが、虚空を掴んだだけだった。

 見下ろせば、地面には轢き殺された蛙の死体みたいにぺちゃんこのあいつの死体があった。芸術作品。ヤニクラ。俺は、こいつの上に跨がっている。


 自分の行動の意図が、自分にもわからなかった。

 俺はなぜ、こんなにも必死にこいつを生かそうとしているのか。


 あんなにも殺したかったのに。あんなにも殺してきたのに。

 合理的ではない。論理が破綻している。だが、現に俺はこいつを助けるために今、精神とこころを磨り減らし続けている。


 こいつを生かそうと思った俺のこころには、保身しか存在しなかった。


 苦しみから逃れるために。恐怖を払拭するために。


 だが、本当にそれだけだろうか。

 己のこころの中の、その深淵を恐る恐る覗き見る。


 こいつを殺して愉しいという気持ちが、最初にある。

 その気持ちを退かしてみる。

 妻が恋しいという気持ちが現れる。


 そのいずれの気持ちも、俺がこの現実から遠ざかるための手段だ。

 逃避。俺は俺の皮膚の外にある全てから逃避することで、この2LDKの部屋で生きてきた。もちろんこいつも逃避すべき現実そのものだった。


 だが本当に、それだけだったのか。


 俺の子どもだ。俺と彼女の遺伝子を受け継いだ、彼女の分身と言っても差し支えのない、たった一人の娘だ。


 殺したい気持ちは本物だ。


 ……だが、本当にそれだけだったのか。


 今の俺が没頭する行為。こいつを、助ける行為。


 それが、本質だった可能性は無いか?

 俺は、本当はこいつを愛したかったのではないか?


 ……この仮定は、仮定として成り立っているのか?


 保身のためだけの行動だと思った。こいつを助けることが、即ち俺自身を助ける行動だからだ。俺はこいつを思って助けているわけではなかった。助かる主体は俺だ。その付属物として、こいつが助かるだけなのだから。


 だが、それが本当は違ったとしたら? 本質を見違えていたとしたら?


 愛したかったの、だろうか……?


「あなたはきっと、あの子を一番に考えるようになる」


 妻の声が脳裏に響いた。


 俺は今、こいつを一番に考えている。

 それ以外は考えられない。妻を想う時間は、こいつについて考える時間にすっかりと上書かれている。


 俺は、変わってしまった。

 彼女の言葉が、本当になってしまった。


 こいつを一番に考え、妻のことを忘れ、自分の保身すらもなげうって。

 それで何かが、世界が変わるという確信が、俺の胸の内に満ちていく。


 ……愛してみようと思った。


 こんなことを思うのは初めてだ。


 なぜなら、そうでなければ俺の行動に理由を見付けられない。


 助けるとは、愛することだ。


 俺はこいつを救い、助けて、この狂った世界を元に戻すのだ。元通りの世界には、濾過された愛だけが残るだろう。それが愛でなければ何なのだ。利己だけで他人が救えるのか。救えたとして、その利己と愛に意味のある差異が生まれるだろうか。そこには、有意な違いなど存在しないのではないか。


 こいつの上に跨がり、包丁を握り、見下ろしている。


 彼女が言った、罰の意味。


 彼女がそう言った直後から、俺を取り巻く状況は激変した。

 俺の安寧は消え去った。ひたすらにこいつを殺し、こいつが自殺に励む様子を見せられた。俺の感じる時間の流れは加速し、ブレーキは壊れて直る兆しはない。


 これが、彼女が与える罰だとしたら。

 俺はその罰を受け入れ、罪を贖わなければならないはずだ。


 こいつを見下ろす。今まで通りに無表情で無感情に、俺を見据えている。


 やはり、妻によく似ている。

 彼女の幼少期の写真とそっくりだ。その散々否定した抗いようのない現実が、俺の認知の歪みを確かに矯正してゆく。


 ……もう、幻覚の彼女を逃げ道にするのをやめなければならないのだろう。


 俺は、ようやく気付けたのかもしれないのだから。


 気付けたのなら、どうしなければならない?


 ――こいつを、愛海まなみを愛することだけを考えなければならない。


 愛海を生かし、妻を記憶に仕舞い、生きるこの子を愛する決意。


 包丁が、手から滑り落ちる。乾いた金属音が鳴り、俺はこいつを抱き締める。

 頭を抱き、もう愛海が愛海を殺してしまわぬよう守る。当然、俺が殺してしまうこともないように。この世界の全ての脅威から、この子を守るために。


 その結果、俺が死のうが構わない。

 それで愛海が生きれるならば、それでいいと、心の底から思った。


 愛海が、左手を動かす。

 包丁をたぐり寄せ、握るのがわかった。


 だが、俺は動けなかった。

 愛海を抱きしめるのに夢中で反応できなかった。


 刃先が、俺の視界をかすめた。

 そのまま、俺が刺されても良いと思った。


 ……だが、そうはならない。


 なぜなら、愛海が俺に敵意を向けたことなどなかった。


 愛海は俺を見ていただけだ。俺に殺され続け、俺が殺さなければ自殺した。俺には敵意も包丁も向けなかった。


 瞬間、首から腹にじんわりと熱を感じた。液体のように広がるその温度。


 ……愛海の身体から逃げゆく熱。


 跳ね上がるように上半身を起こし、慌てて状況を確認する。


 愛海は、自分の首を包丁で刺していた。

 俺が覆い被さっているのに、その隙間から器用に包丁を差し込んで、自分の頸動脈に突き刺していた。おびただしい量の血液が流れていく。命が、流れていく。


 それでも尚、愛海は俺をいつもの無表情で無感情な瞳で見据えている。


 何が起きているのか、よくわからない。

 散々見てきた光景だというのに、思考が追い付かない。


 救うと思っただけでは駄目だったのか。愛すると決めただけでは駄目だったのか?


「想いは、言葉にしないと伝わらないものよ」


 後ろから彼女の声がした。いつもの優しい声。俺の心を落ち着かせてくれる声。


 ……だが今の俺には、不躾な雑音にしか聞こえない。


「じゃあ、どうすればいいんだ!」


 叩き付けるように叫ぶ。苛立ちを抑えられない。


 彼女にこんな感情をぶつけるなど初めてだ。


 弾けるように振り返れば、彼女は、愛海のように無表情で無感情な瞳を俺に向けている。彼女がそんな目を俺に向けるのも初めてで、俺は自分の状態も忘れ狼狽える。


 狼狽えている場合ではなかった。


 そんなことに時間を割いているうちに、愛海は死んでしまおうとしている。


「言葉にしないと伝わらないなら、言葉にすればいいだけのことでしょう?」


「だが、愛海が死んでしまう。俺の言葉は、愛海には届かない……!」


「そしたら、またやり直せばいいだけじゃない」


「もう耐えられない。俺はもう、愛海を殺すのも、愛海が自殺するのも見たくはないんだ……」


「やり直す機会はたくさんあったのに?」


「気付くのが遅かったんだ。俺は愚かだから、こんな大切なことにも気付けなかった。今更言っても遅いのはわかってる……。君にも散々言われたな。『あなたはいつも取り返しが付かなくなってから後悔する』って…」


「あなたは結局、どうしたいの?」


「……助けたい。そうして、かつて君を愛したのと同じように愛したい」


「あなたに私以外を愛せるの? それはとても難しいことよ」


「難しくてもなんでも、俺はこの子を愛すると決めたんだ!」


 彼女は諦めた表情を湛え、しかし、直後に見せたのは柔らかな微笑。


 それはこの世全てを救済する微笑みのように、俺には感じられた。


「その言葉は、嘘じゃない?」


 誘うような彼女の言葉に、俺は「もちろんだ」と答える。


 ……気付けば、俺の頬には一筋の涙が伝っていた。


 涙など、とうに枯れてしまったはずなのに。妻が死に、その悲しみが風化していくまでの長い時間で、流し尽くしてしまったと思っていたのに。


「なら、もうあなたに罰は必要ないわね」


 彼女はそう言って、俺に手を差し伸べた。

 無意識に、俺はその手を握ろうと手を伸ばした。


 触れることなく交差する、俺と彼女の手。


 彼女は七年前に死んだ。

 だからもうこの部屋には存在せず、俺たちは触れ合えない。


 それでも確かに、彼女から何かを託されたような、そんな気がした。


「あなたは、もう大丈夫よ。やり直す必要なんてないくらい」


 彼女はそう言い残し、その姿を、存在感を透明色に薄めていく。

 部屋の景色に埋もれていく。

 目を細め、俺はその姿を網膜に刻みつけようと躍起になる。


「でも、これだけは忘れないで」


 彼女は言う。


「神様は狭量だってことを、ね」


 消えていく彼女。

 もう、妻は俺の目の前には現れないだろう。それはとても名残惜しく、悲しいことだ。彼女ともう会えないと考えたら、俺のこころは俄に自信を無くしていく気さえする。


 だが、それは特別に重要なことではない気がした。


 ……重要なことは、いつだって目の前にある。


 俺はゆっくりと振り返り、見下ろす。


 愛海は、もうほとんど死んでしまっている。


 俺は、これからどうすればいいのだろう。

 彼女の言葉は、俺にとっての救いだった。幻覚だとしても。それが本質的に、俺が俺自身に言い聞かせるだけの言葉だとしても。幻覚は所詮、幻覚でしかないのだ。俺が救われるためには、俺自身が行動を起こしてゆくしかないのだ。


 死にかけの身体を抱き上げ、流れ出てゆく命を留めようとした。


 意味のある行為ではなかった。失われた命は戻らない。例えこれを永遠に繰り返すのだとしても、愛海が死ぬという現象は実際に起きた俺の現実だ。もう嫌というほど見てきた現実。重篤な怪我が治ったとしても、怪我をした事実はなくならない。それが愛海本人に蓄積される現実ではなかったとしても、俺がこの子を殺し続けたという俺の現実と記憶はなくならないのだ。


 抱きしめて、顔を埋める。気付けば止めどなく溢れるこの涙の理由を探した。


 これは、愛海を愛すると決めた、俺の決意の結晶だ。


 愛海を殺し続けてきたことを、俺は後悔している。

 気付くのが遅かったとしても。……だが気付けた。この決意が今更過ぎる手遅れだったとしても。……幸いにも、俺には機会がある。


 ……謝るしかない。


 それが、根本的な解決の手段でないことくらいわかっている。


 問いかけても、死体は何も答えない。

 大声で泣き叫んでも、後悔しても、懺悔しても、死体は何も答えてはくれない。


 ヤニクラが俺を覆ってゆき、景色が、愛海が霞んでいく。


 後悔が、薄れてゆく。

 懺悔の気持ちが、透明色に変わっていく。


 俺は愛海を助ける。

 例え、この状況を作り出したのが俺自身だとしても。


 俺は愛海を救う。

 例え、それが俺には許されない行為だとしても。


 愛海を愛する。


 そう決めた俺の気持ちが消えてなくならないように、俺は涙を流し、後悔し、懺悔して、そうして薄れてゆく意識に自分の想いを刻みつけた。

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