目が覚めた。くだらない日常が、また始まった。


 ……だがこれは、本当にくだらない日常の延長線なのか。


 頭まで被ったタオルケットを足下に蹴たぐり、大きく息を吸った。

 そうして深く吐き出す。ニコチンの含まれない濁った空気なのに、それだけで頭が急速に回転してくるような気がする。気分は、案外悪くない。


 まず、確かめなければならない。


 10月15日が、本当に繰り返しているのかという疑問を。


 それが事実なら、俺は永遠に10月15日を繰り返さなければならないのだ。


 いや、もしかすれば、もう何度も繰り返してきたのだろう。


 夢を見ているのだと錯覚した。正常な思考を捨て置いてしまったのだと決め付けた。確信を得るまでに、随分と時間を掛けてしまったのだろう。

 ともあれ、こんな理不尽に巻き込まれたのなら、抜け出す道を探さねば。


 ループする時間に閉じ込められた人間に与えられた使命は、その方法を探すものだと相場が決まっている。望んで閉じ込められたならまだしも、こんな時空に囚われていれば遠からず俺の精神は壊れてしまう。


 フィクションに登場するキャラクターの気持ちが、今ならわかる気がする。そうして抜け出た未来には、溢れんばかりの希望が俺を待ち受けているのだ。


 希望など、最悪なくてもいい。


 そんなものは、妻が死んだときに置いてきた。


 ただ、明日があればいい。それだけでいい。


 俺がこんなことを思うなど、本格的に頭がおかしくなってきたのかもしれないが。


 布団から抜け出し、キッチンへと向かう。

 その途中、棚の上に置いたデジタル電波時計の前で立ち止まる。


 真っ直ぐに換気扇へと見据えた視線を、ゆっくりと動かす。ゼンマイ式の人形みたいに、ぎこちない動きで首を動かして、その液晶へと視線を合わせる。


 10月15日、13時半。


 ……ごくりと、生唾を飲み込んだ。


 霞みゆく思考を辛うじてたぐり寄せ、換気扇へと向かう。

 ボックスに残った三本から一本を抜き出し、咥え、火を付ける。


 落ち着きを取り戻すために深く吸い込み、肺に満たして掻き混ぜ、ゆっくりと吐き出す。いつもより透明色に薄まった吐息が、部屋の空気と混じっていく。その行く末を見届けて、目を瞑る。


 ……10月15日が、繰り返している。


 俺の杞憂は、杞憂のままであることを許さなかった。


 覚悟を、決めなければならない。

 何に対する覚悟なのか、それを見誤るほどはおかしくなっていない。


 ――これから起こり続けていくだろう、俺の現実について。


 がちゃりと、扉が鳴った。


 静かに目を開き、見据えた。


 あいつが、立っている。


 立っているなら、どうしなければならない?

 考えるまでもない。


 ……殺さなければならない。


 直感は大事にしなければ。真っ先にそう思ったのだから、それが俺の正解だ。


 近付き、見下ろして、その姿を目に焼き付ける。


 小汚い服を着ている。Tシャツにジーンズ。もう何週間もこの服装のまま過ごしている。替えの服は用意していない。そもそも、こいつに着替えの習慣など無い。それを教えるべき妻は死に、落伍者である俺が教えられるはずなど無かった。


 ギラギラと光る双眸。痩けた、というよりは削がれたような頬。

 その顔面に向けて。


 腕を振り上げる。

 体勢を崩してしまうほどにかぶりを振った。


 振り下ろす。


 この世の果ての音が響いた。

 骨が折れた音が響いた。


 愛すべきはずの娘の顔が。

 陥没し、血飛沫が舞って。


 それでも俺は殴るのをやめない。


 殴るのをやめた先に待つ未来を、直視できるはずなど無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る