33~

 こいつを何度も殺し、気付いたことが一つある。


 こんなことをいつまでも続けていたら俺の頭が壊れるだろうという、なんともありきたりで面白みの無い当然だ。


 最初は確かに愉しかった。

 だが、それが普遍に成り下がり、脅迫的な使命感に突き動かされた作業に成り果てるのに時間は掛からない。


 殺したら時間が巻き戻る。時間が巻き戻ったら、また殺す。

 俺はこの境遇に、義務感さえ抱いているのか。


 こいつを見たら殺す。その衝動に抗えず、状況にただただ流される。


 良くない兆候だろう。そもそも、義務で取り組む殺人とは何だ。そこに俺の意志が介在しないなら、俺は何のためにこいつを殺し続けるのか。


 こいつを、人間だと認めないためだ。


 殺す殺すと宣いつつ、俺はこいつを頑なに人間だと認めていない。

 その理由を、掘り下げて考えたくない。


 ……本当は、もう殺したくなどないのか。


 どちらであろうと俺の気持ちは容易に衝動に上書かれ、また殺さなければと考え始める。だから俺はこいつを殺し、再びこいつを殺す直前に巻き戻される。


 既に、何度殺したかなどわからない。


 俺は再び、包丁を振りかぶってこいつに跨がり、そのギラギラと光る、しかし胡乱で暗黒の瞳孔を見下ろしている。


 果てしない疲労感に、目眩がしてくる。

 色々と試したのだ。この状況から抜け出すために。


 まずは殺し方の問題だと思い、様々な方法を試した。

 包丁はもちろん、素手や、その辺に転がる食器や文房具も使った。

 言うまでもないが、結果は変わらない。


 包丁を振りかぶり、こいつを見下ろす。


 殺さなければと急かす衝動。

 無意味が自明な衝動だ。今更気付いてももう遅い。

 だが、状況はもう泥沼だ。俺はその沼に肩まで浸かり、ここまで拗れてようやくその無意味に気付く。


 ……その底無しの洞穴のような瞳孔が、初めて怖いと思った。


 逃げ出してしまえば良いのか……?


 殺して時間が巻き戻るなら、殺さなければ良いだけの話ではないか。


 ようやくその可能性に思い至る。そんな当たり前に気付けないほど、俺の頭はどうにかなってしまっていたらしい。


 振りかぶった包丁を後ろに投げ捨てた。こいつの上から逃げるように退いた。

 そのまま背を向け、玄関まで走り出す。一度も振り返らない。俺に殺されようとしているのに一度も表情を変えないあいつが、今は怖くて仕方がない。


 玄関を開け、外に飛び出る。

 通路に出ていた隣部屋のババアが、ぎょっとした様子で俺を見た。だが、そんなことを気にしている場合ではない。


 俺は一刻も早く、俺の家から遠ざからなければならない。


 走る、走る。すっかり秋めいた外界は肌寒いはずなのに、俺は数メートル走っただけで息が上がってくる。汗が眉間を伝う。


 エレベーターまでやってくる。

 下のボタンを連打し、しかし液晶を見れば筺は一回に留まったままで、舌打ちを鳴らしながら階段に向かう。螺旋階段を、汗だくになりながら駆け下りる。途中、何度も踏み外し転がり落ち掛ける。


 エントランスに辿り着き、自動ドアに反射する自分の格好のあまりのみすぼらしさに驚く。気にする暇などなく、そのまま敷地の外に飛び出した。


 走りながら、タバコが吸いたかった。

 ボックスを回収する暇は無かった。財布すら持っていない。途中で通り掛かるだろうコンビニを恨めしがって眺めても、タバコは手に入らない。


 逃げて、逃げて、逃げることだけを考えなければ。


 もうあんな状況には戻りたくない。

 俺の、2LDK。当時、妻と結婚した折に契約した俺たちの城。

 あの部屋は妻が死んでしまったことで、外界と隔たれてしまった。俺とあいつで完結した、ヤニと垢のにおいがこびりつく箱庭。今はあいつの死臭で満たされた、あの輝かしい日々を失った俺の廃城。


 あんな場所に戻るくらいなら死んだ方がマシだ。

 殺して殺して殺して。それで世界は何も変わらない。元に戻るだけだ。あいつを殺す結末が待つレールに乗せられているだけだ。そのレールから一刻も早く降りなければ、俺は遠からず壊れてしまう。


 一時の愉しさが、絶望に成り果てるのはあっという間だった。

 俺は、自分がこんなに弱いとは思わなかった。終わりが無いことに気付いた瞬間、俺は取り返しが付かない現状にいるのだと気付いて怖くなった。


 俺はいつまであいつを殺し続ける気なんだ? と。


 そうしてマンションの敷地から抜け出し、ふらふらと走り続けた。

 だが鈍りに鈍りきった俺の身体は、まだマンションが見える場所だというのに立ち止まってしまう。膝に手をつき、嘔吐するみたいに顔を伏せ、ぜぇぜぇと肩で息をする。頭がクラクラする。ヤニクラのようだ。


 ヤニクラ。


 嫌な感じだ。世界は巻き戻り、包丁を持ってあいつの上に跨がるあの瞬間へ――。


 慌てて首を振り、その妄想を掻き消す。


 世界はいつからこんな仕組みになってしまったのか。俺の唯一の楽しみであるタバコを人質に取られているようで、俺にはそれがたまらなく許せない。


 そんなことを考える間にも目眩はひどくなり、遂には立っていられなくなる。

 アスファルトに手のひらと膝をつける。四つん這いの姿勢でも支えきれなくなり、頬を地べたに擦りつける。ひんやりとしていて気持ちが良い。数え切れないほどのひとが踏みしめ、数え切れないほどの汚物が流され、数え切れないほどの害虫がひしめいた道なのに。俺はそのまま意識を手放した。


 ――はずなのに、目を開ければ、俺はこいつの上に跨がっている。


 何が起きているのか、理解できなかった。


 理解できなかったから、とりあえず握った包丁を振り下ろした。

 鮮血が舞い、俺はまたこいつの上に跨がっている。


 そうだ。

 こいつを殺せば、時間が巻き戻るはずなのだ。

 だから俺はこいつを殺さず、尻尾を巻いて逃げ出した。


 つまり、俺はこいつを殺さなかったのだ。

 それなのに、こいつは生きていたはずなのに、時間は巻き戻った。


 こいつは、自分で勝手に死んだのか?


 俺じゃない誰かが殺したのか?


 それとも、またこの規則性を破る何かが起きたのか?


 俺が、こいつを殺すことがトリガーではなかったのか?


 わからない。何もわかるはずがない。


 仮に死んだとして、どうやって? 俺はこいつに触れていない。誰かが殺した。あるいは、こいつがこいつを殺した。自殺は異常だ。ならば正常とはなんだ。実の娘をこいつ呼ばわりし、愉快に殺すことが正常なのか。わからない。普通の家庭を知らない俺は、実の娘を殺すことが善なのか悪なのか判断できない。しかし、殺人は悪だ。ならば当然、こいつがこいつを殺したのは悪だ。違う、こいつは関係ない。俺が、こいつを殺したことが善か悪かの話だ。混乱している。わけがわからない。考えるのをやめてしまいたい。


 怖い。

 こいつが、怖い。

 唯一わかるのはそれだけだ。


 慌てて逃げ出す。巻き戻る直前のように。こいつの上から退き、立ち上がり、玄関へと走り出す。包丁を投げ捨て、玄関を開けた。


 通路に出れば、隣部屋のババアが怪訝な表情で俺を睨んだ。無視する。ババアに構っている暇なんて一秒も存在しない。


 しかし、走り出してすぐに頭がクラクラし始めた。おかしい。まだ十メートルも走っていない。疲労だってそれほど感じていないのに、身体が動くことを拒んでいる。勝手に垂れ始める頭をなんとか上げ、しかし、俺は無意識に振り返った。


 開け放たれた玄関の、その向こう側。


 そこに広がる光景。


 玄関前に投げ捨てた包丁を、あいつは拾い、自分の喉元に突き刺した。


 消火器から噴き出す消化剤のように、勢い良く吹き出す血液の赤。

 部屋を汚し、妻の写真たちを汚し、あいつは無表情のまま死んでいく。そんな光景に、見惚れている俺がいる。


 次第に景色は掠れ、ヤニクラが脳を覆っていく。


 瞬きをすれば。


 俺はまたこいつの上に跨がり、包丁を握り、こいつを見下ろしている。


 逃げる。逃げなければ。

 立ち上がり、包丁を投げ捨てて。


 しかし、それが間違いだとすぐに気付く。


 フローリングへと落ちゆく包丁。包丁は、フローリングに突き刺さった。ガッと、小気味の良い音が響いた。俺は咄嗟に、包丁へと手を伸ばした。


 しかし俺の手は届かない。なぜなら、包丁は先に掴まれた。


 こいつは包丁だけを見ていた。俺を見てさえいなかった。


 飛び付き掴んだ包丁を逆手に持ち、喉元に向ける。


 やめろ。


 そう叫んだ気がする。それが言葉になったかどうかはわからない。


 俺は考えるよりも先に、咄嗟に拳を振り抜いた。


 こいつの喉元に、包丁が刺さろうとする。


 ……だが、俺の方がわずかに速かった。


 こいつの頬に、俺の拳がめり込んだ。

 喉に刺さるはずの包丁はこいつの手から離れ、くるくると回りフローリングに落ちる。こいつの足の甲に突き刺さったりもせず、こいつは背中から壁に吹き飛んだ。


 テーブルや散らかったゴミを巻き込み、こいつは壁に叩き付けられる。

 包丁は小気味の良い音を立て、フローリングに突き刺さる。


 俺はそれらを無視し、散らばったゴミを蹴散らし歩みを進める。

 向かう先には、無表情に俺を見上げるこいつ。


 唇の端に、塗り間違えた口紅のように血が滲む。

 少し、出会ったばかりの妻に似ていると思い、しかしそれ以上を考えるべきでないと思い直し、だから俺はこいつの頭を踏みつける。


 しかし俺の行為を妨げるように、後ろから叫び声がした。


 隣部屋のババアが立っていた。こいつが壁に叩き付けられた騒音に勝手に上がってきたのか。不法侵入だ。皺だらけのまぶたをかっ開き、俺がこれからするだろう行為に言葉を失っている。


 だが関係ない。このババアに構っている暇などない。


 前髪を掴み、引っ張り上げる。こいつは相変わらず痛がる様子も見せず、無表情に俺を見上げる。その鼻っ面を殴ろうと拳を振り上げ、しかし、俺は思い留まる。


 こいつを殺して、また繰り返して何になる?


 何度も問いかけた疑問。


 俺が殺さなかったところで、こいつは自分で死ぬ。

 理由など知りようはずもない。だが事実として、前回こいつは俺の目の前で死んで見せた。


 ならば、俺が殺そうが逃げようが関係無い。俺が何をしようとも、俺はこいつを殺すべき状況に舞い戻り続ける。


 この状況に終わりは無い。俺は未来永劫こいつに跨がり、その昏く底の見えない瞳孔を見下ろしながら、包丁を振り下ろすか逃げるかの選択を迫られ、その選択によって得られる未来に違いは生まれない。


 こいつはいつものギラギラと光る暗澹あんたんの双眸で俺を見上げ、振り返ればババアが玄関から飛び出していった。


 警察に通報でもするのか。

 俺がこいつを殺す前に警察が来れば、俺は牢屋にぶち込まれるだろうか。そうすれば、俺はこいつから隔離され、もう二度とこいつを殺せなくなるだろうか。そうすれば、こいつは死ななくなるだろうか。それがこの状況を解決するだろうか。それは楽観的で脳天気な絵空事だろうか。


 俺は、どうすれば解放されるだろうか。


 ――ごぽりと下水のような音が鳴り、足の甲に生温い温度が滴った。


 あまりにも唐突な感触に、こいつを見下ろす。


 喉元にボールペンを突き刺していた。

 散らかった部屋のどこかに落ちていたのだろう、何の変哲も無い黒いボールペン。

 小さな手で握り、自らの喉に押し込み、口から嘔吐するように血液を溢れている。そこから滴り落ちた血液が、俺の足を汚している。


「待てよ」


 無意識に言葉を発していた。


 なぜって、こんなのはおかしいじゃないか。狂っているじゃないか。


 なぜこいつは、自分で自分を殺すのか。


 俺が殺そうとしているから?

 俺に殺されるくらいなら、自分で死ぬ方がマシだから?

 そうだとして、今までのこいつの行動と矛盾する。されるがままで、自分で何をもしようとしなかったこいつの受動的な態度は、ではいったい何だったというのか。


 決定的に違うのは、こいつの意思表示の有無。

 突然こいつは、自殺という意思を示しはじめた。


 的確に、それが俺を苦しめるとわかっているかのように。


 こいつは、この時間が繰り返していることを知覚しているのか?

 そんなはずはない。だとするなら、こいつは自分の死を恐れず、むしろ望んでいることになる。


 それは異常だ。それで得られるものはいったいなんだ。


 ……俺の苦しむ姿か。


 だとして、俺を殺す方がよほど理に適っているではないか。こんな迂遠な方法で、自分まで苦しむ方法を選ぶ必要など無いではないか。


 ヤニクラ。意識が、俺の手から離れてゆく。


 俺はどうすればいい。


 俺は、どうしたい?


 いつまでこれは続くのか。これ以上繰り返すなど到底耐えられない。淡々と作業のようにこいつを殺すには、俺のこころはまだまだ人間らしさを手放せていなかった。


 こいつを殺すのは、まだ良い。

 だが、こいつが自殺し続けるのは話が違う。


 ……なぜならそこに、俺の意志は介在しない。


 俺は俺の全てを、俺の意志でコントロールできないのだ。


 だったらどうすればいい。

 俺は、どうしたい?


 ヤニクラが脳内を覆い尽くし、そうして時間は巻き戻る。

 俺はこいつの上に跨がり、包丁を握り、こいつを見下ろしている。


 ……こいつを殺さない、自殺させない選択肢だ。


 この地獄のような状況を止めるためには、それを選ばなければならない。


 そんな選択肢があるなど、今まで気付きもしなかった。考えもしなかった。だから俺には、どうしたらいいのかまったくわからない。


 ……握った包丁が、右手から滑り落ちる。


 落下した包丁は刃先を下に向けて加速し、がつんと小気味の良い音を立ててフローリングへと突き刺さる。


 その包丁の柄を、こいつは握った。


 考え事に夢中の俺は、だからこいつの行動に気付けない。


 ――赤黒く染まる景色。


 こいつが死に、俺の意識は再びヤニクラに導かれる。



 どうすれば、こいつを殺さない選択肢を選べるだろう。


 どうすれば、俺は救われるだろう。


 生きているこいつの無表情を見下ろしながら、俺は再び、包丁を手から滑り落とす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る