第3話


 梅の香りがしていた、中学三年生の春。

 その日水野さんは「用事がある」と言って、学校が終わると駅に向かった。


 「ねえ、用事ってなに?」

 「別に大したことじゃないの、ごめんね」


 そう言って改札へ向かう水野さんは、いつも以上に明るい笑顔を見せていた。

 私はその謝罪の意味を聞くこともできず、こんな時間からやらなければいけない「用事」ってなんなのかと、気になっていながらそれ以上深く追求することもできなかった。


 だって、それが生涯の別れになるなんて思わなかった――

 だって、その様子は本当に明るく見えたのだ――

 だって、死ぬような人じゃなかった――


 そんなのも全部、言い訳だ。

 私はその背中を、どうしても引き留めなければいけなかった。

 遠ざかっていく水野さんの手を取って、


 ――ねえ、こんな時間からどこにいくの?

 ――ねえ、どうして今日はそんなに笑顔なの?

 ――ねえ、また明日ね?


 そんな一言をひとつでも口に出せていたら、今も水野さんはこの世にいたんじゃないかって。

 私と同い年の彼女に、仕事の愚痴でも言えていたりしたんじゃないかって。


『……』

「……」

 

 その日、水野さんはどこかの崖から海のなかに身を投げたのだという。

 その様子は私には想像するしかないけど、きっとたぶん、頭から反対向きに落下して、最期に見た景色は夜空だったのだろう。

 足元に空が広がって、世界が反対に見えるように。


『……』

「……」


 ――いつも一緒に帰ってくれる友達だけが、私の人生の救いでした。

 

 遺書の最後にはそう書かれていたという。

 それを知って私は、もう何もかもが手遅れで、私には涙を流す権利もないのだということを知った。

 だってあろうことか私は、受け止めきれないほどの後悔と共に、ほんの少しだけ


 ――そこまで想ってもらえて嬉しい

 

 と感じてしまったのだ。


『ねえ、朱音ちゃん、そんな顔しないで』


 彼女はそう言って私の方までもっと近づいてきて、その背を伸ばして私の頬にキスをしてくれる。柔らかくて冷たい彼女の感触。

 私は嬉しい気持ちを感じてしまわないように、彼女の視線から目を逸らした。


『お願い、笑って?』


 そう言われても私はなにも返せず、笑顔になることもできない。

 ただもうずっとこの場所にいたいと思う。

 十三年前から今までずっと、それだけを望んでいる。

 夢も現実も曖昧で、空も地面も反対のこの場所。見上げれば現実があって、その現実には彼女がいなくて。だったらもう、水野さんが最期に見たこの景色のなかに、ずっといたいと思う。

 このまま一緒に空を見下ろしながら、手を繋いで、どこかにいってしまえたらな、と願っている。


『……』

「……また、来るよ」


 でも、私は現実に帰らなければならない。

 仕事を辞めようが、苦しかろうか、その意味がわからなくても、私は生きていかなければならない。生きて彼女のことを想って、こうして墓参りをしなきゃいけない。

 だって、ここにいる彼女は、私の見ている幻だ。

 だったら、私がいなくなったら彼女も消えてしまう。

 私は――二度も彼女を喪うわけにはいかない。

  

『……うん、待ってる』


 彼女はそう言って笑った。





 空が地面に戻る音が聴こえてくる。

 夢から醒める、静かな音。

 枯れてしまったかすみ草の花と空になったペットボトルと私が、現実に戻されていく。


 彼女のいない、私の生きる現実へ。

 



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また来るよ きつね月 @ywrkywrk

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