7~32

 心臓へと突き刺した包丁を、勢い良く引き抜く。


 こぷこぷと湧き出す血液が薄い身体の上を這い、フローリングに落ちる。


 それが合図だ。こいつが命を手放す合図。

 それを察知し、見届け、安堵する。こいつが滞りなく死んでくれて安堵する。


 俺はまた、10月15日を繰り返すのだろうか。


 こいつを殺せば、一日が巻き戻る。


 理由はわからないが、どうやらそんな不可解に巻き込まれているらしい。


 だとすれば、こいつを殺さない方が良かったのでは。


 しかし、それはあまり現実的な考えではない。

 なぜなら俺は、どんな状況でもこいつを殺すだろう。


 それは恐らく自然の摂理とかの類いで、地震や台風、理不尽な交通事故のように逃れようのない必然だ。俺はあいつの顔を見れば殺すだろうし、実際に殺してきたし、今更殺さずに済む方法を探すのは困難だ。


 あるいは、本能的な衝動だろうか。


 人間は理性の生き物だなどと声を大にして言う連中がいるが、それは根本から間違った考えだ。


 本能には抗えない。地震や台風、あるいは交通事故と同じだ。


 暴力的な衝動に駆られれば、人間の理性など容易く吹き飛んでしまうのだ。


 俺はもう、こいつを殺す機械になってしまったようだ。

 こいつという目標が目前にいながら、殺さずにいる状況など考えられない。そういう次元の話はもう、繰り返す10月15日、その最初の一回目に置いてきてしまったのだろう。


 ……少々考えすぎているのかもしれない。


 跨がっていたこいつの身体から退き、立ち上がる。

 動けないように、逃げられないように全体重を掛けて跨がっていたから、こいつの華奢というには脆すぎる身体は、至る骨が無数に折れていた。


 座ったときに軽快な音がした。愉快だと思った。殴るとか、包丁で突き刺すとか、殺すつもりのない暴力が愉しみに変わるとは自分でも思わなかった。


 換気扇の下まで歩き、ボックスからタバコを一本取り出す。火を点け、紫煙を吐き出し、向こうに転がるあいつの死体を見据える。


 昨日……、違う。の10月15日では、大して面白くもない方法であいつを殺した。直近の記憶にも関わらず、まったく印象に残っていない。どういう手段で殺したのか、すっかり忘れてしまっている。


 繰り返しに気付く前。まったく覚えていないその記憶を、俺はこんな気軽さで忘却していったのだろう。日々に対しての興味を失い、死んだ妻以外に関心を失った俺には、あいつを殺した記憶さえ頭に留めてはおけないようだった。


 それから一日が戻り、こうして俺はまた面白くもない方法であいつを殺した。


 俺はもう、完全に狂ってしまっているようだった。


 あいつを殺すという行為に、少しの躊躇いも感じない。

 最初の俺がどうだったのか、それすらも思い出せないが、そのときの俺は流石に何らかの躊躇いを感じていたはずだ。


 ……こいつを殺して、俺はそれからどうするつもりだったのか。


 死体は日ごとに腐るだろう。死臭も腐臭も部屋に満ち満ちて、その強烈な臭いは隣のババアの部屋まで流れ着くだろう。すると大家なり管理会社に連絡がいくはずだ。隣の家から異臭が漂ってくる、どうなっているんだ。ああいう手前勝手なババアは形振り構ったりもしないはずだ。大家なり管理会社の社員が訪ねてくる。死体を放置する俺は、もちろん誰も中に招き入れない。大家は権限を振りかざし、家の中に押し入ってくる。死体が見つかる。警察に連絡がいく。俺は晴れて刑務所暮らしが決まる。


 こんな生活に未練の欠片も感じてはいないが、刑務所に入れられるのだけは勘弁だ。そういう可視化された未来が怖かったから、この状況はなかなかどうして悪いとは思えなかった。


 何度でも、あいつを殺せる。


 嫌悪感を覚えてやまないあいつを、何度も何度も、その都度違うシチュエーションで殺せる。

 次はどんな方法で殺そうか、考えるだけでわくわくしてくる。


 こんな空恐ろしい状況に、俺はもう完全に適応してしまっている。俺の扁桃体は、もうとっくに壊れていたわけだ。


 あのとき、確かに覚えた恐怖感。

 愛する妻の声すら、俺には絶望を報せる鐘の音のように聞こえた。が、今の俺にはもう、笑い話の一つに成り下がっている。


 灰皿にタバコをねじ込み、最後にこいつの死体を見下ろした。


 完璧に、完全に死んでいる。

 しかし、俺が眠って起きれば、こいつはまた動き出す。俺が殺したという結果は、なかったことになってしまう。


 また俺の前に現れ、あの眼で俺を見るのだろう。

 それが自分をどういう結果に追い込むのか、こいつはわかっているのだろうか。


 わかっていて、にも関わらず殺されているのだろうか。こいつと会話などしたくないから、俺の知るところではないのだが。


 寝室の扉を開け、思考を振り切りベッドに飛び込んだ。


 目を瞑れば、妻の声が聞こえてくる。


「あなた、今日もあの子のこと、殴ったの?」


 いつもなら寂しささえ感じる、その穏やかな声。だが今の俺には、少し違う印象を与える。

 口角が卑しく上がるのを自覚する。


「あぁ、もちろんだ。昨日も殴ったし、明日からも殴るだろう。この世界は、そういう風に作り替えられてしまった。俺は自分に与えられた権利とか使命とか、不本意ではあるが……、そうだ。それらを全うしなければならないからな」


 寝返りを打ち、薄く目を開く。

 彼女は、無表情に俺を見下ろしている。


「……変わってしまったのね」


 無感動な声が、俺の鼓膜を甘く揺らした。

 こんな表情ができる女だっただろうかと、俺は少し不安になる。


「あなたが、そんな風になってしまうとは思わなかった。足りないものを、取り戻してほしいと思ったのよ。あの子を殴るのは、仕方ないと思っていた。だって、もうあなたを無条件に愛してくれるひとはいない。私が死んで、あなたは生きづらい思いをしているのも知ってた。だから、機会が必要だと思ったのよ」


「機会とは、なんの機会だ?」


 反射的にそう訊ねた。


 機会。

 彼女がくちを酸っぱくして言う、その言葉の意味。


「あの子と幸せに暮らしていくための、全てをやり直す機会」


「俺はあいつと幸せに暮らしたいとは思わない」


「あなたはいつもそう。自分のことばかりで、私やあの子のことなんて全然考えない。そういうあなたも好きだったけれど、愛していたけれど……。でも、もう少し私の気持ちを汲んでくれても罰は当たらないわ」


 そう言う彼女の表情は、秒毎に悲しみの色を帯びてくる。


 見ているのがつらくなった。

 生きていたときは、いつも笑ってくれたじゃないか。どんなときも、俺に笑いかけてくれたじゃないか。


 あいつと幸せに暮らすことが、そんなにも大事だろうか?


 俺にはよくわからない。


 むしろ、俺にはそれがとても悲しいことに思えた。


 俺と彼女の思い出は、あの輝かしい日々はどこに行くのだろう。

 俺と彼女の間には、不純物などあってはならなかった。それが、俺と彼女の間に生まれた子どもであってもだ。


 塵ほどの価値も持たない前提だ。俺には結局、彼女しか愛せない。彼女とあいつは違う個体だ。例えば双子の子どもを、区別せずに愛したりするか? 俺には彼女しかいないのだから、あいつを彼女の代替品にするなど考えもしなかった。そこから見出される価値など、あるはずさえないと思っていた。


「……ならば俺は、罰を受けるべきなのだろうな」


 真面目に答えるのも面倒だったから、俺はそう誤魔化した。


 彼女の顔を改めて見上げれば、そこにはただ、無表情があった。


「そう」


 何かを諦めるように、彼女が溜息を吐く。


「それならあなたが望むように、罰を与えようと思うわ」


 そう言う彼女は、やはり何かを諦めているのか。

 諦められてしまったからこそ、彼女は俺にそう言うのだろうか。


 彼女に見限られてしまった事実が、遅効性の病毒のように脳内を埋め尽す。

 だからどんな罰を与えられるのか、という現実に少しも目を向けられない。


 なぜなら、当然だろう。


 ――彼女はもう、七年前に死んでいる。


 いくら俺の頭がお花畑だからとはいえ、彼女はもう死んでいるのだ。


 ならば俺が今こうして話すのが何なのか、という点を考える必要はない。

 考えても仕方のないことだからだ。それはもう、俺の中ではある種の折り合いがついている現実なのだ。


「あなたはきっと、あの子を一番に考えるようになる」


 彼女はそう言った。

 俺はもう何も考えずに目を瞑り、睡魔に身を委ねることだけを意識した。


 果たして、俺は彼女の言う通りになるのか。


 その予言が前提から破綻していると、彼女は理解しているのだろうか。


「あなたはきっと、あの子を一番に考えるようになる」


 意識がブラックアウトしてゆく。


 深く眠れれば良いと思った。

 起きたらあいつを殺すのだ。少しでも深く眠り、英気を養わなければ。それ以外に考えるべきことなど何も無かった。


 ――俺は包丁を振りかぶり、こいつに跨がっている。


「は?」


 くちから勝手に声が出た。


 こいつは無表情に俺を見上げ、王に供物を捧げる市民のように、その骨と皮だけの身体を俺にさらけ出している。


 心臓を、首筋を。


 切れ味の悪いこの包丁が、こいつに致命傷を与えるに足る得物だと俺は知っている。当然だ。他でも無いこの包丁で、何度もこいつを殺したのだから。


 違う。


 重要なのは包丁じゃない。もっと根本的な問題だ。


 俺は妻の言葉を聞きながら眠ったはずだ。


 そう、確かに眠った。入眠の瞬間さえ覚えている。妻の言葉も、口調も含めて正確に思い出せる。「あなたはきっと、あの子のことを考えるようになる」いくら物覚えの悪い俺だって、たった数秒前を忘れるはずがない。


 数秒前だ。俺はベッドに横になり、こんな状況とは無縁だった。


 ベッドにいたのだから。そうだ、ベッドにいたのだ。

 何がどうしてこうなったのか。理解できない。理解できるはずがない!


 ……ただ、理解できる事実もある。


 それはこの状況が、こいつを殺す最高のシチュエーションだということだ。


 心臓を、首筋をさらけ出すこいつ。

 抵抗はしない。抵抗されたことは一度もない。


 ただ、そのギラギラと光る眼が俺に向けられるだけだ。


 それだけのことが、何より俺を苛つかせた。


 ……だが、まずは現状を把握しなければ。


 しかし、こんな絶好の機会をみすみす逃すのか。


 あぁ、考えるのが鬱陶しい。


 ……だから、振りかぶった包丁を、勢いよく振り下ろした。


 血流が噴き出した。


 こいつが死んだ。


 それだけのことだ。


 俺は立ち上がり、寝室を目指す。


 しかし、不意の立ちくらみに視界がゆらぐ。

 タバコも吸っていないのに、ヤニクラに似た感覚に襲われる。


 体勢を崩し、目元を手で覆った。

 フローリングに崩れ落ち、埃だらけの床に手をついた。

 離れ掛けた意識が、再び俺の手元に戻ってくる。


 覆った手を外せば。


 ――俺は包丁を握り、生きているこいつに跨がっている。


 噴き出た血しぶき。部屋を覆う死臭。それらは全てなかったことになる。


 こいつは変わらず、俺にギラギラと光る眼を向けている。


 何が起こっている。

 何が起こっている?


 わけがわからない。わけがわからない!

 俺はこいつを殺したはずだ。たった今、殺したはずだ。にも関わらず、そんな事実などなかったようにこいつは生きていて、こいつは生きている。


 俺が振り下ろした包丁はこいつの心臓に突き刺さったはずだ。しかし、こいつは生きている。心臓に穴などない。生きている。完膚なきまでに、生きている。


 果たしてこの状況はおかしくないのだろうが、これはおかしなことだ。

 規則性があったはずだ。規則性? 何の規則性だ? 殺した人間を再び殺す異常な状況にいながら、規則性だなどと詭弁以外の何だというのだ。


 これは、絶対にありえない異常だ。


 何度もこいつを殺した異常な事態にも、確かに規則性だけはあったのだ。


 それは俺が寝て、起きること。それが日付のリセットのトリガーだ。


 だが、それは本当にトリガーだったのか?


 わからない。

 わからないが、こいつは生きている。俺に殺されるのを待っている。


「それならあなたが望むように、罰を与えようと思うわ」


 彼女の言葉を思い出す。つい数分前の言葉だ。


 死人が生者に与えられる罰など、あるはずがないと思った。

 生きた彼女が与える罰なら、それは恐ろしい罰になるだろうと思っただけだ。


 フローリングについた手。包丁をたぐり寄せて振りかぶる。振り下ろす。突き刺す。肉を刺して骨に弾かれた感触。血しぶきが舞い、刃先を通して鼓動の停止が伝わる。死んだ。これは圧倒的な死だ。


 ヤニクラが再び俺を襲う。


 引き抜いた包丁が、手から零れ落ちる。からんと、金属音。


 再び手をつき目を開ければ。


 ――こいつはまた、生きている。


 あんなにも圧倒的だった死が、無かったことになっている。


 俺は再び包丁を手に取る。

 振り上げ、振り下ろす。

 血しぶきが舞い、ヤニクラ。


 ――目を開ければ、こいつは生きている。


 死んだ事実が、無かったことになっている。


「ふざけるなッ!」


 俺は、叫び声を留められなかった。


 これは理不尽だ。

 殺したら生き返る。それがそもそもの理不尽なのに、殺した瞬間に無かったことになるなど許されるはずがない。許されるはずがない! ふざけるのも大概にしろ。ふざけるのも大概にしろ!


 包丁を手に取る。

 振り上げ、振り下ろす。

 血しぶきが舞い、ヤニクラ。

 目を開ければ、こいつは生きている。


 包丁を手に取る。

 振り上げ、振り下ろす。

 血しぶきが舞い、ヤニクラ。

 目を開ければ、こいつは生きている。


 包丁を手に取る。

 包丁を、手に取る。

 手に取った包丁が、手から滑り落ちる。


 こんなことをして何になる。


 こんなことをして何になる!


 殺した瞬間に時間が巻き戻るなど、俺はそんな異常など知らない。

 こいつを殺すことに歓びを抱けないなら、こんな状況そのものが無意味だ。俺はこの無意味をいつまで続ければ良いのだ。永遠か? 永遠とは何時間だ。何分か? 永遠の終わりはいつ訪れるのか? この宇宙はビッグクランチを迎える宇宙モデルだったか? 俺は俺の思考を制御できない。


 意味など最初から無かった。

 わかっている。だからきっとこの状況は、俺を苦しめるために存在する。


『それならあなたが望むように、罰を与えようと思うわ』


 脳裏をよぎる妻の言葉。まさかと、俺はその考えを切り捨てる。


 笑ってみた。

 部屋に、俺の笑い声が反響した。

 見下ろせば、こいつはいつもの昏い眼で俺を見据えている。

 その瞳に感情の色は見出せない。俺の声だけが、虚しく響いている。


 立ち上がり、よろよろと換気扇へと向かう。ボックスに残ったタバコの一本を手に取り、火をつける。紫煙を吐き出し、その行く末を見送る。


 煙が向かう先は、いつの間にか立ち上がっているあいつの顔面だ。副流煙をまともに受けながら、瞬きさえする様子もない。


 ただ、立ち尽くしている。ただ無感情に、俺を見据えている。


 こいつは全てを理解しながら、こんな表情をしているのではないか。


 唐突にそう思った。


 全てを理解し、俺の精神が病毒に冒されていくのを期待し、それが楽しく愉快で、だからそんな表情をしているのではないか。


 俺にはこいつの考えなどわからない。どれだけ考えたってわからない。こいつへの理解など、妻が死んだあの日に置いてきたのだから。


 持っているタバコをあいつの顔面に投げつける。しかし鈍った俺の肩は狙い通りには飛ばず、間抜けな放物線を描きリビングの床に落ちる。


 そんなことはどうでもいい。


 近くにあったペーパーナイフを手に取り、歩みを進め、こいつの右目へとねじ込む。ごりゅっ、と醜い音を立て、ペーパーナイフは柄の半分までこいつの顔に吸い込まれる。そのまま捻り、押し込み、破れた水道管みたいに血液を撒き散らすこいつの顔面を右手で掴み、床に押し付ける。フローリングに吸い込まれるこいつの身体は、ばたんと大きな音を立てて落ち、もう動かずぴくぴくと痙攣している。


 目眩がする。例のヤニクラだ。


 これが、時間が巻き戻る合図。


 もう理解した。

 理解していようとどうにもならない。

 目元を押さえて崩れ落ち、手放し掛けた意識は、再び俺の元に戻ってくる。


 ――俺は包丁を持ち、こいつに跨がっている。


 脱出不可能の迷路だ。


 俺は迷い込んでしまったのだ。こいつと、俺と。それだけで完結した世界に。


 いや、それはきっと正しくない。俺はもう随分前からこの迷宮の入口に這入りこんでいたのだろう。


 気付いていたはずだ。状況の異常さを愉しむ余裕など無かったはずだ。


 だから後悔している。後悔? 何に対して? わからない。だが、俺は確かに後悔している。この気持ちが本物だと断言できる。


 ただ、後悔が必ずしも正しさをもたらすわけではない。


 握った包丁を捨てられるわけではないということだ。


 だから振り下ろす。


 鮮血が舞う。


 こいつが死に、時間が戻る。


 俺はいつまでこの時間を繰り返すのだろう。

 いつまで苦しみ続けるのだろう。


 分からない。


 もう何も考えたくない。

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