5
目が覚めた。くだらない日常が、また始まった。
ベッドから抜け出し、キッチンへと向かう。
ニコチンが足りないせいか、頭が正常に働いていない。
みし、みしと軋む床を踏みしめながら、フローリングに足の裏の皮脂がこびり付くのを感じながら、新しく買ってきたタバコに思いを馳せた。
換気扇の下に来れば、置かれたタバコのボックスに違和感を覚える。
開けて一本吸っただけのボックスが、こんなにボロボロになっているだろうか。そもそも、こんな場所に置いただろうか。もっと左側に置いたような気がしたのだが……。
ボックスのケースを開ければ、三本しか残っていない。
どこか既視感のある動作に強烈な違和感を覚えるが、今は何よりもタバコを吸うこと先決だ。
一本取り出して、火を付ける。思考が明瞭になってくる。そうして思い出す。
昨日は、そう。買い物に出掛けたのだ。
新しいタバコを買った。一本だけ吸って寝たのだから、ここには十九本残っているボックスが置いてなければならない。
寝ぼけているのかと思い、もう一度ボックスのケースを開いてみる。
残っているのは二本。俺が今吸っているこいつと合わせれば、三本。
どう考えてもおかしい。
俺が寝ている間に、あいつがくすねたのだろうか。いや、あいつに喫煙の習慣など無い。試しに吸ったのだとしても、十六本も吸えるはずがない。
いや、そもそもの前提を間違えている。
なぜなら、俺は確かにこの手で、あいつを殺したのだ。
そう思い返して、部屋を見渡す。
昨日と様子は変わらない。あいつを殺す前と、同じ部屋だ。
あいつの血で塗れたはずの部屋は、妻の写真は、綺麗なままそこにある。
黄色く変色した壁紙を、写真たちを、綺麗だと言えるかは置いておくとしても。
ともかく、赤黒く染まっていない点だけをみれば、綺麗だと言える。
夢だったのか。
それとも妄想だったのか。
……いや、それは無い。絶対に、有り得ない。
俺は確かにあいつを殺した。二回も殺したのだ。
一回目は夢か妄想か、どちらかだったかもしれない。いや、同じ人間を二度も殺せるはずなどないのだから、間違いなく夢か妄想だ。
……いや、そもそもそれは、本当は一回目ではなかったのかもしれない。
記憶は不鮮明で、自分が何を考えているかもよくわからない。
……ともあれ、昨日のことは手に取るように思い出せる。こんな俺でも、寝る前のことくらいは覚えているはずだ。
タバコを咥え、深呼吸する。ニコチンが、思考を濾過してくれる。
明瞭になってきた思考を辿れば、あいつの左目に出刃包丁を突き立てた映像が脳裏に再生される。血柱を噴き出す映像が続く。ゆっくりと床に倒れゆく映像で終わる。俺の中のあいつは、紛れもなく間違えようもなく死んでいる。
それはとても、夢や妄想なんかでは片付けられない現実感だった。
俺は今、夢を見ているのだろうか。
試しにフィルター近くまで減ったタバコの先を、火種を手の甲に押し当ててみた。
熱かった。いや、これは冷たさか? 間違ってドライアイスを手に取ってしまったときのような感覚だ。どちらだろうと些末な問題だ。今、俺が感じているこの場所が現実だとわかれば何でも良い。
フィルターが焦げ掛けたタバコを灰皿の、吸い殻の山にねじ込み考える。
これは夢ではない。
では、昨日だと思うこの記憶が夢なのか。
よく、わからない。
だから、ボックスを手に取って、タバコをくわえた。
火を付けて紫煙を取り込めば何かがわかる気がしたが、俺の鈍い頭では、ニコチンで濾過された思考を捻っても何もわからなかった。
そんな風に油断していたからだ。
……がちゃりと、扉が鳴った。
その音に、指に挟んだタバコを落としかけた。
その隙間から、あいつが顔を出した。
長くなった灰が、代わりに床に落ちていった。
ギラギラと光る眼が、俺を捉えて離さない。
俺はそっと、灰皿にタバコを押し付けた。
ゆっくりと、恐る恐るあいつの方へと近付いていく。
煙臭くなった指で左目を掻いて、残った右目でこいつを見続けた。
こいつの目の前に立って、見下ろした。
昨日や一昨日と代わり映えのしない俺を見透かすような眼で、こいつは俺を見上げている。
無意識に、右手を伸ばしていた。
握っただけで折れてしまいそうな細い首を、握っていた。
俺の心配は杞憂で、握っただけで折れるなんてことはなかった。
だから、握る力を強めた。どくんどくんと、頸動脈が発する鼓動が、俺の手のひらに伝わってくる。
「お前は死んだはずだ」
何年か振りに、こいつに言葉を掛けた。
こいつは、何も答えない。
首を絞めているのだから、当然だ。
「お前は、死んだはずだ」
繰り返し言っても、答えは返ってこない。苦しむような素振りも見せない。眉一つ動かさずに、俺を見上げている。
妻に似ている。その考えを投げ捨てる。ギラギラと光る眼は光を失わない。ただ、俺の中の何かを見透かすためだけに、光らせている。その態度が、俺の問い掛けに対する答えだと言わんばかりに。
「何か言え」
こいつは何も答えない。
「何か言えよ」
こいつは、何も答えない。
「何か言えって言ってんだよッ!」
衝動的に、左の頬を殴っていた。形容しづらい、くぐもった音が鳴った。
鼻から血を流しながらも、こいつは表情を変えずに俺を見上げ続けている。それしかできないのではなく、それしかしないという意思表明に取れた。それが俺の気分を害する最高の手段だと分かっているようだった。
だから、もう一度殴る。
血飛沫が舞って、近くに貼ってある妻の写真を汚した。
もう一度殴る。
頬の骨が、甲高い音を立てて陥没した。
もう一度殴る。
陥没した頬の骨が、形を歪めていく。
もう一度殴る。
左目が完全に塞がって、それでもこいつは表情を変えない。
握った首を思い切り向こう側に押し込んだ。後頭部が壁にぶつかって、部屋が軋んだ。そのまま、何度も何度もこいつの身体を壁に押し当てた。みし、みしと壁が鳴る。ごふっ、ごふっとリズミカルに息を吐き出すこいつ。しばらく続けていれば、首から歪な音がした。ゴキッとも、バキッとも言えない絶妙な音だった。その音がきっかけか、こいつの首は頭を支えられなくなった。首の据わっていない赤子のようにだらりと頭を垂れてしまう。
殺した。これ以上ないくらい分かりやすい死だった。
襟首を引き寄せて、後頭部を覗いてみる。
血液に塗れた襟足の、てらてらと光る髪の毛の向こう側。骨は陥没していて、でも内側は見えそうで見えない。黒いその隙間をじっと見ていれば目玉が現れて俺を見返してくる、というありもしない想像が過ぎった。
怖くなって、投げ捨てる。
壁に当たってバウンドし、俺の足下に縋るように落ちてくる。
気味が悪くなって、蹴り飛ばした。
仰向けに倒れたその顔は、天井へと向けられた。
死んでしまえば、あのギラギラした眼で俺を見ることもできないようだった。
そんな当たり前のことに、今さらのように気付いた。
そのままこいつの死体に背を向け、換気扇の前に戻ってくる。
最後の一本になってしまったタバコに火を付けて、虚空を見つめた。
何が起こっているのか、相変わらず理解出来ない。
夢や妄想の類い、ではないだろう。こんなにもリアリティに溢れた夢など、生まれてこの方見たことがない。
だとするのならば、一つの仮定が生まれる。
――それは、時間が巻き戻っているという馬鹿げた仮説だ。
非現実にも程があるが、そう考えざるを得ない。
俺があいつを殺せば、日付が一日戻る。
俺はいつものように眠り、いつものように起きるだろう。
日付感覚の無い俺には、今日が何月の何日かもわからない。
ただ、あいつが生きている。それが全てを物語っている。今日という日が繰り返される。俺は、あいつを殺し続ける。そういう仮定だ。
馬鹿な、と思う。
だが、俺はもうあいつを何度か殺している。頭がおかしくなりそうな言い草だ。何度か殺している、何度か殺している! 一人の人間を、何度か殺しているのだ。こんな悪夢みたいな言い草が他にあるだろうか!?
深呼吸するように煙を吸い込み、ゆっくり深く吐き出した。紫煙は壁にぶつかり、上下左右に散った。俺の考えがくだらないのだと、否定してくれているように見えた。それは俺の願いだ。紫煙も壁も、意思表示などしないのだから当然だ。
自分が混乱している、ということだけがわかった。
それ以上わかるはずもなかった。
とりあえずシャワーを浴びようと思った。それからタバコを買いに行かないと。
もしも仮に時間が巻き戻っているとして、その仮定が事実だとすれば、俺がこれからしようと思っていることはまったくの無意味だ。
時間が戻ってしまえば、買ったものはまた店に戻ってしまうし、洗った身体は昨日と同じ垢に塗れてしまうのだから。
しかし身体には死臭がまとわりついているし、タバコはなくなってしまったので、Tシャツをその辺に放り投げながらそれ以上を考えるのをやめた。
手短にシャワーを浴びて、外が少し肌寒いことを思い出しながら、上着を羽織りながら外に出た。隣の部屋のババアが訝しげな視線を寄越してくるのを無視して、コンビニへと向かった。
帰って、一服をして、あいつが完璧に死んでいることを確認して、寝室に向かう。
その途中、昨日の行動をなぞるようにデジタルの電波時計を見た。
10月15日、14時半。
思わず二度見した。
昨日は、いや、俺が寝る前は、なんと表示されていたか。
10月14日、じゃなかったか? そうに違いない。いや、そうじゃなきゃ困る。
でなければ、おかしいじゃないか。
昨日も10月15日だったなんて、それは絶対に有り得てはならないことだ。
時間は不可逆だ。河の水が海に流れ込むのと同じでなければならない。原則的に、海の水は河に戻ったりしない。可逆性のない、絶対の理だ。時間が巻き戻ってしまえば、この世界を、社会を縛っている全てのルールは崩壊する。
やり直しが利かないこその人生だ。
だから皆は後悔しながら成長するし、後悔しながら死んでいく。
あの時あぁしていれば。あのとき選択肢を間違えていなければ。そういう、当たり前の戯言を吐きながら。
だが、それが、現実になってしまえば――、
俺はあいつを、永遠に殺し続けるということに、なるのではないか。
嫌な汗が、背中を伝った。
汗をかいているのに、嫌な寒気に震えた。
もう、考えるのをやめよう。
そう自分に言い聞かせた。これ以上無駄なことを考えたって仕方が無い。
そもそもが考えても無意味なことだ。
明日は絶対にやってくる。それは俺の半生が保証している。でなければ妻が死ぬなんて、そんな悲劇は有り得なかった。やり直すとするなら、あの瞬間だ。
あの時、彼女を迎えに行くのを渋ったりしなければ。
俺の人生は、ここまで堕落することなどなかったのだから。
「殺してしまったのなら、仕方がないわ。またやり直せばいいだけなのだから」
不意に、耳元に妻の吐息を感じた。
言葉が直接、脳髄に叩き込まれるような感覚。
やり直せばいい。
そう。
彼女は確かに、枕元に立って俺にそう言った。
……それは、何かを予言するような言い方ではなかったか?
いても立ってもいられなくなり、寝室の扉を開け放った。閉めることも忘れて、そのままベッドに倒れ込んだ。タオルケットを頭まで被って、震えながら目を瞑った。
「あなた、今日もあの子のこと、殴ったの?」
妻の声がする。いつものことなのに、それがとても恐ろしい。
愛して愛する彼女の声が、今はこんなにも恐ろしい。
「まぁ、いいわ。あなたは悪くないもの。あなたは誰にも責められることをしていないし、責める誰かがいたとして、そんな連中は私が排除してみせるわ」
タオルケットを、耳に押し当てる。それが例え無駄なことだとしても、俺はそうせざるにはいられない。
「だって、そうでしょう? そんな事実は、あなたが寝て起きたら無かったことになるんですもの。海の水が、河を駆け上がるみたいに。紙をなぞるボールペンのインクが、ペン先に戻るみたいに。責めた言葉は、また誰かのくちの中に戻るのだから」
震えながら目を瞑る。
寝て起きれば、また明日がくるはずだ。
そう信じて、目を瞑る。
「そういえば、神様の懐が広いだなんて、誰が言い出したのかしらね」
目を瞑る。
ぎゅっと、裂けてしまうほど強く瞑る。
「神様の懐はとても狭いわ。狭量なのよ」
意識が、闇に同化していくような感覚が、こんなにも優しく感じる。
「そう例えば、世界みたいにね」
俺の意識は、そこで途絶えた。
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