幸福へと終わる
八神きみどり
3
紫煙で白く澱んだ空気が、ぐらりと揺らいだ。
振るった拳は、つやのない鈍い音を立てた。
皮膚と薄い肉にラッピングされた骨を殴ったと言っても過言ではなかった。
だから、殴った手はじんじんと痛みを訴える。
どさりという音が部屋に響くが、悲鳴は続かない。
人間を殴れば、爽快感ですっきりするものだと信じていた。
日頃抱える鬱憤や、吐き出すあてのない悩み。俺みたいな落伍者にだって、そういう感情は例外なく付きまとう。
世間の目とか、幻聴の妻の声とか。
俺を責めて苛むものはこの狭いマンションの一室にも溢れ、それらを払拭したかった――と言えば言い訳に聞こえるだろうが、ともあれ、楽になりたかったのだ。楽になってどうするか、その先を考える気力はなかったが。
だから、言い訳だった。
爽快感を求めていただけだ。
もう一度、拳を振るってみる。
つやのない鈍い音が、また部屋のなかに反響する。
みっともなく両手を後ろにつき、俺を見上げる幼い少女の顔、その頬を。
浮き出た頬の骨を目掛けて、殴る、殴る。
だが、爽快感はどれだけ殴っても芽生ず、俺の気分は一秒を数えるごとに苛立ちを増す。
握った拳を、より強く握りしめる。
勢いをつけて、振り下ろす。
鼻頭にめり込んだ拳が、鈍い痛みを訴えた。
ぼたぼたと鼻血をこぼしながら俺を見上げる双眸は、相も変わらずぼけた黒色に光っている。
苛立ちは消えない。気分は指数関数的にマイナス値を駆け上がる。
あぁ、タバコが吸いたい。が、生憎にも切らしている。
荒れる呼吸は、壁紙が吸ったニコチンの残り滓をも摂取しようと必死になるようだ。自分を俯瞰する自分の姿が脳裏にちらつく。そのドロステ効果の視界の中に、当然そいつも含まれている。
殴る拳が痛かったから、つま先を投げ出す。
三日間履き続けた灰色のソックスは、ぼっこりと浮き出た腹の鳩尾に吸い込まれる。
ごふっと、下水が詰まるのに似た濁った音を立て、背中を丸める。
不快な姿に変わりないが、俺を見据えるぼかした黒色が消えて気分は高揚する。
だが、それすらも気にくわなかったから顎先を蹴り上げる。
バウンドするゴムボールのような勢いで持ち上がる頭は、流しのシンク下の収納棚の取っ手にぶつかり致命的な音を立てる。鮮血が散る。
だらりと首をもたげる伸ばしっぱなしの前髪を強引に掴み、思い切り引き上げる。
力無い表情だ。だが、瞳の色だけは変わらない。
ぎらぎらと光る、ぼかした黒色。
喉が下水の音を鳴らすなら、これは下水の色だ。俺の気分を逆撫でる。
だから、鼻先をもう一度殴る。それで消えない可能性を考慮し、前髪を掴み何度も後頭部を取っ手に打ち付ける。
下手くそな日曜大工の光景が脳裏をよぎった。
どん、どん、と愉快なリズムを刻んで頭が揺れる、揺れる。鮮血が散る、舞う。
これは非生産的な行為だと自分に言い聞かせる。こんなことをしても何にもならない。俺が手を汚してまで、奪うことに意義のある命ではない。
爽快感も次第に薄れ、残ったのは沈黙を続けるこいつの死体と、冷め切ってしまった俺自身だけだ。
しゃがみ込み、顔を覗く。だらしなく口角から唾液と血液を垂れ流し、その視線は完全にあちら側へと旅立ってしまった穢らわしいこいつの亡骸。
もう、殴るほどの興味も残ってはいない。
あの世に行った手向けとして、俺の持てる最大の力を込めて鳩尾を踏み付けてやる。例の下水に似た音を立て、小さな口からは少なくない量の血液が流れ出す。その様子を視界の端に留めながら、完全に興味を失うのを感じる。
ふぁぁと、一つあくびをする。
明らかにニコチンが足りていない。
この光景に既視感を覚える気もするが、正常に働かない頭が見せるデジャブだと決め付けた。判断力は手放して久しい。自分の正しさを精査するのは、今の俺にはとても難しいことだった。
タバコを買うために近くのコンビニまで行こうかと思うが、自分の身体を見下ろせばそんな気も失せてしまう。
白いTシャツにはところどころ赤黒いシミ。時間の問題かもしれないが、こんな格好で外に出れば逮捕してくれと言っているようなものだ。
ともあれ、外出できないのなら寝るしかない。
ボリボリと、Tシャツの中に手を突っ込んで腹を掻く。ヌメヌメとした皮脂が爪の間に溜まってゆくのを感じる。
風呂に入るのも面倒だったから、そのまま寝室へと向かった。
身体を投げ出すように、ベッドへと仰向けに倒れ込んだ。
目を瞑れば、声が聞こえてくる。
「あなた、今日もあの子のこと、殴ったの?」
妻の声だ。あいつの呻き声のように、またはかつて俺を散々怒鳴り散らした上司や両親のように。俺の気持ちをざわつかせることのない、優しい声だった。
「あぁ」と答えれば、妻の滑らかな指先が俺の顎先をなぞった。
「気持ち悪くて、我慢できなかった。無遠慮にぎらつくあいつの眼光が、俺の気分をざらつかせるんだ。それが耐えられなくて、殴った。殺した」
「あの子は、なんて言っていた?」
「何も喋らない。あいつは俺に何も言わない」
「ただ、見ているだけ?」
「そうだ。ただ、見ているだけだった」
目を開けば、妻は何かを惜しむような視線を俺に向ける。決して俺を責めているわけではないと、わかっているはずなのにこころがざわつく。
妻が、俺を見限ることなどあるはずがないのに。
「殺してしまったのなら、仕方がないわ。またやり直せばいいだけなのだから」
「そうだな。やり直す機会があればの話だが」
よく意味の分からない言葉に答えれば、妻はあの日と同じように、俺に微笑みかけてくれる。
「機会なんて、そんなものは有り触れているわ。望んでも、望まなくても。あなたはきっと、あの子とやり直す機会を得るでしょう」
そう言って、俺の頭を優しく撫でてくれる。
俺は瞳の重さを支えきれなくなる。
このまま、永遠の眠りにつければいいのにと思った。
その前にタバコが吸えたら、なお最高だと思った。
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