目が覚めた。くだらない日常が、また始まった。


 ベッドから抜け出し、キッチンへと向かう。

 ニコチンが足りないせいか、相変わらず頭は正常に働いていない。

 みし、みしと軋む床を踏みしめながら、フローリングに足の裏の皮脂がこびり付くのを感じながら、タバコはもう切らしてしまっていたのだと気付いた。


 しかし、換気扇の前に行けば、昨日と同じようにタバコが置かれている。

 ボックスのケースを開けてみれば、まだ三本ほど残っていた。


 一本を取り出し、百円ライターで火を付けた。残っていたなら、言うことはない。


 昨日の俺は不覚にも錯乱していたのだろう。タバコの本数を認識する正常ささえ持ち合わせていなかっただけの話だ。別段、気にするようなことでもない。吐き出した紫煙が、部屋を白く、黄色く染め上げていく。


 落ち着いた頭で、部屋を見渡してみる。


 壁にはびっしりと、妻の写真が貼り付けられている。


 俺が、彼女に出会ったときから撮り続けた写真。


 貼ったのは、もちろん俺だ。

 妻が死んでから、もう七年も経つ。


 ということは、この写真が部屋を飾るようになって、もう七年も経過するのか。


 俺は妻が死んだという現実を、現実たらしめたくはなかった。

 ひとは死ぬ。等しく死ぬ。それは紛うことなき現実で、でもそれは受け取る側次第だとも俺は思う。


 妻が死んだ。人々はくちを揃えてそう言う。


 だが、俺がそれを認めなければ、妻はまだ俺の知らないところで生きているかもしれない、という仮定が生まれる。


 俺に内緒でどこかに隠れていて、そのうちひょっこりと顔を出してくれるだろう、という希望が生まれる。


 そういう気持ちは、存外に大事なものだ。死は忘却のシステムだから。

 そのひとがこの場所に立っていたという過去の現実を、現在の現実によって塗り替えていく作業だから。


 だから、写真を貼った。

 帰ってくるそのときまで、妻の顔を忘れてしまわないために。

 もちろん俺が、愛して愛して愛した妻の顔を忘れてしまうなんて、そんな間抜けなミスをするなど有り得るはずが無いのだが。


 しかし、妻は俺にこう言った。


「写真は、思い出に形を与えるシステムなの。それを部屋に飾るのは、思い出を風化させていくことに似ている。現にほら、私の顔は、あなたの吐き出した煙で黄色くなってしまっている」


 妻が死んで、三年目のことだった。四年前か? 時間というのはとてつもない速さで過ぎていくものだ。

 そんな当たり前の事実を突き付けられて、俺は何も言えなくなった。


 見れば、妻の顔は確かに黄色く変色している。

 画鋲一つで壁に飾った写真たちは、その角を内側に丸めて、貼り付けられるのを嫌がっているようにも見える。


 妻は、風化されるだけの現状を嫌がっているのだろう。胸が痛くなる。それは、喫煙行為のせいではない。


 だが、今さら剥がしてしまえるわけがなかった。


 俺は、沢山の妻に見つめられるこの空間にいられて安心している。

 壁中に貼られた妻が俺を見ている感覚が、押し寄せる快楽のように俺の脳髄を満たしてくれる。妻が、妻たちが俺を見つめている。泣いたり笑ったり、色々な表情で。どの表情も、俺の愛する妻を構成する大切な要素だ。


 これらを剥がすということは、俺から妻を遠ざけることと同義だ。それはよほど風化という現象を表していると思わないか?


 そんな地獄絵図のような環境で生きていく自信はなかった。


 フィルター近くまで灰になったタバコが、俺の指先を焼こうとしている。灰皿の真ん中にねじ込んだ。山となった吸い殻の中心に突っ込んで、煙臭くなった指で目を掻いた。


 妻の死について考えを巡らせるなんて、俺としたことがどうかしていた。


 これも、あいつを殺してしまったことによる弊害だろうか。


 愛海まなみ。俺と妻の間に授かった、たった一人の娘。


 そいつを、俺は殺した。


 妻を、愛していた。俺には彼女しかいなかったから。

 でもそれ以外の人間には興味を抱けなかった。スーパーに並ぶじゃがいもと区別が付かなかった。冗談や例え話なら、誰かを笑わすことができたかもしれないが、ただの事実だったから、ただの笑えない話だった。


 俺は彼女に出会ったそのときに、思ったのだ。


 あぁ、俺はこのひとに出会うために生まれてきたのだと。


 つまらない人生だった。勉強だけが取り柄の、つまらない人間だった。つまらない人生を、これからもおくっていく確固足る予感があった。そんなつまらないに塗れた人生を、真っ向から否定してくれたのが、妻という存在だった。


 俺は妻と関係を得るために、ありとあらゆる方法を試した。

 色々と障害はあったが、その方法の幾つかが講じて、俺は彼女と関係を持てるに至った。最終的には、結婚もできた。

 それは、俺が求める最上級のしあわせという形だった。


 俺は妻を、愛していた。

 愛して、愛して、愛することでこの世界に蔓延るつまらないという感情を排除し続けた。それは、俺がこの世界で生きていく上で一番大事な行為だった。


 だから、俺が子どもを望むのも必然だった。

 妻はまだいらないと言ったが、俺には自信があったのだ。

 俺と妻の子どもだ。愛せないわけがなかった。


 しかし、俺は自分の子どもすらも例外だと感じていたようだった。


 愛せないから殴る、虐げる。そういう簡単な理屈でもないが、俺はついに水を目一杯溜めたダムが決壊するかのように、あいつを殺してしまったわけだ。


 気分は、しかし思っていたよりも晴れない。

 昨日枕元で妻が言っていた言葉が、俺の脳裏にはまだ残っている。


「殺してしまったのなら、仕方がないわ。またやり直せばいいだけなのだから」


 そう言った彼女。


 やり直せばいい、とはどういうことだろう。

 俺は、確かにあいつを殺してしまったのに。


 あいつを殴ったときの感触は、まだこの手に残っている。


 骨張った顔を殴った感触を。フケだらけの前髪を掴み、キッチンの収納棚の取っ手に後頭部を打ち付けたときの振動を。ガリガリに痩せ細っているのに、殴ってくれと言わんばかりに浮き出た腹に、足を振り下ろしたときの反応を。あいつを痛めつけて、殺したときの光景を。俺は、まだ明確に覚えている。


 やり直す機会なんて、もうどこにも無い。


 俺は過去やしがらみから解放され、この狭いマンションの一室で、妻と二人で生きていくことだけを考えられるはずだった。


 俺だけに話し掛けてくれる妻と、ただ緩やかに死んでいく俺。

 その完結した円環のなかで、俺は生きていけるはずだった。


 あいつは確かに、現し身のように彼女にそっくりだが。


 だが、それがどう作用してくれる?

 彼女に似ているのは、顔だけだ。その顔も痩せぎすで、よくよく見れば彼女には似ても似つかない。


 彼女の代わりになるものなど、この世には存在しないのだ。


 ――がちゃりと、扉が鳴った。


 二本目のタバコに火を付けようと、ボックスのケースを開いたときだった。


 控えめな動きで開く、娘の部屋の扉。

 そこから顔を出す、昨日殺したはずの愛海の頭。


 俺の方を向き、いつものように、生きていたときのように、ギラギラとした視線を向ける。

 身体は今にも死に絶えそうなのに、眼だけが生きている。俺の中身を見透かすような眼だ。こいつと二人で生活し始めてから、こいつはずっとその眼で俺を見ていた。


 だから改めて、こいつを殺さなければならないと思った。


 こいつが俺をそんな眼で見た直後に、そう確信した。


 昨日のことは、ひとまず棚に上げることに決めた。


 そういう難しいことは、今は考えなくてもいい。夢を見ていたんじゃないのかとか、遂に俺の頭が救いようも無いくらい狂ってしまったんじゃないのか、とか。


 考えられることは幾らでもある。だが、そういう些細なことは、もっと冷静になってから考えればいい。


 そういう面倒なことより、考えるべきことはもっと沢山あるはずだ。


 例えば、うちにある包丁は、あいつの身体をバラバラにするに足る強度を持ち合わせていただろうかとか、そういうことだ。


 視線をあいつに固定したまま、収納棚を開けて、出刃包丁を取り出した。


 柄を強く握って、一歩を踏み出す。


 包丁を手に持ち近付いているというのに、あいつは怯える様子も狼狽える様子もなく、立ち尽くしたまま俺を見据えている。


 ……そういうところが気にくわないのだ。

 包丁を振り上げて、勢いよく振り下ろした。


 ギラギラと光る眼が気にくわなかったから、その左目に突き刺してやった。

 呆然と立ち尽くすこいつの左目から、ぴゅるぴゅると赤い液体が溢れ出てくる。

 半分ほど突き刺してやったから、脳まで達しているだろう。このまま横にへし折ってやれば、こいつをいつまでも苦しめ続けるかもしれないと思ったが、引き抜いてやることにした。それは決して、優しさが理由ではない。


 噴水のような血流が、部屋を、妻の写真を汚していく。


 勢いよく溢れ出した血液は俺の身体にもかかり、とても汚らわしいと思った。


 でも、気分は悪くなかった。

 だから、壊れた配水管みたいに血液をまき散らすこいつの顔をぶん殴った。


 倒れるこいつの身体に興味は無いから、流しに向かった。がたんと大きな音が部屋に響き、俺は蛇口を捻った。入念に手を洗って、タオルで拭いて、換気扇の前でタバコに火を付けた。


 ゆっくりと紫煙を吐き出しながら、あいつの死体を眺めていた。


 昨日もあいつを殺したから(我ながら精神病患者の妄言のようだ)、心は動かなかった。夢であれ妄想であれ、反復はただの作業だ。


 ここは俺の城だから、俺に不快な思いをさせるものは排除しなければならない。そう思ったから殺したに過ぎない。


 だからあいつは俺に感謝するべきだとも思うのだ。


 今まで生かしておいたやったことに。


 どういう扱いだったにせよ、俺はあいつのために生きるスペースを与えて施していたのだから、感謝して死ぬべきなのだ。


 そう考えれば、気分はますます晴れやかになってくる。


 シャワーを浴びよう。そうして買い物に行こう。タバコはもう切れてしまうし、買い溜めしていた食料もなくなってしまいそうだ。


 俺は気分良くシャワーを浴びて、近くのコンビニに向かった。

 適当に買い物をして帰ってくる。マンションの通路を歩いていれば、隣の部屋のババアが訝しげな視線を俺に向けていたが、気にはならなかった。


 玄関を開ければ、部屋は死のにおいで充満していた。


 死体を跨いで、寝間着に着替えて、タバコを一本だけ吸って、買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞って、寝室に向かった。


 こんな生活をするようになって、日付や曜日の感覚も消え失せていた。思い出したようにデジタルの電波時計を見れば、10月15日の14時半と表示されている。

 季節は秋だったか。どうりでTシャツだけでは少し肌寒いと感じたわけだ。


 そのままベッドに仰向けに転がって、目を瞑った。


 妻の気配がした。


「あなた、今日もあの子のこと、殴ったの?」


 昨日と同じ質問だった。

 口調も息継ぎの場所も、録音した音源を再生したみたいだと思った。


「今日は包丁を使ったよ。突き刺してやった」


 淡々と答えれば、彼女の溜息の音が聞こえた。

 そういう問題じゃない、と言外に責められているのが分かったが、俺はもう微睡み始めていて、答える気力もなかった。


 眠りへと落ちていく意識が、彼女の言葉を辛うじて拾う。


「やり直す機会を与えられたのに、ばかなひと。もう少し私とあの子の気持ちを汲んでくれても、罰は当たらないと思うわ」


「あぁ……」


「まぁ、でも。あなたのそういうところも、私は好きよ。時間は無限にあるのだから、あなたはあなたなりの道を見付ければいいと思うわ。死人に口なしってね。私がわざわざ口出しすることでもないのだから、あなたの好きにすればいいの」


「そう、だな……」



 寝返りを打ち、彼女の言葉から逃げる。

 饒舌な彼女も好きだが、今は少しだけ鬱陶しいと思ってしまった。


「許してくれるといいわね」


「誰が?」


「神様が」


 神様なんて、彼女は信じていただろうか。


 よく分からないが、今は眠ってしまうことにした。


 彼女はもう、何も言わなかった。

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