目が覚めた。くだらない日常が、また始まった。


 ベッドから抜け出し、キッチンへと向かう。

 ニコチンが足りないせいか、頭が正常に働いていない。

 みし、みしと軋む床を踏みしめながら、フローリングに足の裏の皮脂がこびり付くのを感じながら、新しく買ってきたタバコに思いを馳せた。


 換気扇の下に来れば、置かれたタバコのボックスに違和感を覚える。


 開けて一本吸っただけのボックスが、こんなにボロボロになっているだろうか。そもそも、こんな場所に置いただろうか。もっと左側に置いたような気がしたのだが……。


 ボックスのケースを開ければ、三本しか残っていない。


 どこか既視感のある動作に強烈な違和感を覚えるが、今は何よりもタバコを吸うこと先決だ。


 一本取り出して、火を付ける。思考が明瞭になってくる。そうして思い出す。


 昨日は、そう。買い物に出掛けたのだ。

 新しいタバコを買った。一本だけ吸って寝たのだから、ここには十九本残っているボックスが置いてなければならない。


 寝ぼけているのかと思い、もう一度ボックスのケースを開いてみる。


 残っているのは二本。俺が今吸っているこいつと合わせれば、三本。


 どう考えてもおかしい。

 俺が寝ている間に、あいつがくすねたのだろうか。いや、あいつに喫煙の習慣など無い。試しに吸ったのだとしても、十六本も吸えるはずがない。


 いや、そもそもの前提を間違えている。


 なぜなら、俺は確かにこの手で、あいつを殺したのだ。


 そう思い返して、部屋を見渡す。

 昨日と様子は変わらない。あいつを殺す前と、同じ部屋だ。


 あいつの血で塗れたはずの部屋は、妻の写真は、綺麗なままそこにある。

 黄色く変色した壁紙を、写真たちを、綺麗だと言えるかは置いておくとしても。


 ともかく、赤黒く染まっていない点だけをみれば、綺麗だと言える。


 夢だったのか。

 それとも妄想だったのか。


 ……いや、それは無い。絶対に、有り得ない。


 俺は確かにあいつを殺した。二回も殺したのだ。

 一回目は夢か妄想か、どちらかだったかもしれない。いや、同じ人間を二度も殺せるはずなどないのだから、間違いなく夢か妄想だ。


 ……いや、そもそもそれは、本当は一回目ではなかったのかもしれない。


 記憶は不鮮明で、自分が何を考えているかもよくわからない。


 ……ともあれ、昨日のことは手に取るように思い出せる。こんな俺でも、寝る前のことくらいは覚えているはずだ。


 タバコを咥え、深呼吸する。ニコチンが、思考を濾過してくれる。

 明瞭になってきた思考を辿れば、あいつの左目に出刃包丁を突き立てた映像が脳裏に再生される。血柱を噴き出す映像が続く。ゆっくりと床に倒れゆく映像で終わる。俺の中のあいつは、紛れもなく間違えようもなく死んでいる。


 それはとても、夢や妄想なんかでは片付けられない現実感だった。


 俺は今、夢を見ているのだろうか。


 試しにフィルター近くまで減ったタバコの先を、火種を手の甲に押し当ててみた。


 熱かった。いや、これは冷たさか? 間違ってドライアイスを手に取ってしまったときのような感覚だ。どちらだろうと些末な問題だ。今、俺が感じているこの場所が現実だとわかれば何でも良い。


 フィルターが焦げ掛けたタバコを灰皿の、吸い殻の山にねじ込み考える。


 これは夢ではない。


 では、昨日だと思うこの記憶が夢なのか。


 よく、わからない。

 だから、ボックスを手に取って、タバコをくわえた。


 火を付けて紫煙を取り込めば何かがわかる気がしたが、俺の鈍い頭では、ニコチンで濾過された思考を捻っても何もわからなかった。


 そんな風に油断していたからだ。


 ……がちゃりと、扉が鳴った。


 その音に、指に挟んだタバコを落としかけた。


 その隙間から、あいつが顔を出した。


 長くなった灰が、代わりに床に落ちていった。


 ギラギラと光る眼が、俺を捉えて離さない。


 俺はそっと、灰皿にタバコを押し付けた。


 ゆっくりと、恐る恐るあいつの方へと近付いていく。


 煙臭くなった指で左目を掻いて、残った右目でこいつを見続けた。


 こいつの目の前に立って、見下ろした。


 昨日や一昨日と代わり映えのしない俺を見透かすような眼で、こいつは俺を見上げている。


 無意識に、右手を伸ばしていた。

 握っただけで折れてしまいそうな細い首を、握っていた。


 俺の心配は杞憂で、握っただけで折れるなんてことはなかった。

 だから、握る力を強めた。どくんどくんと、頸動脈が発する鼓動が、俺の手のひらに伝わってくる。


「お前は死んだはずだ」


 何年か振りに、こいつに言葉を掛けた。


 こいつは、何も答えない。

 首を絞めているのだから、当然だ。


「お前は、死んだはずだ」


 繰り返し言っても、答えは返ってこない。苦しむような素振りも見せない。眉一つ動かさずに、俺を見上げている。


 妻に似ている。その考えを投げ捨てる。ギラギラと光る眼は光を失わない。ただ、俺の中の何かを見透かすためだけに、光らせている。その態度が、俺の問い掛けに対する答えだと言わんばかりに。


「何か言え」


 こいつは何も答えない。


「何か言えよ」


 こいつは、何も答えない。


「何か言えって言ってんだよッ!」


 衝動的に、左の頬を殴っていた。形容しづらい、くぐもった音が鳴った。


 鼻から血を流しながらも、こいつは表情を変えずに俺を見上げ続けている。それしかできないのではなく、それしかしないという意思表明に取れた。それが俺の気分を害する最高の手段だと分かっているようだった。


 だから、もう一度殴る。


 血飛沫が舞って、近くに貼ってある妻の写真を汚した。


 もう一度殴る。


 頬の骨が、甲高い音を立てて陥没した。


 もう一度殴る。


 陥没した頬の骨が、形を歪めていく。


 もう一度殴る。


 左目が完全に塞がって、それでもこいつは表情を変えない。


 握った首を思い切り向こう側に押し込んだ。後頭部が壁にぶつかって、部屋が軋んだ。そのまま、何度も何度もこいつの身体を壁に押し当てた。みし、みしと壁が鳴る。ごふっ、ごふっとリズミカルに息を吐き出すこいつ。しばらく続けていれば、首から歪な音がした。ゴキッとも、バキッとも言えない絶妙な音だった。その音がきっかけか、こいつの首は頭を支えられなくなった。首の据わっていない赤子のようにだらりと頭を垂れてしまう。


 殺した。これ以上ないくらい分かりやすい死だった。


 襟首を引き寄せて、後頭部を覗いてみる。

 血液に塗れた襟足の、てらてらと光る髪の毛の向こう側。骨は陥没していて、でも内側は見えそうで見えない。黒いその隙間をじっと見ていれば目玉が現れて俺を見返してくる、というありもしない想像が過ぎった。


 怖くなって、投げ捨てる。

 壁に当たってバウンドし、俺の足下に縋るように落ちてくる。


 気味が悪くなって、蹴り飛ばした。

 仰向けに倒れたその顔は、天井へと向けられた。


 死んでしまえば、あのギラギラした眼で俺を見ることもできないようだった。

 そんな当たり前のことに、今さらのように気付いた。


 そのままこいつの死体に背を向け、換気扇の前に戻ってくる。

 最後の一本になってしまったタバコに火を付けて、虚空を見つめた。


 何が起こっているのか、相変わらず理解出来ない。


 夢や妄想の類い、ではないだろう。こんなにもリアリティに溢れた夢など、生まれてこの方見たことがない。


 だとするのならば、一つの仮定が生まれる。


 ――それは、時間が巻き戻っているという馬鹿げた仮説だ。


 非現実にも程があるが、そう考えざるを得ない。


 俺があいつを殺せば、日付が一日戻る。


 俺はいつものように眠り、いつものように起きるだろう。

 

 日付感覚の無い俺には、今日が何月の何日かもわからない。


 ただ、あいつが生きている。それが全てを物語っている。今日という日が繰り返される。俺は、あいつを殺し続ける。そういう仮定だ。


 馬鹿な、と思う。


 だが、俺はもうあいつを何度か殺している。頭がおかしくなりそうな言い草だ。何度か殺している、何度か殺している! 一人の人間を、何度か殺しているのだ。こんな悪夢みたいな言い草が他にあるだろうか!?


 深呼吸するように煙を吸い込み、ゆっくり深く吐き出した。紫煙は壁にぶつかり、上下左右に散った。俺の考えがくだらないのだと、否定してくれているように見えた。それは俺の願いだ。紫煙も壁も、意思表示などしないのだから当然だ。


 自分が混乱している、ということだけがわかった。


 それ以上わかるはずもなかった。


 とりあえずシャワーを浴びようと思った。それからタバコを買いに行かないと。


 もしも仮に時間が巻き戻っているとして、その仮定が事実だとすれば、俺がこれからしようと思っていることはまったくの無意味だ。


 時間が戻ってしまえば、買ったものはまた店に戻ってしまうし、洗った身体は昨日と同じ垢に塗れてしまうのだから。


 しかし身体には死臭がまとわりついているし、タバコはなくなってしまったので、Tシャツをその辺に放り投げながらそれ以上を考えるのをやめた。


 手短にシャワーを浴びて、外が少し肌寒いことを思い出しながら、上着を羽織りながら外に出た。隣の部屋のババアが訝しげな視線を寄越してくるのを無視して、コンビニへと向かった。


 帰って、一服をして、あいつが完璧に死んでいることを確認して、寝室に向かう。


 その途中、昨日の行動をなぞるようにデジタルの電波時計を見た。


 10月15日、14時半。


 思わず二度見した。


 昨日は、いや、俺が寝る前は、なんと表示されていたか。


 10月14日、じゃなかったか? そうに違いない。いや、そうじゃなきゃ困る。


 でなければ、おかしいじゃないか。


 昨日も10月15日だったなんて、それは絶対に有り得てはならないことだ。


 時間は不可逆だ。河の水が海に流れ込むのと同じでなければならない。原則的に、海の水は河に戻ったりしない。可逆性のない、絶対の理だ。時間が巻き戻ってしまえば、この世界を、社会を縛っている全てのルールは崩壊する。


 やり直しが利かないこその人生だ。

 だから皆は後悔しながら成長するし、後悔しながら死んでいく。


 あの時あぁしていれば。あのとき選択肢を間違えていなければ。そういう、当たり前の戯言を吐きながら。


 だが、それが、現実になってしまえば――、


 俺はあいつを、永遠に殺し続けるということに、なるのではないか。


 嫌な汗が、背中を伝った。


 汗をかいているのに、嫌な寒気に震えた。


 もう、考えるのをやめよう。

 そう自分に言い聞かせた。これ以上無駄なことを考えたって仕方が無い。


 そもそもが考えても無意味なことだ。

 明日は絶対にやってくる。それは俺の半生が保証している。でなければ妻が死ぬなんて、そんな悲劇は有り得なかった。やり直すとするなら、あの瞬間だ。


 あの時、彼女を迎えに行くのを渋ったりしなければ。

 俺の人生は、ここまで堕落することなどなかったのだから。


「殺してしまったのなら、仕方がないわ。またやり直せばいいだけなのだから」


 不意に、耳元に妻の吐息を感じた。


 言葉が直接、脳髄に叩き込まれるような感覚。


 やり直せばいい。


 そう。


 彼女は確かに、枕元に立って俺にそう言った。


 ……それは、何かを予言するような言い方ではなかったか?


 いても立ってもいられなくなり、寝室の扉を開け放った。閉めることも忘れて、そのままベッドに倒れ込んだ。タオルケットを頭まで被って、震えながら目を瞑った。


「あなた、今日もあの子のこと、殴ったの?」


 妻の声がする。いつものことなのに、それがとても恐ろしい。

 愛して愛する彼女の声が、今はこんなにも恐ろしい。


「まぁ、いいわ。あなたは悪くないもの。あなたは誰にも責められることをしていないし、責める誰かがいたとして、そんな連中は私が排除してみせるわ」


 タオルケットを、耳に押し当てる。それが例え無駄なことだとしても、俺はそうせざるにはいられない。


「だって、そうでしょう? そんな事実は、あなたが寝て起きたら無かったことになるんですもの。海の水が、河を駆け上がるみたいに。紙をなぞるボールペンのインクが、ペン先に戻るみたいに。責めた言葉は、また誰かのくちの中に戻るのだから」


 震えながら目を瞑る。


 寝て起きれば、また明日がくるはずだ。


 そう信じて、目を瞑る。


「そういえば、神様の懐が広いだなんて、誰が言い出したのかしらね」


 目を瞑る。

 ぎゅっと、裂けてしまうほど強く瞑る。


「神様の懐はとても狭いわ。狭量なのよ」


 意識が、闇に同化していくような感覚が、こんなにも優しく感じる。


「そう例えば、世界みたいにね」


 俺の意識は、そこで途絶えた。

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