【番外 ③】〜保丸の独り言〜 ※【第84話まで読破した方向け/ネタバレ注意】第84話まで読破いただいた後にお暇なら目を通してみて下さい

 この度は【混迷の東国 〜関東戦乱史〜】をごえつどくいただき誠にありがとうございます。


 どうもまるです。



 当コーナーは、【本編の内容を取り上げて解説・補足するコーナー】です。


 よって、本編ではございませんのでお時間に余裕のある方、もしくは詳細を知りたい方に読み進めていただければ幸いです。


 尚、この回はあくまでも【第84話を読み終えた方向け】に話しを進めますので、まだ読み終えていなく、うっかりこのページに辿たどり着いてしまわれた方には、「スルー推奨」いたします。










 では早速いきましょう。



 現在、いなむらぼうの足利みつさだと、ささがわぼうの足利みつただを本編に登場させておりますが、今回はこの両ぼうについてです。


 まず始めに、本編でも軽く記した『1399年の同時期に設置された』説から。


 これは近年徐々に増えつつある『かまくら関連』の著書によって異なり、著者(歴史研究家)の方々がどの史料を参考にしているかで、捉え方に相違があるみたいです。


 そして、『1399年両ぼうこう』説の元となっている史料が以下。


かまくらおおぞう』:「おうえい六年(1399年)春より両国のとして、鎌倉殿(関東公方)御弟みつさだみつただ二人御下向、いなむらささがわ両所に御座」


 とあり、


なべひさ氏:『関東公方足利氏四代(吉川弘文館)』(2002年)


いく氏:『下野長沼氏 (中世武士選書)』(2012年)


等、多くの方々が引用しています。



 一方、この説に意を唱えるのが以下。


すぎやまかず氏:『図説 鎌倉府(戎光祥出版)』(2019年)


によると、

・足利みつただの元服儀礼が鎌倉で行われた形跡があること

のくにでの初見史料がおうえい二十年(1413年)代以降であること


から、兄みつただの下向時期については、


「四代鎌倉公方足利持氏の年少期、犬懸上杉氏の主導による鎌倉府の奥羽政策との関連でとらえるのがおんとうであろう」


と、述べています。


 尚、この説については、


くろもと氏:『足利持氏とその時代(戎光祥出版)』(2016年)


うえしんぺい氏:『鎌倉公方と関東管領(吉川弘文館)』(2022年)


等がこうてい的に捉えています。



 さて、ここまで説明してもうお分かりかと思いますが、本編は後者の説を参考にさせていただきました。


 実はどちらの説を引用しようか悩みに悩み、結論を出すのに半年以上費やしています。

 当然その間、更新がストップしていたのは言うまでもありません(笑)


 ちなみに後者を引用した主な理由として、

・前者の説の元である『かまくらおおぞう』は軍記物であり、信憑性に乏しい事

・直近10年の各著書では、後者の説を引用しているケースが多い

が挙げられます。


 ただ私自身、『 "通説" は歴史研究の成果により、常に更新されていくもの』と捉えているので、今回本編にて採用を見送った前者の説を事を、この場を借りて申し上げておきます。



 さて、その本編は第3章に突入していよいよおうしゅうでの戦いがもくぜんせまってきておりますが、本格的な合戦模様の前に、時系列的にあと2つのエピソードを盛り込む予定です。


 どちらも今後の展開において外す事の出来ない内容なので、『乱』を心待ちにしている方には誠に恐縮ですが、何卒温かい目で見守って頂けると幸いです。


 また、引き続きコメントもお気軽に下さると大変嬉しく思います。

 (コメントには可能な限り返信いたします)



 という訳で、それでは今後とも皆さま、どうぞ宜しくお願いいたします。

 

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混迷の東国 〜関東戦乱史〜 保丸 @Tul-yo4

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