第2話


 今でも思ってる。

 彼女――水野さんは、自分で死んだりするような人じゃなかった。



 家の都合で中学校入学と同時にこの町に引っ越してきて、知り合いもなにもいなかった新しい学校、新しいクラス。

 隣の席の水野さんは、こんにちは、と気さくに挨拶をしてくれて、人見知りがひどかった私は面食らったものだった。

 とても同い年とは思えない大人びた人だな、というのが第一印象だった。

 その雰囲気も、ゆっくりとした話し方も、とても自分と同じ中学一年生とは思えない。いつも落ち着いていて穏やかで、まるで先生とでも話しているような印象で、それは生涯変わることはなかった。


『お帰り、待ってた』


 彼女はそう言って、自分のお墓の上からひょい、と飛び降りた。

 軽快なその仕草。セーラー服のスカートがふわりと開いた。

 私はなにも言えない。

 二十七歳の私から見ても、彼女は大人びていて、そして綺麗だ。

 そんな姿にはやっぱり見とれてしまうのだ。


『ねえ、なんか言ってよ』


 呆れたように彼女が笑う。

 いつの間にか彼女のお墓の周りにはなにもなくなって、代わりに青空が海みたいに地面に浮かんでいた。

 見渡す限り一面の青。ふかふかと沈む雲。

 彼女と会うといつもこうだ。現実の景色と記憶のそれが白昼夢のように混じりあい、地面も空も反対の世界になってしまう。彼女自身がそういう存在であるかのように。


「……」


 そう、わかってる。

 水野さんはもうこの世にはいないのだ。こんな風に会話など、できるはずもないじゃないか。

 それは重々わかっていて、でも、目の前の彼女から目を離すことはできない。

 

『もう』


 呆れたように彼女は笑って、私の方に歩いてくる。

 私はなにも言えない。

 彼女はすぐ側まで近づいてきて、私の手に握られていたスーパーの袋から覗いている花を手に取った。

 つむつむと咲いている、白いかすみ草の花。

 、という花言葉は、生前の水野さんから教わったのだ。水野さんはこの花が好きだった。


『お花、持ってきてくれてありがとね』

「……よく似合ってる」


 私はようやく口を開いた。

 『なにそれ』、と彼女はやっぱり笑うけれど、本当にそうなのだからしょうがない。

 さらさら揺れる髪、セーラー服、白いかすみ草、笑顔。

 似合っている。本当に、怖いくらい。


『ねえ、いつものもある?』

「……もちろん」


 私はスーパーの袋から、自動販売機で買った飲み物を取り出す。

 私にはちょっと甘すぎるカフェオレのペットボトル。差し出すと、彼女は嬉しそうにそれを受け取って、飲んだ。


『いいね、やっぱりこれじゃなきゃ』

「……それ、甘すぎると思うんだけど」

『そこがいいんじゃない?』


 そう言って、私に返してくる。

 私も飲んでみる。

 うん、やっぱり甘すぎる。

 学校から帰っているときに水野さんがよく飲んでいたカフェオレの味。

 普段は大人っぽいのに、こういう甘いものも好きなんだと、私は少し嬉しくなったのを覚えている。


『ねえねえ、朱音あかねちゃん。なにかお話しして?』

「お話?」


 聞き返すと、彼女は笑って頷いた。

 

「お話、ねえ」

『なんでもいいの』

「そう言われてもなあ……あ、そういえば、最近私は仕事を辞めたよ」

『そうなんだ?』

「そうなんだよ」

『お仕事、大変だった?』

「……まあ」

『……そっか』

「でも辞めたのはそれが理由じゃない。一番きつかったのは入社してすぐのときだから、それは乗り越えてたし」

『……』

「そうじゃなくて、なんか、なんかね――


 彼女のいない世界で、どうしてのうのうと私は生きているんだろう――時間が経って年を取る度にそんな思いが強くなる。



 水野さんの机の中から見つかった遺書には、同居していた義父から暴力を受けていたという内容が書かれていた。

 誰にも言えなかったのだという。

 友達だったのに。毎日一緒に帰ったりして、きっと私がいちばん近くにいたのに。

 私は水野さんの父親が、本当の父親でなかったことすら知らなかったのだ。


『ねえ、そんな顔しないで』

「……」

『朱音ちゃんのせいじゃないんだから』

「……」


 目の前の彼女がそう言うのを、私は黙って聞いている。

 水野さんはもういないのだ。目の前の彼女は本物の彼女ではなく、じゃあなんなのかと言われたら、きっと私が見ている幻なのだろう。

 私は、こんな風に彼女に許されたがっているのだろうか。

 のうのうと、そんなことを思ってしまっているのだろうか。


「……」


 他の子みたいに泣いたり怒ったりすることもなく、いつも穏やかな笑顔を崩さなかった中学生の水野さん。

 でもあれは、今思えば、そう演じていたのではなかっただろうか。

 子供の精神ではとても生きていけない環境で、まるで何が起きても平気な大人みたいに振る舞っていただけのことではなかったのか。

 一緒に帰るとき、水野さんはいつも私の家の方まで遠回りをしてくれた。だから彼女の帰る時間は毎回遅くなった。

 でもその事を私が気にすると、


 ――


 と言って笑っていた。

 その方がいい――って、どういう意味?と訊いても、曖昧に濁して答えてくれなかった。

 私は変に深入りして関係が崩れてしまったら嫌だと思って、それ以上の話は聞けなかったけど、それも言い訳になるだろう。

 そんな風に家に帰りたがらなかったこと、水野さんの口から家族の話が滅多に出てこなかったこと、たまには私が遠回りして水野さんの家の方に行こうかと提案すると、いつも断られていたこと――今思えば、その家庭の事情について、気がつける要素はいくらでもあったのではないだろうか。

 そういう思いが、今でも消えない。


「……」


 彼女の手にしていたかすみ草の花がいつの間にか萎れている。

 私が持っていたペットボトルはいつの間にか空になっている。

 それに気がついたとき、急に周りが暗くなって、また景色が変わった。


『……』

「……ここは」


 ……ここは、ああ、そうそう。思い出すまでもない。

 目の前にあったはずの彼女のお墓が消えて、足元に広がっていた青空もなくなって、その代わりに現れたのは、星空に浮かぶ夜の駅だった。 

 綺麗に改修される前の、木造の古びた駅。



 私たちが最期に別れた場所。


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