後編



[9]


「そう、ヒナ死んだんだ」

「………………えっ?」

 物置の開かれたドアから、マヒロが、僕を見下ろす。外からの光が逆光になって、その表情はハッキリと窺えない。ただ、その言葉に含まれている温度だけは、痛いほどに感じられる。冷たい。凍り付いたように熱がなく、生気がない。まるで、人形が喋っているように。

 僕は目を凝らす。そこに立っているのが、マヒロだと信じられず、そこで告げられた言葉がマヒロのものだと信じられず、ただ目を見開く。

「トモキも呼んでこよっか。全部教えてあげる。私が知ってること」

 そう言って、マヒロは僕らに背を向けた。僕に、そして今もなお、隣で冷たくなり続けている、ヒナに。

「ちょっと……待ってよ! マヒロ!」

 僕は物置から飛び出すように一歩前に踏み出して、マヒロの腕を掴む。マヒロの体温が、僕の手を通して伝わってくる。全部教えてあげると、マヒロは言った。僕にはそれが何のことか分からない。ヒナがなぜ死んだのか、ヒナはどうして、僕の目の前で自殺したのか。分からないことだらけだった。それでも、今はそんなことどうでも良い。

「どうして、どうしてヒナが死んだのに、そんな顔してるんだよ! マヒロ!」

 僕は叫んでいた。怖かったのだ。ただ、それだけのことで、僕の知っている世界の表面がずるりと剥がれ落ちてしまったような、景色の何もかもにヒビが入って壊れてしまったような気がして──。

 マヒロは僕に振り返らないまま、薄暗い微笑を消そうとしなかった。まるで何かに安堵したかのように。


「ヒナ…………?」

 トモキは、物置の中でうずくまるヒナを抱きかかえる。死後硬直が進んで固まった体は、それが本来の形であるかのように、丸まった形のままで持ち上がった。トモキは、腕の中にあるものを、困惑の表情でじっと見つめる。傍目から見てさえその視線は余りに痛々しく、僕は直視できず目を逸らした。やがて、僕が出会ってから初めて耳にする、トモキの嗚咽交じりの泣き声が聞こえてくる。

「おい……どういうことだよ、説明しろよ! 説明してくれよ! どうなってんだよ、これ。なんでヒナが、死んでんだよ。こんな、こんなに、血を流して……冷たくなって。おい、ユキト。なんとか言ってくれよ。頼むよ」

 僕は何も答えられず、ただ歯を強く食いしばった。ヒナは自殺したと、僕に「好きだよ」と言ってなぜか死んでしまったと、それを言って何になる。何にもならない。この場を支配する混乱を、耐えがたいほどの絶望を、何一つ解決したりはしない。

「んー、トモキさ。ちょっと黙っててくれない? 大丈夫。心配しなくても全部教えてあげるから」

 マヒロが場違いに明るく、それでいて感情のまるでこもってない声で言った。トモキはヒナから顔を上げ、強張ったままの表情でマヒロに目を向ける。

「あ、そうね。手始めに、ヒナは自殺だよ。よく分かんないけど、遺体を見るに、自分から頭かち割って死んだってとこかな? よくやるよねえ。怖かったろうだろうに」

「……マヒロお前、さっきから何言ってんだ。何か知ってんのか?」

「だーかーらー、全部知ってるんだって。物わかり悪いなぁ、それだからトモキはバカキャラなんだよ」

 マヒロは意地悪く、酷く品の無い笑顔を浮かべる。それも、僕が出会ってからまだ一度も見たことの無い顔だった。

 トモキは、怒るでもなく、ただ困惑した視線をマヒロに投げかける。

「……お前、本当にマヒロか?」

「マヒロだよー。みんな大好き、みんなに愛される人気者、容顔美麗、頭脳明晰にして純粋無垢な女の子。ね、みんなの知ってるマヒロちゃんでしょ。あはは」

「……もういい。説明してくるんだろ。早く本題に入ってくれ」

 トモキはヒナを腕に抱えながら自分の来ていた学ランを脱ぐと、それをそっとヒナに着せた。

「こんなところで冷たくなってるヒナが……可哀想だろうが……」

「へえー、やっぱりトモキは優しいねえ」

 マヒロは肩を震わせるトモキを嘲るようにそう言うと、わざとらしく咳払いをひとつした。そして、まるで昔話でも読み聞かせるように、繕った声で話し始める。

「そう。あれはちょうど一年前の二月十六日。私がこの世界に生まれてから、五度目の十三歳の誕生日を迎えた日の事でした」


[10]


 私は息を呑む。いまヒナは、なんと言った。どういう意味の、なんて言葉を言った。

「死のうと思ってる、って言ったの?」

「うん。来年の冬にね」

 ヒナはまるでなんでもないことのように返した。机の上に座るヒナは、私よりわずかに視線が高い。ヒナは私を見下ろしたまま、その先を語ろうとしない。

「説明してよ。最初から全部。私、ヒナの言ってること一つも分からないよ」

「違うよ。マヒロは分かろうとしてないだけ。マヒロなら私の言ってることの意味、もう分かるはずだよ」

「……ねえ、何かの冗談だよね? 分かった、まだ私をサプライズで驚かせようとしてるんでしょ? 冗談キツすぎだよ。ね、そうだよね?」

 違う。これが冗談じゃないことぐらい分かっていた。現に、私の鼓動は異様な速さで波打っていて、それは私の中の何かがヒナの言葉に反応しているからだった。私が分かろうとしていないこと。それって何? 私が、知っているのにわざと考えないようにしてること。分かっているのに分からないふりをしていること。それって何? 全然分からない。分かんないよ。

「……そっか。マヒロも分かんないんだね」

 ヒナがポツリとそう言う。それは寂しそうで、それでいて深い失望の表れた言葉だった。

「マヒロはいいよね。子供っぽいのに賢くて、優しいのに面白くって。だから、きっとみんなに好かれるんだね。マヒロの笑顔が見たくて、みんなを頑張らせちゃうんだね。それに比べて、私は独りぼっち。この世界で、たった一人っきり……」

「ヒナ……?」

「マヒロはこの世界がどんな形をしているか、分かる?」

 世界の形? ヒナの言っている事はひどく抽象的で分かりづらい。私は疑問さえうまく言葉に出来ず、黙り込む。

「分かんなくて当然だよ。私たちは世界の内側にいる。これはたとえ話だけどね、もしも、二次元の紙の上で生きている生き物が居るとして、その生き物は三次元の世界、つまり外側から見た自分たちの世界が、どんな形をしているのか正しく想像できるのかな。もっと言うと、二次元の生き物は、自分が三次元の世界の、例えばテーブルの上に置かれた一枚のコピー用紙の上で生きてるって正しく認識できるのかな……きっと難しいよね。それと同じことだよ。私たちはこの世界がどんな形をしているか、正しく認識出来てるとは言い切れない。もしかしたら、出来てないのかもしれない」

「…………」

「ここまでは分からなくていいよ。ただのたとえ話だから。それじゃあ、もう少しお話を具体的にするね。マヒロは、自分がどんな時間の流れの中に居るか、意識したことある?」

 時間の流れ、という言葉を聞いた途端、私は自分の頭の中に割れるような頭痛が走るのを感じた。今までに感じたことの無い、鋭くまるで眼球を抉るような痛み。

「頭が痛いの? 私も最初はそうだったよ。私たちは多分、その事を考えないように、それに気が付かないように作られているんだと思う」

「……作られているってどういうこと」

「その話はあと。ねえ、時間のことを考えて。頭が痛くなっても、構わず考え続けて」

 痛い、痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。考えたくない。考えたくないのに、思考は先に進むのをやめない。私たちがどんな時間の流れの中に居るか。決まってる。時間は前に向かって進んでいる。一日が経てば、前の一日が再びやって来ることは無い。一年でも一秒でも同じこと。同じ時間が繰り返されることなんてない。私たちは前に進んでいる。だから年を取って、いつか大人になって──痛い、いたいいたいいたい! 割れちゃう、私の頭──

「時間は、前に進んでる! だから何もおかしくない! 何も変じゃない!」

「真実から目を逸らしちゃダメ。マヒロ、さっき自分で言ってたじゃない。今日はマヒロの十三歳の誕生日。それで? 去年の今日も、あなたは十三歳になって、その前の年も、あなたは十三歳になった。それがおかしいってどうして気付かないの? すっごくすっごく簡単なことでしょ。十三の次は十四。十四の次は十五。マヒロは今日で五回目の十三歳の誕生日を迎えた。それなら、マヒロは十八歳になってないとおかしいじゃない」

「やめて! やめて! もうやめてよ!」

 痛いのに、おかしいのに、考えたくないのに。思い出す。去年の誕生日、私は十三歳になった。去年はお家のパーティーにみんなを呼んで、おっきなケーキを食べて、ヒナが間違えてお酒を飲んで大変なことになって。その前の誕生日。私は十三歳になった。ユキトからプレゼントに貰ったゲームで遊ぼうって話になって、私は何度やってもトモキにだけは勝てなくて不機嫌になって。その前の誕生日。私は十三歳になった。その年はみんながドッキリで私の誕生日を忘れたふりをしてて。帰り道グズグズ泣きながら歩いてる私の前にみんなが現れて、ユキトはもうこんなイタズラ二度としないからって謝ってくれて。その前の誕生日、私は十三歳になって。


 あ、あ、あ、あ。おかしい。全部おかしい! 何もかも間違っている。なのにどうして私は気付かない。どうして私は十三歳のままで。どうして世界は存在していて。どうして私はここに居て。分からない。何も分からないのに、何も分かってないのに!

 私はとうの昔に立ってなどいられず、机の上に頭を抱えて伏せていた。口からは絶え間なく、言葉にならない恐怖が零れ出ていて、それが机の上を唾液と泡になって濡らしていく。

「マヒロ。小学五年生のときの、自然教室のこと覚えてる? 私たち別々の班だったけど、みんなで夜中に抜け出してさ、星を見に行ったよね」

 覚えている。私の頭の中に、その時の光景が流れ込んでくる。懐かしいな。私たちの町から遠く離れた夜の世界は、空のどこもかしこも星で満たされていて、それは見たことも無いくらいきれいな景色で

「鮮明に思い出せるよね。だって、私たちはそれが二年前のことだって信じ込んでいるんだから。それってさ、本当は七年前の思い出なんだよ。信じられない? じゃあ、誕生日を起点にして一つずつ数えてみて。ううん、こういった方が良いかな。『小学校五年生の時の記憶』じゃなくて、一つずつ遡って、六年より前の記憶を思い出そうとしてみて」

 は、一年。二年。三年。四年。景色が流れていく。冬が来て、秋が来て、夏が来て、春が来て、五年、そこで私の中にある記憶はぴたっと停止してしまう。どれだけ思い出そうとしても、空白。これ以上巻き戻せないDVDの録画みたいに。「あ、わ、あぁ、嫌、嫌っ、嫌ぁっ!」

「たぶん、推定するに私たちは五年前の春、それまでの記憶を持った状態で、「十三歳の私たち」としてこの世界に創り出されたの。それから、ずっと永遠に十三歳のままに、この1の1と言う教室で無限の時間を生きる存在として……」

 私は、自分の体を割って何かが生まれ出たかのように、絶叫した。教室の床を転がりまわった。机を蹴飛ばした。椅子に頭を打ち付けた。助けを求めた。ユキト。トモキ。お父さん。お母さん。先生。誰でも良かった。それなのに、ここには誰一人現れなかった。校舎の中は、張りぼての世界は、私から興味を失ったように、静まり返っていた。

「分かるよ、マヒロ。私も最初はそうだったもん。でも大丈夫。すぐに慣れるから。私たちはね、自分を演じることにだけは何よりも長けて作られているの。現に、今日まで私がこんなどうしようもない真実に気付いているなんて、だれも分からなかったでしょ?」

 ヒナは、仰向けになって天井を見上げる私の前に腰を降ろして、私の顔を上から覗き込む。次の瞬間、ヒナの冷たい表情が、まるでテレビのチャンネルが突然切り替わるように、穏やかで優しいものに変わった。

「ほらね~。いつもの私だよ~」

 ヒナは、自分の表情を次々に切り替えて見せる。まるで私にお手本を見せつけるように。

 それをじっと見ているうちに、私には、ヒナが自分にしていることの意味が分かってしまう。

「私に、同じことをしろって言ってるの。昨日までと同じように自分を演じて、みんなを騙せって言ってるの」

「『しろ』とか『騙せ』って言うより、して欲しいってお願いかな~。少なくとも一年後、私が死んじゃうまで」

 私は、そうしてる間もヒナの表情が目まぐるしく変わるのを、目に焼き付けていく。 ああ、本当に作り物みたい。こんなのを見せられたら、納得するしかなかった。ヒナは作り物で、私だって作り物で。全部、作り物の世界。全部が嘘。何もかもが虚構で象られた世界。

「ここからは私の推理になるんだけどね、この世界はきっと、誰かが作ったフィクションの世界なんだと思う。……サザエさんって分かるよね? 日曜の六時頃にやってるアニメ。……私たちの在り方ってさ、あのアニメのキャラクター達にすごく似ていると思わない? 世界の時間は、季節も月日も少しずつ前に進んでいて、だけどキャラクター達はどれだけ時間が経っても歳を取らないし、そのこと気が付くこともない。ああいうふうに時間が進む作品って、サザエさんに限ったことじゃないよね。フィクションのお約束のひとつでしょ。私たちもきっと、そんなお約束の世界に閉じ込められてるんだよ。私たちはずっと中学一年生のままで、どうってことない楽しい日常を、なにも知らずに何度も繰り返し続ける。だからね、確証こそ無いけど……きっとこの世界は、誰かの描いてるそういうフィクションの世界で、私たちも誰かに作られたキャラクターなんだろうなって」

 ヒナはそこまで語ると、ふと教室の向こう側を振り返った。廊下の先から、ドタドタと誰かが走って来る音がする。

「マヒロ! どうかしたのか!」

 教室のドアを乱暴に開けて、トモキが顔を出した。私が床に転がったままそれに驚いていると、ヒナが私の耳元に近付いて囁く。

「さっきマヒロが叫んだのをグラウンドから聞いて、ここまで上がって来たんだよ」

 ああ、そういう事か。と、私が理解すると同時に、ヒナがすばやく立ち上がって、トモキと向かい合う。

「トモキ~、大変だったんだよ。マヒロが盛大にすっころんでさ。痛い痛いってすごくて」

「すっころんだ!? 大丈夫なのか、マヒロ!」


 私が黙り込んでいると、ヒナが私に目だけで合図を送って来る。……私には、まだそうしなきゃいけない理由が分からない。だけど、それを無理に拒むほどの理由も無かった。

「おい、マヒロ!」

「……うん。大丈夫。ちょっとびっくりして騒いじゃったけど、今は全然痛くない。ほら、教室の床で寝転ぶことなんてめったにないしさ。せっかくだから、こうして天井眺めてんの」

 私は笑顔を作る。自分で自分を演じる。それは、自分でも驚くほど自然な笑顔だった。当然だ。私はマヒロだから。いつも笑顔で、無邪気で子供っぽい、いつも幸せで生きてることが楽しくて、みんなのことが大好きな、マヒロだから。

「ん……そうか。それなら良かったけどよ。にしたって散らかしすぎだろ。机も椅子もガタガタじゃねーか」

「あはは、確かに。ごめんね心配かけて。ここはいいから、部活戻んなよ」

「おう。よく分かんねーけど、無理すんなよ」

 トモキは、少し心配そうな顔のまま踵を返す。行かないで。私は喉から出そうになった声を押し殺して、トモキの背中を見送った。

「……ごめんね。大変なことに付き合わせて」

 ヒナは申し訳なさそうに、私に謝った。これも、取り繕った表情なのだろうか。私には、もはや何が真実で何が嘘か、自分が何を信じていいのかさえ、分からなかった。

「みんな張りぼてなの。この学校に居る先生も、クラスメイトも、それだけじゃなくて街の人も、家族も、みんな決まった反応しかしない、本当のお人形さん。でもね、私たちだけは違う。さっきトモ君が駆けつけてくれたみたいに、マヒロが私の話を聞いて苦しんでいるみたいに。きっと私も、ユキ君も。私たちは意思をもってここに存在している。それだけが、たった一つ私たちに残された、この世界で信じられることだよ」

 私には、それが真実かどうか分からない。私たちは、誰かによって作られた存在である。それはもう疑いようの無い事実だ。私たちは不合理な形で記憶を所持していて、不条理な時間の中で生きている。それはもはや、この世界と私たちが「偽物の世界、偽物の人間」だとでも考えないと、説明が出来ないことだ。じゃあ、私たちがフィクションのキャラクターであるかどうか、これは分からないし確かめようがない。だけど、この世界の特殊な時間の流れを考えると、ヒナの言うことは、それなりに説得力のある答えのように思えた。私たちはフィクションのキャラクターであるのかもしれない。それなら、私は果たして、意思を持って存在していると言えるのだろうか。

 それが、疑問になって口に出るころには、教室は夕暮れの薄闇の中で、私たちはほとんど影の中に飲み込まれていた。

「……二つ、聞きたいことがあるの」

「うん」

 私は立ち上がる。立ち上がって、ヒナを見下ろす。

「一つは、どうしてヒナは来年の冬に死ぬつもりで、どうしてそれまで私たちは自分を演じないといけないのか。でも、これは後でいい。それより、先にもう一つの方。ヒナ、私に一つ隠してることがあるよね。絶対に話しておかないといけない、大事なこと」

 ヒナは、一瞬肩を震わせた。これまでと立場が逆転したように、私は問い詰める。

「ヒナは、どうしてこの世界が偽物だと気付くことが出来たの? 私たちはそれに気付かないように作られているんじゃなかったの? ……ねえ、ちゃんと答えてよ。ヒナは、自分の意思を持ってここにいるんでしょ?」


[11]


 そこまで語ったところで、マヒロは喋り疲れたとでもいうように、ふうと一息つく。

 僕は、マヒロの、その向こうのヒナの口から語られる言葉に、既に体も心も限界だった。頭がこじ開けられるような頭痛と、内臓が掻きまわされるような吐き気で、気が変になりそうだった。いや、とうの昔に変になっていたのかもしれない。ヒナが死んだあのときから……違う。この世界が始まった時から、僕らもこの世界も、とっくの昔に狂っていたのだ。

「さてと……ずいぶん私だけで長々と話してたし、一回そっちに聞いちゃおっかな。ここでクイズのコーナー。ヒナだけがこの世界を偽物だと気付くことが出来た、その理由が分かる人、手挙げてー」

 マヒロは崩れ伏している僕に一瞬目をやる。僕が口を開きそうにないのを見ると、次にトモキへ。トモキはひざを折ってヒナの死体を抱えたまま、そこから視線を外そうとしなかった。まるで、じっと見つめていれば、次の瞬間ヒナが蘇ると信じ込んでいるかのように。

「分かんないか。ま、無理もないよね。正解はね、『ある日突然、家で映画を見ていたらあの頭痛がして、それまでの不安や違和感が形になるみたいに、私たちの住む世界の時間の流れの異常に気が付くことが出来たの』でしたー。ね、笑っちゃうよね。なんて陳腐で理屈に合わない答えなのって」

 と言うと、マヒロは本当に噴き出してけたけたと笑う。それも、繕ってしている笑みなのだろう。

「そりゃ映画の中で流れてるふつーの時間の流れと、私たちの世界の時間の流れは違うかもしれないけど、それぐらいで真実に気が付けるなら、誰だって簡単に気付いちゃうよね。映画ぐらい私も見るし。トモキやユキトだって、漫画とかアニメは見るでしょ? それで気付けないから、私たちはみんなこの世界が本物だと思い込んでた訳じゃん。つまりさ、これってヒナがこの世界が偽物だと気付いたのには、根拠のある明確な理由が無いってことだよね。それって、やっぱりどう考えてもおかしいじゃん。だからね、私は仮説を建てたの。ヒナがこの世界が偽物だと気付いたのは、それがこの世界を作り出した、誰かに操られていたからなんだって。ヒナの言うように私たちがフィクションの世界のキャラクターだとしたら、キャラクターが作者によって決められたストーリーをなぞって行動するみたいに。ヒナは「この世界が偽物だと気付いてしまう」よう、誰かによって自分の運命を操作されてしまったんだって……だとしたらさ、本当に私たちに意思なんてものはあるのかな? もしかしたら、私たちはこの世界に作り出されてから、今この瞬間に至るまでずっと、あらゆる行動を誰かによって操られることで存在しているってことは考えられない?」

 マヒロは、ヒナの死体に視線を落とす。そこには、微かに憐れみの色が見えた気がした。

「ヒナは、私の仮説を認めようとはしなかった。それは、ヒナにとって別次元の恐怖だったんだと思う。ヒナは、私たちの持つ意思だけが、この世界で唯一信じられるものだと言っていた。だけど、もしそれさえもこの世界を作り出した誰かによって穢されているのだとしたら、私たちは本当に何一つ信じれるものが無くなってしまう。だから、私の仮説に見ないふりをして、その末に死ぬことを選んだ」

 マヒロは、自分の頭に人差し指を突き立てて、弱々しく笑った。

「でもね、私たちは自分の意思でさえ自分のものだと証明できない。私たちの感情も、心も、この意思でさえ、何の価値も無い偽物なんだよ」

「……違う」

 ぽつんと、降り始めの雨ように、トモキが呟いた。マヒロは、大袈裟な身振りで両手を広げて、やれやれとでもいうように首を振った。

「違わないよ。私たちは頭のてっぺんからつま先まで全部作り物ってこと。いまこうやって喋ってるのだって、もしかしたら誰かが考えて言わせている台詞なのかも……」

「違う。そうじゃねえ。関係ねえよ。そんなこと」

 トモキはマヒロを見上げる。ほんのりと充血して赤みがかかったその目は、驚くほどに曇りが無く、マヒロをまっすぐ正面から見据えていた。

「何が関係ないっていうの、まだ分かんないの? トモキがバカだから? バカキャラだから? 単細胞で何も考えずに行動するように作られてるからそんなこと言うんでしょ? もううんざりなのよ。決められた通りに動くあんた達も、こんな意味のない人生も。トモキに分かるの? 私が一年間どんな気持ちで生きてきたか。私がどんなに苦しんで、どんなにつらい思いしてきたか」

「分かるよ。一人にさせて悪かった。ごめんな」

 マヒロは、目を見開くと、トモキを射殺すように鋭い目線で睨みつける。その顔は、瞬く間に怒りで真っ赤に染まっていった。

「トモキに何が分かるって言うのよ。何も知らないくせに、なにも分かってないくせに! 分かったふりなんてしないでよ! 偽物のくせに、偽物の──」

「だからなんだってんだよ。偽物だからなんだよ。俺達が作られた存在で偽物なら、ここにある悲しみは嘘だってのか? ヒナが死んで、胸にバカでかい穴が開いちまうほど悲しいのも嘘だってのか? 意味が無いってのか!? そんなわけねえだろ! お前がこれまで一年間ずっと、俺達を騙してきたこと! その間ずっとずっと、お前が寂しくて苦しくて悲しくて悲しくて悲しくて、死にてえぐらい寂しかったこと! それに意味がねえなんて、そんな、そんなわけねえだろうが……!」

 トモキは段々と言葉を詰まらせながらも、叫ぶ。大粒の涙で顔を濡らしいていく。腕の中で静かに眠るヒナにまで流れ落ちていくぐらい、涙を流し続ける。それでも叫ぶ。叫び続ける。

「お前が! どんなに意味がないって言い切ろうと! どんなに偽物だって思おうと! 俺は何度でも謝る! ごめん、あの日の教室でお前がそんなに傷ついてたって気付けなくてごめん! お前がずっとつらい思いしてたのに、なにもしてやれなくてごめん! もうお前を置いていったりしねえ! 一人にしたりしねえよ! だからよ、もう泣いていいんだよ。無理に笑ったりしないでくれよ。お前も、マヒロも悲しい時に泣いてくれよ。その時は俺も一緒に泣くから……」

 と言うと、トモキは耐えきれなくなったように泣き崩れた。マヒロはそれを見下ろし、冷ややかな目を向けて、

「自分で言っといてあんたが先に泣いてんじゃん……本当にバカだ。トモキはバカ。バカ、バカ、バカぁ、」

 それから、マヒロが大声を上げて泣き喚き始めるまで、時間はかからなかった。あの日と変わらない大泣き。マヒロが悲しいときいつも上げていた声。どこまでも届いてしまうような大声。僕は、いつの間にか自分が泣いている事に気が付く。それが何の涙なのかさえ分からない。だけど、僕は泣いていた。じっとしていることなど出来ないほど、嗚咽し、叫び、激しく泣いた。自分がここにいることを誰かに伝えるかのように。僕らは、ヒナの亡骸を囲んで、日が暮れるまで泣き続けた。


「……だめだ。警察は取り合ってくれない。遺体は、土に埋めよう」

 僕らは、完全に日の暮れた真っ暗闇の裏庭で、ヒナをここに埋めることに決めた。ヒナが死んだことを通報しても、警察は対応してくれるどころか、まるで僕の言っている事が分からないようだった。この世界ではヒナが死ぬことなんて、きっと想定されていなかったのだろう。

 スコップで土を掘る。その動作で、僕はこんな時なのに、ひとつのことを思い出す。

「……花、今年は植えてなかったね」

 去年、いや、年度では無く、暦で言えば二年前の冬。マヒロがまだこの世界の真実を知らなかった頃。マヒロが育てていた花を枯らしたことがきっかけで、みんなで一緒に花の苗を買いに行って、玄関脇のプランターに植えたことがあった。その時も選んだのはマヒロが枯らしたのと同じ一年草だったから、枯れてしまってもう一年になる。確かそのとき花を選んだのは、ヒナだった。最初は種から育てるはずだったのに苗を買って植えたのは、ヒナがどうしてか、この花が良いと決め切ってしまったからだ。ヒナにしては珍しく、強情を張って譲らなかったのをよく覚えている。

「そういえば、そうね」

 マヒロもその時の事を思い出しているのか、寂しそうな声で呟いた。

「ユキトはさ、私たちに意思があるかどうかっていう問題、どう考える?」

「……分からない。でも、マヒロとヒナ、どっちが正しい可能性もあるし、どっちが間違っているとも言い切れないと思う」

 確かに、マヒロの言う通り、ヒナがこの世界の真実に気付いた理由には、明確な根拠は無いように思える。だけど、ヒナの言葉には、僕にとって引っかかるワードが二つあった。「頭痛」、それと「不安」。それは、僕にとって身に覚えのある感覚だった。この世界がどこか不確かなものであるような、あの漠然とした不安。それと、時折走るずきんとした頭痛。あれは、僕がこの世界の真実に気付こうとしていた、その徴だったのではないだろうか。この世界は、見え透いたような巨大な矛盾を抱えて存在している。それは、例え僕たちがそれに出来る限り気が付かないように作られていたとしても、隠しきることそのものに無理があるほどの大きな綻びだ。だからこそ、僕たちはこの世界の矛盾にいずれ気付いてしまうように、作られていたのではないだろうか。ヒナが最初にこの世界の矛盾に気付いたのは偶然で、そうではなく初めに気付くのは、本当は僕だったのかもしれない。もしかしたら、トモキやマヒロだったのかもしれない。

 そう考えるのなら、ヒナがこの世界の矛盾に気付いたのは、誰かに操られていたのではなく、偶然ながら自分の意思によって気付いたことになるだろう。なら、例え僕たちが様々な偽の記憶や設定を課せられた状態で作られていたとしても、僕たちの意思は自由にあるのだと考えられるのではないだろうか。僕たちはあやつり人形のように何もかも決められた通り動いてるわけでは無く、この世界に作られてから今この瞬間までずっと、自分の意思で行動しているのだと。

 ……真実はどちらなのか分からない。だけど、どちらが真実であっても良いのだ。僕たちは、ここに生きている。感情を持って、心を持って生きている。それが例え誰かに操られているとしても、ここには意味がある。僕が悲しいことには、僕らがヒナの死を今この瞬間に悼んでいることには、意味がある。

「ユキト、覚えてる? 二年前、私たちが植えた花。春になって綺麗に咲いたあの花。あれ、なんて種類だったかな」

「……リナリア」

 僕は思い出す。美しいピンクと黄色の花。小さくて可愛らしい、どこかヒナに似ている花。僕はどうして、その花のことを忘れていたのだろう。忘れてはいけないはずだった。僕が、その意味を知っていた花。知っていて、見ないふりをした花。

 リナリア。花言葉は、この恋に気付いて。

「ユキト、ヒナがどうして死んだのか教えてあげる」


[12]


「……まだ咲いてないね」

 玄関の前で、ヒナが立ち止まって、プランターをのぞき込む。蛍光灯の光にぼんやりと照らされた苗は、確かにまだ花をつけてはいなかったが、春に向けてすこしずつその背を伸ばしているようだった。

「そうね」

 私は、そのプランターをぼーっと見下す。今の私には、花が咲こうが枯れようが、どうでもよかった。ただ、この暗がりの中を歩いて帰ることを考えて、それだけが憂鬱だった。

「私がどうして死ぬのか、聞きたいんじゃなかった?」

 ヒナが立ち上がって、私の傍に寄る。まるで、私の心を見透かしたみたいな言動。

「それとも、もうどうでも良くなっちゃった?」

「いや、どうでもいいってことは無いけど。でも、もうなんかよく分かんなくて。ヒナがどうとか、世界がどうとか、私たちがどうとか。なんかさ、それって全部意味あるのかなって。全部繰り返すだけで何も変わらないなら、私たちが生きてることとか、ヒナが死んでいくことにも、別に意味ないのかなって」

「どうなんだろうね。もしかしたらそれは、私たちが偽物の人間でも、本物の人間でも同じなのかもだけどさ」

「そうかも。そう思うとちょっと楽だね……気休め程度だけど」

 私は、ヒナと視線を合わせる。

「聞かせてよ。なんでヒナが死ぬのか」

「うん」

 ヒナは歩き出す。私はそれを追いかける。隣を歩くヒナは、まるで子供みたいで、だけど、そもそも私だってまだ子供だし。私とヒナはただの偽物の幼馴染で、偽物の同い年。私とヒナの間には何の差も無かった。

「二つに分けて話さないとダメなんだ。私が来年に死ぬ理由と、私が冬に死ぬ理由。どっちから聞きたい? 片方はマヒロの話で、もう片方はユキ君の話」

「じゃあ、冬がついてる方」

「うん。そっちが、マヒロの話」

 ヒナが私の隣で、寒そうに手を擦る。私がヒナに自分のマフラーを手渡すと、ヒナは無言でそれを受け取った。

「色々あって忘れちゃったかもしれないけど、今日マヒロにサプライズしたでしょ。修理したギターをプレゼントして」

「うん。あ、そういえばあのギター学校に置きっぱなしだ」

「そのギター、私とユキ君の二人で隣町まで取りに行ったって、それも言ったよね」

「そんなこと言ってたね」

「そのときね、隣町に向かう電車の中で、私。ユキ君に聞いたの。ユキ君は、好きな人とか居るのって」

 私は驚く。今日は驚き疲れるほど何度も驚いたけど、それでもまだ驚いてしまう。

「ヒナ、ユキトのことが好きだったの?」

「うん」

「うそ、全然気が付かなかった。ていうか、私たちの間でそういう恋愛っぽい好きとか嫌いとかってあったんだ。まだ中一なのに……」

 と、口に出した途端、違ったなと思い直す。私たちは体も心も十三歳だけど、本当は十八歳と変わらないだけの記憶を積み重ねているんだった。それなら、私が鈍くて成長が遅いだけで、他のみんなが恋愛感情を知らず知らずのうちに育んでいてもおかしくない。

「……ううん。きっと私だけ。ユキ君も、トモ君も、そういう反応してるならマヒロも、恋愛なんてこれっぽっちも興味ないし分かんないって感じ。だって、そりゃそうだよ。みんな自分が十三歳だと思い込んでて、恋愛なんてまだ早いって考えてるし。周りだって十三歳だし。そもそも、私たちほとんど四人でずっと行動してるんだから、恋なんてしてる隙ないよ」

「あー確かに。そりゃそうか」

「……そうだよ。私がユキ君を好きだって気付けたのも、どうしてだかよく分かんないもん」

 そうか。恋なんてよく分からないし、ドラマの中でだけ見れるものだと思っていたけど、こんな身近で起こっているとは思わなかった。……私はふと、これも誰かがヒナを操っているのだろうかと考えたが、やめた。そうかもしれないけれど、恋は理由なく始まるものだって聞くし、ヒナがユキトに恋をしたこと自体に、わざわざ疑うべきところはない。

「それで、ユキトに好きに人が居るか聞いたって……ていうか、もう答え言っちゃったようなもんじゃない? さっきヒナ、ユキトも恋なんてからっきしって言ってたし」

「うん。居ないんだってさ」

 ヒナはそう言って微笑むと、じっと道路の先を見据えた。またあの目だ。ここじゃないどこか遠くを見ているような、あの寂しそうな瞳。

「……でもね、それから、私たち隣町にまで着いて、ギターを受け取って、帰って。その間ユキ君ね、マヒロの話ばっかりするんだ。プレゼント貰って、マヒロどんな顔するかな、マヒロが笑ってくれたら嬉しいな、とか。そんな話をずっとしてて、それからたまに、電車の窓からね。知らない街をじっと見つめるの。まるで、未来のことを見つめてるみたいに。そのときね、私気付いたの。ユキ君が見てる未来の中にね、私はいないの。ユキ君の視界には私の姿さえない。私の背が小さいから、じゃないよね。それってさ」

 ヒナは、私に笑いかけた。それは、作り笑いなのだとすぐに気付けた。

「私ね。マヒロが羨ましかったの。今も羨ましくて仕方が無いの。だからね、来年の冬に死のうと思うの。来年の、冬の、今日よりも寒いかもしれないその日。マヒロの誕生日の二月十六日に。ユキ君がその日、いつもの二月十六日と違って一日中ずっと、私のことを考えてくれるように」

「……性格悪っ」

 私はつい、そう言ってヒナをじとーっと睨みつけてしまった。ヒナの真剣な告白にもかかわらず、私がそんな風に砕けた反応をしてしまったのは、私にとってそれが二重の意味で驚くべきことだったからだ。私はヒナが死のうと思っている事だけじゃなく、ヒナがこんな性格だというころも、今日まで少しも知らなかった。

「ふふ。私ね、そうなの。実はとっても性格が悪いの。みんなに良い子だって思われたくて隠してるけどね、本当はこんなことを企むぐらい、ズルくて嫉妬深いんだ」

 ヒナは、私の方を見てけらけらと笑った。私は、いつも淑やかに笑うヒナが、そんな風に笑うのを見たことが無かった。私はどうしてか、こんなにも真剣で切実な場面なのに、自分の中に不思議な喜びが湧き上がるのを感じていた。初めて、ヒナが本当の姿を見せてくれている。それが、どうしてか嬉しくて仕方が無かった。

「……もう一つの理由も話すね」

 私は、ヒナの決意を帯びた声色に、再び背筋を伸ばす。もう一つの理由。ユキトの話。それが、私のことよりずっと大事なことだと、もう分かっていた。

「マヒロ、さっき私が見てたあの花を植えた日のこと、覚えてるよね」

「うん。私が花を枯らして、ギャン泣きした後、みんなで花を買いに行ったんだよね」

「うん。私ね、その時ユキ君に聞いたの。『ユキ君は、大人になりたい?』って」

「へー。そんなこと話してたんだ」

「ユキ君ね、大人になりたいって言ったの。それが、私が来年死ぬ理由」

「……?」

 どういうこと? 私は理解しきれず、首を傾げる。

「この世界が偽物だって話に一度戻るけど、もしかしたらこの世界はフィクションの世界なのかも知れなくて、私たちは平凡な日常を繰り返すような作品の中に居るのかもしれないって、さっき話したよね」

「うん」

「もしそんな世界で……そういう作品でね、突然登場人物が死んだりしたら、どうなるかな。具体的に言うと、サザエさんでカツオ君が死んだりしたら……」

「そんなことになったら終わりでしょ。色んな意味で」

 私は、自分で言った終わりと言う言葉に、はっと気が付く。ヒナがやろうとしていること。ヒナが、この世界に対して、命を賭けて切り開こうとしている、道。

「うん。そうだよね、何が起きるか分からない。何もかも、仮説と推理の積み立てでしかない。でも、可能性の一つとして、もしかしたら終わらせることが出来るかもしれない。この繰り返しを。永遠に続く日常を」

 ヒナは、まっすぐに前を見据えた。その先には暗闇しかない。それでも、遠く続くどこかを、この先にある未来をまっすぐに捉ようとする、意志の込められた目だった。

「……どうして、全部私に教えてくれたの?」

 私は、最後に残った疑問を口にする。

「マヒロは私の恋のライバルで、親友だから、全部を知っていて欲しかったの。……でもね、本当は今日こんな話するつもりなかった。なんか急に、耐えられなくなっちゃって。ごめんね。辛い一年になると思う。許してほしいなんて都合の良いことは言わないから」

「うん。それは、一年経ってから考える」

 そう言ってから、最後のはずだったのにもう一つだけ疑問が湧いてきた。

「なんで、死ぬのは今年の冬じゃなくて来年の冬なの?」

 ヒナは、私を見上げて小さく笑った。

「ユキ君の誕生日って、覚えてる?」

「四月の、二日とかだっけ」

「そうだよ。だからね、来年の春が来た時に、ユキ君ちょうど二十歳になるんだよ」

 大人になるって、二十歳になるってことでしょ、とヒナは言った。私は、分からないよと、それだけ答えた。


[13]


 僕は、ヒナを土に埋める。見えなくなっていくヒナの体が、上から被さる土が、僕らの涙で濡れていく。

「……私、ヒナのこと許せないと思ってた。ヒナの言う通り、この一年は苦しくて、耐えられないぐらい辛くて、でも。ヒナが死んじゃったのを見たらさ、もうそんなこと言えないよ。私、ヒナの事も好きだったもん。大好きで、ずっと一緒に居たいって思っていて……」

 そこから先を、マヒロは言葉にすることが出来なかった。僕は、ヒナが完全に土に埋もれて見えなくなってしまう前に、ヒナに答えを言う。僕がずっと、言えなかった答えを、今。

「ごめん。僕は、ヒナと付き合うことは出来ない」

 僕は、ヒナの恋心に気付いていた。電車の中での問いかけも、リナリアの花言葉も、それが何を意味しているか、とっくに気付いていた。気付いていて、気付かないふりをした。それは僕が、僕たち四人の関係が、日常が壊れることを恐れたからだった。もし、ヒナの恋心に僕が答えたら、それが「はい」でも「いいえ」でも、僕らの関係は今とは変わってしまっていただろう。僕は、それだけを恐れて、ヒナの心を蔑ろにした。ヒナと向き合う事から逃げてしまった。だから、ヒナは僕のために死んでしまった。

「ヒナが僕を想ってくれた気持ちは嬉しい。今日、裏庭に呼び出して告白してくれたときは、正直浮かれた。すごく浮かれた。でも、それでも僕は、ヒナに答えを聞かれたら、きっと付き合えないって言ったと思う……どうかな、ごめん。やっぱり自信ないや。でも、僕はヒナのことを恋人として好きにはなれない。それが、今の僕の答えだ」

 僕がヒナを恋人として好きになれない理由は、僕にも分からない。それは、ヒナの思っていた通り僕がマヒロに強く惹かれているからなのかもしれない。それとも、僕が愛も恋もよく分からない、子供だからなのかもしれない。もしかしたら、ヒナが僕の幼馴染だからなのかもしれないし、そうじゃないもっと別の理由なのかもしれない。だけど、僕は例えヒナが僕のことを想って死んでくれたのだとしても──いや、だからこそ。僕は自分の気持ちを誠実に、噓偽りなく伝えなければいけないと、そう思ったのだ。

 スコップが、最後の土をかける。そうして、ヒナは土の中で、静かに眠った。裏庭の日の当たらない、少し湿った土の中で。

「……うう……ヒナ……」

「畜生……くそっ……ヒナ……!」

「…………」

 僕は考える。この先、どうなるのか。一体、どんな春が僕らにやって来るのか。二つの可能性がある。ヒナの思惑通り、世界はヒナが規律を破ったことで、その仕組みが壊れ、僕らが正常な時間の中で生きていくことになる可能性。ヒナの意志が世界に打ち勝った世界。そして、ヒナの居ない世界。

 もう一つ、可能性がある。世界が変わらずに繰り返される世界。僕らがまた十二歳に戻り、十三歳の誕生日を迎える世界。終わらない日常が、これからもずっと続いていく世界。そこには、きっとヒナも居る。この世界はおそらく年度が変わるごとに、四月になると、年齢やクラスといった、時間に関するものがリセットされる仕組みになっている。四月になったその時……おそらく、学校の始まる始業式の日に。それが、学年や年齢について、最も矛盾の少ない形で繰り返させることが出来る形だからだ。その時、きっと僕らは肉体的な成長から、何から何までをリセットされている。それなら、ヒナが死んでいるという状態がリセットされることも、十分に考えられる。ヒナは蘇り、いつも通り1の1に登校し、僕らの前に現れる。

 僕は、考える。僕は選択しなければいけないと、そう直感する。僕が何を望むか。僕らにとって、どの道がハッピーエンドなのか。

「……二人とも」

 僕は呼びかける。トモキとマヒロは頬を涙で濡らしながら、息を合わせたように、同時に振り向いた。

「花を買いに行こうよ。春になったら咲く花を」


[エピローグ]


「……あーあ………………」

 私は、目が覚める。目が覚めた時、ずきんと一瞬頭が痛んで、それで何もかもを思い出す。私は目を覚ました。六時五十五分、目覚ましが鳴るより五分早い。いつもの朝だ。カーテンから光が差す、暖かな春の朝だ。

「そっか……私、失敗したんだ」

 電子時計の日付は四月七日を示している。私が思い描いていた、失敗のパターンとまんま同じ。そうか、ダメだったのか。その可能性もあると思っていた。私がしたことは全部無駄で、私が命を賭けたとしても、この世界のルールを覆すことは出来ないって。ユキ君を大人にしてあげる事も、みんなをこの繰り返す日々から解放してあげることも出来ないって。そういう筋書きも、十分にあり得ると思っていた。

「にしたって、ちょっと残酷すぎだよ~……せっかく、死んでまで頑張ったのに」

 幸いにも、自分の頭が割れる感触は覚えていない。思い出せないだけかもしれない。直前までの恐怖は覚えているのだ。鋏を持っているときの手の震えから、ロープを斬った瞬間の断裂音。それから、意識がなくなるその瞬間まで、ユキ君を見つめて自分を奮い立たせていたこと……それも、もうぜんぶ意味の無いことだ。私が死んだ事実は、この世界からすっかり影も形も消えてしまった。なにせ、死んだ張本人の私が、こうしてのんきに目を覚ましているのだから。

「支度しないと……」

 私は、洗顔から始めようと下の階へ降りる。先に起きていた両親に挨拶をして、冷たい水で顔を洗う。何度も、何度も顔を洗う。だけど、どれだけ水で濡らしても、タオルで拭いても、止めどなく流れ出てくる涙を隠すことは、どうしても出来そうになかった。私は一体、どんな顔をしてみんなに会えばいいのだろう。それを考えると、胸が苦しくて堪らなかった。ユキ君は何と言うだろうか。突然、呼び出しておいて目の前で死んだ私のことを、嘘つきと、大嫌いだと罵るだろうか。それを考えるだけでも心臓が張り裂けそうなぐらい痛いのに、私はマヒロにもひどいことをした。絶対に許されないぐらい、最低で最悪なことをした。……もちろん、トモ君にだって辛い思いをさせただろう。トモ君は、私なんかのためにもきっと、めいっぱい悲しんでくれたんだろうな。

 私は鏡を見つめる。そこに映る自分に、偽りの笑みを浮かべながら声を掛けた。

「本当に、死んじゃったら良かったのに」


 重い足取りで、学校へと向かう。こんなにも歩くことが辛い朝は無かった。ユキ君の前で死んだあの日でさえ、足はもっと速く前に進んだ。私はもうどこにも行くことが出来ない。私は、もう未来に進むことなんてできない。足取りはひたすらに重くなり続けるばかりだった。だが、それでも足は学校に向かって進んでいて、私はいつの間にか校門の前にまで辿り着いていた。

「ヒナ……?」

 誰かに呼ばれて、俯いていた私は顔を上げる。すると、目の前に何かが飛び込んできた。

「ヒナーーーーーーー!!!!!!!!」

 私は、最初それが大型犬か、ミサイルのどちらかだと思った。それほどまでに恐ろしい勢いだった。だけど、よく見れば飛びついてきたそれは、私の良く知る親友で、マヒロだった。

「マヒロ」

 私は、何かを言おうとして、何を言えばいいか戸惑う。しかし、マヒロは私に言うべき言葉を考えさせる暇など与えてくれなかった。

「ヒナ、ヒナ! ヒナー! ヒナ……ヒナ……ヒナぁ。良かった。良かったよぉ。帰って来てくれて。良かった」

 マヒロは、泣きじゃくりながらも、私と目を合わせて言った。

「ヒナ、もう二度と、絶対に死んだりしないでよ……私、ヒナのこと嫌いになったりしないから。ずっと大好きだから」

「マヒロ、私のこと許してくれるの……?」

「今回だけだよ……特別だからっ! だから、もうどこにも行かないでね……ヒナ……!」

 私は、私を抱きかかえながら震えるマヒロのことが、私の一番のライバルで親友だったマヒロのことが、その瞬間あまりに愛おしくなって。その愛おしさが溢れるように、私も泣き出してしまった。どうしてこの子はこんなにも純粋で、呆れるほど優しくて、眩しいんだろう。私はそれが、今もこの瞬間も羨ましくて、だけど、その眩しさが堪らなく愛おしくて、私はユキ君と同じくらい、マヒロのことも大好きだったんだと今更気が付いた。

「なんつーかさ、もう俺達もマヒロのこと言えねーよな……ずっと、泣いてばっかだ」

 私は、聞こえてきたその、どこか懐かしい声に顔を上げる。そこにはトモ君とユキ君が、並んで立っていた。トモ君は時々涙を制服の袖で拭いていて、ユキ君の方はもっとひどい。両腕で自分の顔を覆い隠すみたいにして、嗚咽を漏らして泣いていた。

「ヒナ、おかえり。俺もユキトも、もうお前が隠してたこと全部知ってるからよ、一人で抱え込むんじゃねえぞ。そんで、マヒロの言う通り、もう勝手にどっかに行ったりするな」

「……うん」

 トモ君の言葉に、私は少し俯き加減に頷く。それは、喜びと、ほんの少しの絶望。私たちが再び出会えたことは、すごく幸せなことで。喜ばしいことで。でも、その代わりに私たちは、未来へ向かう可能性を失くしてしまった。私たちは永遠の時をこの世界で過ごすしかない。この、歪んで希望の無い世界の中で。

「……んじゃ、ここでユキトからサプライズだ」

「え?」

「れっつごー!」

 私は、マヒロに腕を引かれて、校門の中へ入っていく。トモ君も、ユキ君も、みんな並んで歩いていく。私は、玄関の前で、校舎を見上げた。いや、見上げたのは本当は校舎なんかじゃなかった。私は頬についた花びらを、指で掬い取る。

「桜だ」

 そこには、玄関の脇のプランターに、巨大な根を張った桜があった。それは風に揺れて花びらを散らし、私たちを出迎えるように花びらを満開に咲き誇らせていた。何もかも、有り得ない光景だった。プランターに桜が咲くことも、いつ植えたかも分からない桜が、こうやって花を咲かせていることも。

「有り得ないよね、こんなこと。僕も賭けだった。だけど、もしもこの世界が、僕の選んだ未来がハッピーエンドで終わるなら、こんな景色も有り得るかもしれないと思ったんだ」

 ユキ君が、私のすぐ隣で、手でひさしを作りながら桜を見上げる。

「この桜は、去年ヒナが死んだあと、みんなで植えたんだ。もしヒナが生き返ったとき、この桜が咲くように願いを込めて。もしこの世界が偽物で、何もかもでたらめだって言うのなら、それも可能だと思った。そして、それは叶えられた。理由はやっぱり分からない。この世界は嫌になるくらい分からないことだらけで、でも僕たちが生きていくのはそんな世界で。これは僕が、僕たちが望んだ未来なんだ」

 ユキ君は振り返って、みんなに向かって笑った。トモ君と、マヒロと、私に向かって。私は、その瞳の中に、自分の姿が映っているのを見つける。小さくて、性悪で、だけどみんなに囲まれていて、幸せそうな顔をした自分。私は、未来のことについて考える。これからどうなっていくのか分からない。私たちはたぶん、この先ずっと同じ日常を繰り返すのだろう。私たちはずっと大人になれないのかもしれない。私たちはこうやって、幸せな日々を繰り返しながら、どこかで何もかもが破綻して、全てが終わってしまうのかもしれない。

 だけど、今はただ。この瞬間だけは。ここに私がみんなといることを。私たちがこの世界を生きて歩んでいくことを。この先に見える未来が──ただ、意味も無く咲いて、枯れていく桜のように、儚く綺麗なものであることを。そのことを愛していたいと、ただ、それだけを思った。

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ポップ、血しぶき、花は枯れ、 ななしみ(元 三刻なつひ) @nekonohito

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