ポップ、血しぶき、花は枯れ、

ななしみ(元 三刻なつひ)

前編

[プロローグ]


「あぁぁあん! 枯れちゃったよぉぉおおお!」

 マヒロが変てこなビブラートのかかった声で叫ぶ。マヒロを除く僕ら三人は、たまらず一様に耳を塞いだ。マヒロのやつ朝からいやに落ち込んでいると思ったら、昼休みになって突然玄関前に召集をかけて来て、それでやって来てみたらこの有様だ。なんていうか、またやっかいなことになった、って感じ。

「あああぁー、あぁあー、あぁー……」と、マヒロの声は風船がしぼむように勢いを失っていく。やがてその呻き声は、十一月の冷たい風が、褪せた色の花を撫ぜる乾いた音に代わっていった。

「……そりゃ枯れるだろ。花なんだから」

 トモキが僕の隣で呆れたように言う。僕はそれに続いて呆れてため息を吐いた。そんなこと、わざわざ口に出さなくても、誰だって分かる。

 案の定、マヒロは赤い顔をしたままトモキをキッと睨みつけた。

「違うの! 連休前までは咲いてたの! それに冬になったら枯れるなんて思ってなかったの! もっとずっと咲くと思ってたのに枯れてるからへこんでんの! バカー!」

「バっ、バカは余計だろっ! ホントの事言いやがって!」

 トモキはムキになって言い返している。しかしムキになりながらも、自分がバカってところまでは素直に認めてしまうのが、トモキの良いところであり、なんとなく残念なところでもある。前にクラスの女子が「トモキ君は黙っていればイケメンなのに」と陰で言ってるのを聞いて、僕まで悲しくなったのを思い出した。

「バカトモキ!」喚けば喚くほど怒りが増しているのか、マヒロはますます頬を赤くしながら、トモキと幼稚な口喧嘩を続けていた。「バカッバカぁっ!」「おまえーっ、バカって言った方がバカなんだぞ!」「バカって言った方がバカって言ってる方がバカって二回も言ってるからもっとバカ!」「なんだそりゃ! 俺にも分かるように言え!」

「もー二人ともやめなって~」

 見かねたように、ヒナがよたよたと二人に割って入った。背の高いトモキとマヒロに並ぶと、ヒナはまるで小学生ぐらいの子供のようだ。しかも、二人を止められそうな様子はさっぱりない。焼け石に水と言うか、馬の耳に念仏、鹿の耳に福音とでも言おうか。

 僕はごたごたしてる三人を尻目に、プランターの枯れた花をしゃがみ込んでよく見てみる。注視したことは無かったが、昇降口のすぐ真横に植えてあったので、こないだまで白と赤の花が綺麗に咲いていたのをぼんやりと覚えている。

 確かにマヒロの言う通り花はほとんど枯れていた。プランターの一方に植えてある花は花びら全体が黒ずんでいて、花弁の一部が土の上にまで落ちてしまっている。まだ完全に枯れていない花弁を見るに、こっちはもともと白色だった花だろう。そうすると、もう一方は鮮やかな赤色の花だったはずだが、こちらは花の形をほとんど残したまま、生命力の無い灰色に染まってしまっている。

「……これ、ジニアと千日紅?」

「ユキト、分かるの?」

 マヒロが僕の呟きを聞いて、ぜえぜえ言わせながらこちらを見た。いつの間にか激しい口喧嘩は終わっていたようだ。息を切らして地べたに座り込む三人の様子を見るに、喚き疲れてマヒロがへばってしまったのだろう。

「……そう。ジニアっていうか百日草だけど。二種類植えてたの。もうどっちも枯れちゃったけど……」

 マヒロはまだどこか不貞腐れたような声で答える。

「どっちも一年草じゃんか。植えたら一年で枯れる種類のやつ」

「え? そうなの?」

 マヒロが目を見開いて驚いた。なんだ、それも知らずに育ててたのか。

 ヒナが僕のすぐ隣に寄って、枯れた花に顔を寄せる。近い。ヒナはパーソナルスペースが普通の人の半分ぐらいしか無く、小柄な身長も相まって下手をすると気付かず蹴っ飛ばされてしまいそうな距離にいつも居る。

「詳しいね~さすがユキ君」

「母さんが園芸が趣味だから、たまたま知ってただけだよ。……ていうか、よく知らずに育てといて枯れたらごねるとか、いくらなんでも子供っぽすぎるぞ。マヒロ」

「だってー!」

 マヒロはまた大声で僕に叫んだが、それから急に声を弱々しく萎ませて、ぽつぽつ泣き出しそうな声で語りだした。

「……百日草はね。実は、ちょっと前からほとんど枯れてたの。でもね、こっちは枯れたときも、仕方ないなって思えたの。百日草って百日で枯れちゃう花ってことでしょ。百日って初めの一日目からしたら、なんだか途方もない時間に感じるけど、いざ百日経ってみたら、案外なんてことなかったなって思うぐらいの長さじゃん。だから、枯れた時も百日ってこんなかーって思ったの。儚いけど仕方ないなって。それに私、咲いてから実際に日数をカウントしてたんだけどね、なんと百二十日も咲いてくれてたの。百日どころかじゃん! それはもう頑張って長く咲いていてくれてありがとうって感じじゃん! だから、千日紅は百日草の分まで頑張って咲いてね、千日頑張ってねって思ってたの。なのに……なのにー!」

「ああ……言わんとすることは分かった」

 千日紅は、もともと百日紅、サルスベリとも呼ばれる花よりも長く咲いているからそう呼ばれる花だと、これも母さんから聞いたことがある。実際は、その名の通り百日近く咲く百日草とは違って、千日も咲くことは無く、冬が来る頃にこの花は枯れてしまう。眩いばかりに紅かった花も、冬を越すこと無くくすんだ灰色に変わる。

 マヒロは誰が見ても涙をこらえていると分かるような強張った顔をして、体を震わせ始めた。だが、結局泣き出すことはなく、すねたようにうずくまってしまった。

 僕はどう声をかけていいかも分からず、またため息を吐いた。別に泣きたいなら泣けばいいだろうに、どうしてこういうところは強情なのだろうか。

 湿っぽい空気にいたたまれなくなったのか、トモキが無理に明るい声を出す。

「まあ、そう落ち込むなって! お前がへこんでると、俺達も悲しいし……」

「……あ、そっか」

 と、ヒナは何かに気付いたように呟いて、にわかにマヒロのもとへ駆け寄った。マヒロは相変わらず、うずくまったままピクリともしない。ヒナは、マヒロのすぐ隣に寄り添うようにしゃがみ込むと、母親のようにマヒロの頭に手を乗せた。

「……よしよし。花が枯れて悲しかったんだよね。頑張って育てたのに、枯れちゃって悲しかったね」

 その言葉を聞いて、マヒロはゆっくりと顔を上げる。そして、ヒナに抱きつくと、声を上げて泣き出した。

「うぅーヒナぁー! 私悲しかったよ、悲しいよー! うぅー……」

 ヒナのカーディガンに顔を埋めて、マヒロは子供のように涙を流す。カーディガンには少しずつ、せき止めていたものが溢れていくように、涙のシミが広がっていく。僕はそんなマヒロの様子を見ているうちに、どうしてマヒロがさっきまで強情に泣き出すことをしなかったのか……いや、出来なかったのかをなんとなくだが理解した。

 マヒロはきっと、色んな感情が自分の中で絡まって、分からなくなってしまったのだろう。大切な花が枯れてしまうのは悲しいことだ、そんなことさえ忘れてしまうぐらい、怒りや寂しさ、不安、仕方ないや仕方なくない、子供っぽいや大人らしい……そういう気持ちや考えが心の中でごった返して、ただ自分が悲しいということさえなんだかよく分からなくなってしまっていたのだろう。だから、きっと素直に涙も出せなくなってしまったんだ。

 それでも、中学一年生にもなって花を枯らしたぐらいで泣くマヒロは、やっぱり子供っぽすぎると僕は思う。だが、マヒロの涙をこの目で見てしまうと、そんな子供っぽさをたしなめようとする気は、なぜだか起こらなかった。

「……ったく。じゃあさ、授業終わって放課後になったら、今から植えて春になったら咲く花、買い行こうよ」

 僕の提案に、トモキが考え込んで言った。

「春に咲く花ってーと……桜とかか?」

「トモキは本当に呆れるほどのバカだね」

「なんだとぉっ!」

 憤慨するトモキをいなす。そうしながら、僕はマヒロの方をちらりと見て、密かに安堵した。マヒロは僕らのやり取りを見て、楽しそうに笑っていた。涙の跡が蒸発して消えてしまいそうな、眩しい笑顔だった。


 日がほとんど暮れかけていて、太陽が地面を焦がしてしまったように、道路にはいたるところに電柱や建物の影が落ちている。花屋へ向かう道を進みながら、いつのまにか随分日が短くなったなと僕は思う。

「マヒロはいつまでも大人にならないでよ」

 僕は、ぽろっと零してしまうように、そう口に出した。どうして急にそんなことを言ったのか、自分でもよく分からなかった。時々、漠然とした、けれどとても強い不安に襲われることがある。なにか、僕らの世界はもしかしたらすごく不安定な地平の上に立っていて、いつか何の前触れもなく壊れてしまうんじゃないかという不安。……僕らの日常はいつか消えてしまって、僕らはずっと一緒に居ることなど出来ないんじゃないか、そんな、根拠のない不安。それが、突然言葉になって出てきてしまったのだろう。

 マヒロは少しの間きょとんとしていたが、ふいに頬を緩ませると、噴き出してしまった。

「なにそれ! あはは」

 僕の言葉をマヒロは笑い飛ばして、先を行ってしまう。トモキが無言でそれを追いかけた。二人が僕から少しずつ遠ざかっていく。

「ねえ、ユキ君」

 追いかけようか足踏みをした僕の方に、ヒナがこそっと寄って来た。身長がまだ150センチと少ししかない僕から見ても、横に並ぶとやっぱりヒナは小動物のようだと思えた。

「どうしたの、ヒナ」

「ユキ君はさ、大人になりたい?」

「え……なんで急にそんなこと聞くの?」

「いいから答えてよ」

 ヒナは悪戯っぽく笑った。大人になる。大人になるってなんだ。さっき自分でマヒロにあんなことを言っておいて、いざ考え始めるとよく分からない。二十歳になること? でも、近所のお兄さんは二十歳の大学生だけど、遊んでばっかりで大人って感じはしない。仕事ができるようになること? 酒が飲めるようになること? でも、それは大人になったら出来ることで、大人になるための方法とは少し違う気がする。……好きな人が出来て、二人で子供を作るってこと? いや、ヒナが急にそんなことを聞いてくるのはおかしい。僕は耳のあたりが赤くなっていくのが、ヒナにバレないように俯いた。一瞬、ずきんとした頭痛が頭の中を走る。大人になるって何だ。僕は大人になりたいのか?

「二人とも早くー!」

 僕は顔を上げて、先を歩くマヒロとトモキを見つめる。二人の影法師は夕焼けに照らされて、僕らの足元にまで続いていた。

「……うん。僕は大人になりたい」

「どうして?」

「みんなが大人になるから」

 そう言って、僕はヒナの方を見て笑った。十三歳。僕らはまだ、自分たちがどうやって大人になるのかを知らない。


[1]


「うー寒っ!」

 三学期も半ばを過ぎた二月だが、まだ春の気配は遠く、廊下は寒風が駆け回っているような冷え込みだ。教室棟の喧騒を背に、僕は渡り廊下を歩いて職員棟へ向かう。僕らの学校は、教室が学年順に上から並んでいる教室棟と、職員室や特別教室がある職員棟に分かれている。昇降口は職員棟の方にあり、校舎を出入りするためには二つの棟を繋ぐ渡り廊下を通る必要がある。

 そして、僕の教室である1の1は校舎の一番上の一番端と、なんと昇降口から一番遠い場所にある。くそっ、不平等だ。民主主義の敗北だっ。

 三階分の長い階段を下りていく。もうすぐ一年生も終わろうとしているが、僕たちの日々は代わり映えしない。変わらない生活、退屈な日常……まあ、中学一年生なんて、進路も勉強も切羽詰まってる訳じゃないし、こんなもんでいいんだろうけど。

 下駄箱から靴を乱暴に出して玄関に出る。さて……と、深呼吸を一つしたとき、僕は靴を右左反対に履いている事に気が付いた。平静を装っているが、僕はまったく落ち着いてなどいない。わざわざ深呼吸をしなきゃいけないぐらい緊張していた。原因は、ポケットの中で角がチクチクと僕の腿を刺す、小さなカードにあった。「昼休み 裏庭の物置の前に来てください」というメッセージカード。送り主はヒナだった。

 これはまさか……告白か。いやいやいや待て、早とちりをするな。まず、ヒナと僕は幼馴染だ。僕だけじゃない、マヒロやトモキもだ。四人は小さい頃からの友達だ。ずっと一緒に居るかけがえの無い仲間だ。だから、恋愛関係とかそういうのは全然意識したことは無いし、いや全然ってことは無いけど、それにしたっていきなり告白ってのはおかしいじゃないか。うん、おかしい。冷静に考えて、ヒナはそんな大胆なことをする性格じゃない。

 とすると、どういうことか。僕は論理的に答えを導きだそうと、頭をフル回転させる。今日は何日だ。二月十六日、月曜日。ということは、解釈の仕方によってはあのイベントの振り返り日として見ることも出来る。バレンタインデー。バレンタインに振り返りもクソもあるのか、という話はあるが、しかし当日である二月十四日土曜にチョコレートを渡せなかったから、今日渡すことにしたという説は十分あり得るのではないか。実際、今年僕はヒナにチョコレートを貰っていない。僕がチョコを貰うための必要条件は満たしていると言える。

 しかも、ヒナはわざわざ校舎裏にまで呼んで、わざわざ人目を避けて僕と会おうとしている。ということは大事な用だ。大事な用という事は、本命チョコか? いやしかし! 本命チョコを日を跨いで渡すことなどあり得るのか……? だが奥手で引っ込み思案なところのあるヒナならそれも有り得る。つまりヒナは僕に本命チョコを渡そうとしている。つまり告白だ。QED。

「馬鹿かっ! 僕はっ! んなわけあるかっ!」

 だめだ、頭が混乱しきっている。ともかく冷静になれ。そんなバレンタインデー振り返り日なんてありもしない深読みをせずとも、今日二月十六日にはちゃんとしたイベントがある。きっとヒナの呼び出しもそのことだろう。玄関脇のプランターを通り過ぎて、裏庭まで向かう。プランターには、今は何も生えていない。

 学校の裏庭は、ぽつんと物置だけが置かれた狭い庭だ。ここを突っ切っるとグラウンドまですぐ行けるので、急いでいる時の近道として稀に使われる。校舎の影になっているせいでいつも薄暗く空気の湿った場所だ。ヒナは、僕に背を向けて校舎の影にしゃがみこみ、まるで隠れるようにして待っていた。

「お待たせ」

「あ、ユキ君」

 ヒナがくるりと回転して僕の方を向いて立つ。気のせいか、ヒナの声はどこか強張って緊張しているようだった。

「今日はね、ちょっと大事な話があって……」

「大事な話?」

 ヒナはこくんと無言で頷く。いつも落ち着いているヒナが、こんな風に硬くなるなんて珍しい。これは、もしかすると、マジでもしかするのかもしれない──今のうちに答えを考えておかないと。

「あのね……私、未来のことを考えたの」

「……未来の、こと?」

 突然、なんだか壮大な単語が出て来て、僕は少しまごつく。

「うん。私ね、自分で言うのも何だけど、ちょっと引っ込み思案っていうか、臆病なところがあるじゃない? だから私、よく考えてみたの。自分のしたい事ってなにかな、自分が出来る事って何かなって。怖いけど、とっても怖いけど、このままじゃだめだって思うから」

「う、うん」

 ヒナの言ってることは正直よく分からない。でも、何かを必死で伝えようとしている、そんな語調だった。

「ずっと考えてたけど、分からなかった。これが正しいのか、間違ってるのか。でも、それはこれから分かる事だから……ね。ユキ君」

 そう言うと、ヒナは僕の目の前に来るよう、一歩踏み出した。そして、顔を上げて僕をじっと見つめると、崩れるようにふにゃっとした顔で笑った。

「私がスタートって言って、それからいいよっていうまで、目を瞑ってて。お願い」

「わ、分かった」

 僕はヒナの雰囲気に押されて、言われるがままに頷く。やっぱり、今日のヒナはどこかおかしい。興奮しているような、それでいて底冷えするぐらい落ち着いているような、一言で言えば、すごく不安定な感じがする。それはまるで、僕が時々感じるあの漠然とした──。

「スタート」

 僕は瞼に力を入れて、ぎっと目を瞑る。ヒナが僕の傍から離れていく気配がして、それから目の前でごそごそと物音が聞こえ始めた。何か、布のような物が落ちるような音。ヒナは僕の前の方を行ったり来たりしていて、なんだか少しずつ息が荒くなっているような気がする。

「……ヒナ、」

「喋るのもダメ」

 ヒナに釘をさされ、僕に出来ることは無くなった。ただ、ヒナが何か作業をしている音は続き、段々と、少しずつその音は小さくなっていく。冬の涼風が、僕の体を撫ぜる。やがて、裏庭はほとんど完全な静寂に包まれていった。そして、ヒナが僕から少し離れた場所で、静かに、息を吸う音が聞こえた。

「ユキ君、好きだよ」

 えっ、と僕が驚きを口にすると同時に、何かが切れるざしゅっという音と、大きな鈍い音がした。何かが割れるような音。何か大きなものがぶつかるような音。

「……ヒナ?」

 返事が無い。「ヒナ?」繰り返して聞くが、返事が無い。僕は目を瞑ったまま、全身が冷たい汗で濡れていくのを感じる。「返事してよ」誰も応えない。「ねえ」裏庭はとても静かで、ただ、何か液体が地面を流れていくような音がして、「いいよって言ってよ!」

 僕は目を開ける。ヒナが倒れている。赤。その二つの情報で、頭がストップする。世界が凍り付く。僕は、何も考えられない。何も考えられない自分を客観的に見つめて、そのあとで、ヒナが死んでいると自分の中で声がする。ヒナが死んでいる。頭から血を流して死んでいる。僕は一歩前に進む。ヒナは、頭が割れて死んでいた。何か重いもの、多分ヒナの血がべったりと付いている、あの大きな石で頭を打って死んでいた。石には紐のようなものが括り付けられている。何か仕掛けがしてあったのだろう。仕掛けによってヒナが死んでいる。僕は何も分からない。ヒナが死んでいる。僕には何一つ分からない。ただ、分からないままに、僕はしなければいけないことを、たった一つ僕が分かる事だけを思い浮かべる。

「隠さなきゃ」

 僕は隠さなければいけない。僕はヒナの死体を隠さなければいけない。昼休みはあと三十分ほどだろうか。幸い、目の前には物置という絶好の隠し場所がある。モップもある。バケツもある。蛇口もホースもある。ヒナも居る。二人なら間に合うかもしれない。ヒナは死んでいる。僕は、ヒナの死体を隠さなければいけない。


[2]


「おわ~寒いっ!」

 私は、後ろ手で暖房の効いた職員室のドアを、名残惜しくもゆっくりと閉める。廊下はすさまじい冷えようだった。しかし、にもかかわらず、なんだかんだ私は機嫌が良かった。学級委員の仕事として職員室までプリントを取りに来たわけだが、ついでとばかりに先生にこないだのテストの成績を褒めちぎられてしまったのだ。一年生では学年トップクラスだって。「マヒロはズルしてるよね。いや、カンニングしてるって言ってるんじゃなくて、なんていうか存在単位でズルしてる。単刀直入に言って、その感じで僕より成績が良いのはおかしい」と、いつだったかユキトに言われたことがあった。いやーすいませんね。頭の出来がようござんして。

 鼻歌交じりに階段を上がっていく。職員室は二階の端にあるので、1の1に戻るにはここから三階の長い渡り廊下を歩いて行かないといけない。今日は機嫌がいいから許せるが、これで叱られでもしていたら辛いし寒いしで最悪だった。今日は別に叱られるようなことはしてないけども。まったく、ていうか廊下にエアコン付けてくれてもいいのにね。

 ふと外を見ると、昇降口を知った影が出て行くのが見えた。ユキトだ。私は目が良いので、ずいぶん遠くからでも正確に人影を見分けることが出来る。それに、ユキトぐらい見知ったやつのことを見間違うほど、私は薄情じゃない。それにしてもあっちは裏庭の方だけど、何しに行くんだろう。

 しばらく見ていたが、窓からは見えない死角に入ってしまったところで、私は教室へ急ぐことにした。寒かったからだ。明日からカイロを貼って登校しよう。カイロを回路のように全身に巡らせて……全然面白くないな。

「ううーただいまー」

 教室に戻り、私は自分の席へ戻る。「おはえり」と、口にごはんを詰めながらトモキが言った。

「口に物入れて喋んないでよー」

「…………」

 トモキはそのまま無言で私を見つめながら、よく噛んで飲み込むと、やっと口を開いた。

「だって、無視するのもわりーかなって」

「うーん、ありがと」

 私は机を持ち上げて、トモキの方に寄せる。いつもは四人で席を合わせて食べるのだが、今日は私とトモキの二人しか居ない。

「さっきユキトは外にいるのを見つけたけど、ヒナはどうしたの?」

「なんか保健室に行くとか言ってたぜ」

「そう」

 あんまり具合が悪そうには見えなかったけど、ヒナは体がちょっと弱いから、突然体調を崩してしまったんだろう。

「……どうでもいいけどさ、トモキは今日何の日だか分かる? 二月十六日」

「バレンタイン振り返り?」

「なにそれ。モテなさ極まりすぎでしょ」

「うっせー」

 トモキは弁当の残りを掻っ込む。まあ、分からないなら分からないで別に良い。私も自分の分の弁当を開ける。好物のエビフライが三つも入っていた。私はまた上機嫌になって、トモキとおしゃべりをしながら昼休みを過ごした。それから、午後の授業が始まっても、ユキトとヒナは教室に戻ってこなかった。


[3]


 チャイムが鳴る。午後の授業が始まってしまった。……五時間目は国語か英語だったはずだ。先生には後で体調不良だとか、適当な理由を付ければいい。

「……大体、片付いた」

 片付いてしまった、と言うべきか。ヒナが死んだことを示す痕跡は、裏庭からはほとんど消えて無くなっていた。ヒナの死体は物置に隠して、血の付いた壁や地面は水で流したり、土を混ぜ返してなんとか隠すことが出来た。ヒナの頭を割った大きな石は、血で濡れていただけじゃなくて、ヒナの頭部の一部がべったり張り付いていたので、仕方なく死体と一緒に物置の中に匿うことにした。僕の力でなんとか持ち上げられるぐらいの重さで、十キロ以上はあったように感じた。これなら、ヒナの小さな頭に落下させて、即死させることも不可能ではない。

 ヒナは死んだ。それは、未だに受け入れがたい事実だった。だが、思考はまとまりつつあった。まず、ヒナが死んだのは、自殺だ。裏庭の片づけをしているうちに、それは明確になった。最初に僕が見立てた通り、ヒナはこの裏庭に自殺をするための装置を作り上げていた。僕がここに来た時は、装置は物置の上からブルーシートで覆い隠されていたようで、それに気づかなかった。注意が散漫すぎたのだ。あの時は、こんなことになるなんて思ってもいなかったから……装置の原理はとても簡単だ。まず、ロープを石に括り付けて、それを物置の壁の、固定したフックに引っかけておく。そして、ロープの一方をひっぱると、定滑車の原理で石が宙に浮きあがる。あとは、ロープの先を地面に杭で打って固定しておき、ロープを鋭い鋏で切り取れば、石が頭の上に落ちてきて一息で逝けると、そういう訳だった。ヒナは自殺した。それは十分に信じ難い事だった。動機が分からない。僕の前でわざわざ死んだことだって、余りに不合理で不可解だ。 そして……それは僕以外の人にとっても信じ難く不可解なことなのだと、そう気づいたのは何もかも片づけが終わってからのことだった。

 装置は完全に解体してしまった。杭は抜いた。穴も埋めた。ロープもほどいて片付けてしまった。後に残っているのは、血のべったり付いた石と、ヒナの死体。僕は、笑いが込み上げてくるのを抑えきれず、噴き出してしまった。

「こんなの……誰が自殺だって信じるんだよ」

 乾いた笑いは、喉がからからなせいでほとんど音にならず、苦しい咳に変わった。しかし、どうにも笑えて仕方が無かった。状況を見れば、まるで僕がヒナをそこらに転がっていた石で殴り殺したようにしか見えない。このままでは僕は人殺しだ。それはおかしすぎる。ヒナが死んで辛い思いをしているのは僕なのに、僕はヒナを殺したことになってしまうのだ。それはおかしすぎる。おかしすぎて、笑いが止まらない。咳。さっきから頭が痛くて堪らない。

 とにかく、考えなければいけない。どうすればみんなからヒナを見つからないようにできるか。……みんなって誰だ? 先生? クラスメイト? 違う。トモキ、マヒロ。そうだ、マヒロにだけはヒナを隠さないといけない。ヒナが死んだのを知ったら、マヒロはきっと泣いてしまう。それだけはダメだ。マヒロは笑顔じゃないといけない。マヒロを悲しませるのは、マヒロだけは、何があっても絶対に、「みんなって誰?」

 僕は耳元で聞こえた声に、返事をする。「僕と、トモキとマヒロ」「私は?」「もちろん、ヒナも一緒だよ」僕は、振り向いてヒナににっこり笑って見せる。物置の中にヒナは居る。物置の中で、ヒナが僕に笑みを返す。

 

[4]


 月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。教壇の先生が、奥の細道の一節を読み上げる。私はあくびを必死に噛み殺しながら、耳でそれを聞きつつ、窓の外に目を向ける。

 グラウンドでは別の学年の知らない生徒が、トラックの中を走り回っている。早い子も居れば遅い子も居て、体操服は長袖だったり半袖だったりして、まだ寒いのによく半袖で走れるな。でも長袖だと走ってるうちに暑くなってくるし、結局あれが正解だよな、とかどうでもいいことを考える。教壇の方に目を戻すと、授業は次のページに進んでいて、慌てて教科書をめくった。

 もうすぐ一年が終わって、次の一年が来る(年度で数えるとだけど)。冬が終わって、次の春が来る。だから何かが劇的に変わるって訳でもないけど、時間が前に進んで、確かに何かが変わって行くことは、怖いような嬉しいような、そんな風に感じる。時々、未来のことを考える。みんなは大人になったら何になるだろう。ユキトは学校の先生とか似合うだろうな、トモキはプロサッカー選手になれてたら嬉しいな、ヒナはお医者さんなんかどうだろうか(私は……絞り切れないけど、いつか月に行ってみたい!)。未来のことを考えるのは楽しい。でも、楽しいって気持ちと一緒に、寂しいって風にも思う。私たちはずっとこの場所に居る事は出来なくて、ずっとこのままでいることは出来ない。

 時々、私はちょっと子供っぽすぎると、特にユキトに言われてしまうことがある。そう言われると私はいつもむかっとして不機嫌になるけど、それは図星を突かれているから、尚更ムカついてしまうのだろう。大人になるのは怖い。だから、私は自分の中の子供っぽさを手放そうとしない。私は自分の中で変わってしまうものが、失われていくものが怖くて仕方ないのだ。この日常が永遠に続いたりしないこと、それを考えると恐ろしくて、眠れない夜もある。だけど、それは怖いままで、恐ろしいままで良いのだと思う。前の年の冬、育てていた花が枯れてしまった時、それに初めて気が付いた。失うことは怖くて恐ろしくて悲しい。だから、この瞬間はとても輝いていて、生きている事には意味があるんだろう。

 ……なーんて! 私ってば詩人過ぎるかも。頭の中で考えていただけなのに、私はなんだか恥ずかしくなってしまう。

「次、マヒロさん答えて」

「えっ、はい」

 反射的に立ち上がる。しまった、いつの間にか授業が進んでいたらしい。私は黒板がよく見えないふりをして、目を細めながら、授業がどこまで進んでいるかを把握しようとする。今さら悪あがきしたところでどうにかなる訳ないが……!

「……対句?」

「正解。では次……」

 助かった、頭の出来がよくて。


「ユキトとヒナ、結局帰ってこなかったね」

 授業が終わって、私はトモキの背中をつつく。

「そういやそうだな」

「怪しい」

「怪しいって……何が?」

 私は顎に手を当て、椅子の上でいわゆる考える人のポージングをする。

「ヒナはともかく、ユキトは昼休みに昇降口から出て行くのを見たの。それなのに、昼休みが終わっても帰ってこない。私に姿を見せない。そもそも、私の親友であるヒナとユキトが同時にクラスに居ないなんて、これってちょっと不自然じゃない?」

 私は、鉛筆を口に咥えて話す。パイプを吹かせて推理を語るホームズよろしく。

「これはきっと事件よ。名探偵の血が騒ぐわ……!」

「鉛筆咥えんな。きたねーぞ」

 確かに。私は反省して鉛筆を机に戻す。

「つーか、事件ってのも大袈裟だぜ。二人まとめて体調不良とかじゃねーの」

「それはそうかもね。んじゃ、真相解明、兼お見舞いに、後で保健室へ行ってみますか」

「そうか。俺はパスだ。先にグラウンドのセッティングしなきゃいけねえ」

 そっか。次は体育だった。丁度いい。下の階へ降りるついでに保健室に寄って行こう。そして、何気に私の推理は次の段階へと進んでいた。親友思いのトモキが、少しも二人を心配してないなんておかしい。恐らくこの事件、トモキもグルだ。ふふ、なんか盛り上がって来たー!

 

[5]

 

 ベッドの上から天井を見つめる。蛍光灯が無機質に並ぶ、薄暗い天井。横になっていると、心臓がすごい音を立てて動いているのが聞こえて、気分が悪かった。そんなに主張しなくても、僕は自分が生きていると分かっている。

 五限目の途中の時間から、僕は保健室に腹痛を訴えて休ませてもらっていた。授業を休んだことの理由づくりのためだ。昼休みからずっとトイレにこもりっきりで、それから教室に戻らず保健室に直行した、ということにすればそれほど不自然じゃないだろう。

 この後は授業に出て、放課後になってから、ヒナの死体をどこかに移す。凶器の岩を隠すのは一苦労だろうけど、夜の闇に紛れてゆっくり運べば、きっとどうにかなるはずだ。

「具合よくなった?」

 ベッドを囲むカーテンの向こうから、養護の先生の声がする。心の落ち着く、優しい声だった。

「はい。なんとか」

「次の授業には出れそう? 無理しないでいいわよ」

「いえ、大丈夫です。チャイムが鳴ったら出ます」

「そう。ねえ、ユキ君は、大人になりたい?」

 カーテンの向こうで、小さな影が揺れる。僕は考える。その答えをよく考える。

「大人になりたくない」

「どうして?」

「ヒナが死んだから」

「私、死んでないよ」

「死んでないの?」

「そう、死んでないよ」

「そっか」

 僕は安心する。ヒナは死んでいない。ヒナがそう言っているのだから、そうなのだろう。

「ユキ君は、大人になりたい?」

「どうしてそればっかり聞くの?」

「いいから答えてよ」

 カーテンの向こうで、ヒナが悪戯っぽく笑う。僕は、ずきん、ずきんと頭の中に痛みが走るのを感じる。頭が割れてしまいそうな、違う、頭が割れてしまったのは僕じゃない、死んでしまったのは僕じゃない、死んだのは僕じゃない、「死んだのは……」

 僕が何かを口走ろうとしたその瞬間、授業終わりのチャイムが鳴る。僕はベッドから起き上がって、靴を履いた。いつの間にか養護の先生は保健室から出て行ってしまっていたようだ。無人の保健室を後にして、僕はそのまま男子更衣室へと直行する。着替えは更衣室に置きっぱなしだから、それで問題ない。六限目は体育だ。男女別だからトモキとは顔を合わせるけど、トモキだけになら隠し通せるだろう。マヒロに会わずにすむのは、ことさら都合が良い。


 着替えを済ませグラウンドに着くと、案の定すぐトモキに見つかった。

「お、ユキト。どこ行ってたんだよ」

 その瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだような気がした。自分が元居た世界と、今いる世界の狭間で捻じれてしまうような、不快感。……僕は、一体何をしているんだ。僕はいま、どこに居るんだ。

「おい、どうした! 顔色悪いぞ!」

 体をふらつかせる僕を支えるように、トモキが僕の肩を強く掴む。

「……なんでもない。ちょっとさっきまで保健室で休んでて」

「じゃあ見学してろよ。また具合悪くなったらマズいだろ」

「大丈夫、大丈夫だから」

 無理やり笑みを繕うが、トモキと目が合わせられない。マトモに口もきけそうにない。何かを話せば、ヒナが死んだことが口からこぼれ出てしまう気がする。脂汗もだらだらと流れ出てくる。これじゃ、本当に体調不良みたいだ……。

 僕は黙り込み、俯いたままでいた。すると、トモキは突然僕と肩を組んで歩き始める。

「ちょ、ちょっと」

「先生―! こいつ体調悪そうなんで見学させときますー!」

 遠くに居る体育教師に、トモキが呼びかける。「おーう」と返事が返ってくる。

「あとついでに俺も見学しまーす」

 返事を待たずに、トモキは踵を返す。「あー? なんだってー?」と先生が呼びかけてきていたが、トモキは無視してグラウンドの端の方へ足を進めていた。

 よいしょ、とグラウンドから出た水飲み場のあたりで、トモキは僕を肩から降ろした。力なく座り込んだ僕の隣に、トモキも座る。

「……別にいいのに。今からでも授業戻んなよ」

「ん? まあ大丈夫だって。一回ぐらいサボっても、俺の体育成績5は揺るがねーよ。俺の通知表で唯一の華!」

「じゃあなおのこと死守しなきゃダメでしょ」

 僕は弱々しく笑った。こんなにひどい気分でも、トモキの言葉にはつい笑ってしまう癖がついている。

「で、どうしたんだよ。なんかあったんだろ?」

 僕はびくっと体を震わせる。見透かされていた。そう言えば、トモキはこういうとき妙に勘が良い。

 自分の心が揺れ動くのを感じる。ここで全て打ち明けてしまえば、楽になれるだろうか。薄々は気が付いていた。ヒナが死んだことをこれからずっと隠し通すことは絶対に無理だ。遅くても今日の夜にはヒナがいなくなったことに誰かが気が付いて、捜索が始まるだろう。もしかしたら警察も出動するかもしれない。よっぽど上手く隠さないと、ヒナの死体は見つかってしまう。もし、今晩のうちに見つからなかったとしても、明日にだって捜索は続く。それで見つからなくても、一週間、一カ月と捜索は続くはずだ。僕にはヒナの死体が永久に見つからないよう隠す方法も、場所も思いつかない。もう何もかも話してしまおうか。僕はヒナを殺していない。少なくともトモキなら、そのことを分かってくれるはずだ。他の誰にも信じてもらえなくても、トモキにさえ信じて貰えれば、それでいいじゃないか。全て打ち明けてしまおうか。そうしたら、そうしたらもしかしたら、

 ──また、あの日常が戻って来るんじゃないか。

「何にもないよ。ちょっと気分が悪いだけだって」

「……そか。ならいいけどよ。ちなみに、ヒナのことは見てないか? あいつも昼休みから姿が見えねーんだけど」

「保健室に居たよ。僕と同じで体調不良だって」

「ここ最近あいつ、ちょっと元気無かったしな」

 そうだっただろうか。記憶の中で最近のヒナを思い返してみるが、特に変わったふうに感じたことは無かった。それも、トモキだから分かったことなのだろう。

「マヒロも心配してたぜ。心配ってか、怪しいから探ってるって感じだったけど」

「……え?」

「ほら、今日って二月の十六日だろ? 去年のこともあるし、なんかすげー張り切ってお前らのこと探してたよ。あいつもここしばらく元気なかったから、ちょっと安心したけどさ。つーか、俺は何も聞かされてないけど……ユキト? おい、お前さっきより顔色悪いぞ。真っ青だ」

「ごめん。やっぱり気分悪いや。保健室行ってくる」

 僕は急いでトモキに背を向けて走り去る。そうだ、今日は二月十六日。それなら、あの場所にヒナの死体を放置しておくのはマズい。着替えもせずに裏庭へと駆けていく。長袖のジャージが、じっとりと熱を帯びて汗に濡れていく。


[6]


「怪しーすぎるー!」

 六限の体育にもヒナは現れなかった。そして、放課後の教室には、ユキトはおろかトモキさえ居ない。やっぱりトモキもグルだったんだ。そして、私を騙くらかして、どうこうするつもりなんだ!

「なーに一人で騒いでんだよ」

 と思ったら、トモキが帰ってきた。なんだ、着替えに手間取ってただけか。

「ユキトは?」

「えーと、体育には居たぜ。五限目は保健室で休んでたんだと。けど、なんか途中でまた気分悪いとか行って出てった。今頃保健室か、家に帰ってるんじゃねーの?」

「じゃあ、ヒナだけじゃなくてユキトも体調不良ってこと? それじゃ尚更おかしいよ。だって……」

 そうだ。一番おかしいのは、ヒナとユキトが今この場に居ないことなんかじゃない。

「お前、保健室に見舞いに行ったんじゃなかったか?」

「そう! そこが妙なの! 実は、さっき保健室に行ったらユキトもヒナも居なくてね、養護の先生だけ居たの。それで、ユキト君とヒナちゃん来てませんでしたかって聞いたら……」

 と、私はちょっと溜めて、キメポーズとして人差し指をピンと立てる。

「『今日はヒナちゃんも、ユキト君って子も来てないわよ』だって。これは今まで出た情報と矛盾するわ。昼休みに保健室に行ったはずのヒナも、五限目を保健室で休んでたはずのユキトも、養護の先生には目撃されてない。それなら、ヒナとユキトはどこに消えたっていうの?」

「……それは、妙だな」

 トモキはとぼけたように頭を掻いた。

「あ! 今言い淀んでしかも頭まで掻いだ! やっぱりなんか隠してるでしょ!」

「隠してねーよ! 俺も妙だなって思っただけだって!」

「いーや、隠してる! トモキは隠しごとする時、絶対私の目を見ないで話す!」

「あ、」

 トモキはそう言うと、私とばっちり目を合わせた。

「引っかかったね。ブラフだよ。目を合わせたってことはやっぱり隠しごとしてる」

「あっ、やりやがったな! お前っ!」

 ふふ、伊達に五年も六年も一緒に過ごしてないよ。その気になればトモキを引っかけるぐらい、どうってことないんだから。

「ともかく! なんでもねーから! 俺部活行くし! じゃあな!」

「あ、ずるい!」

 トモキは逃げるようにバタバタと教室を出て行った。流石の私も運動神経抜群で、サッカー部期待の星であるトモキを追いかけるのは骨が折れる。私は追いかけるのは諦めて、椅子に座り込んだ。そういえば、あいつこれから部活なのに、なんでわざわざ制服に着替えてたんだろ。バカだな。

 さて、座り込んだはいいけど、どうしたものか。いつもなら部活も何もしてないユキトや、習い事が無い日は同じく暇なヒナと、適当に時間を潰しているんだけど、二人が居ないのではどうもすることが無い。ていうか、結局どうして二人は居ないんだ。トモキは何かを隠してるみたいだったけど、結局それは何を隠していてあんなに焦ってるんだ。考えよう。どうせ暇なんだ。考える時間だけはある……。

 鉛筆を指先でくるくると回しながら、私は推理を開始しようとする。だが、私の名推理は始まることなく中断された。

「マヒロ~」

 教室の外から、私を呼ぶ声がした。聞き間違えようのない、ゆるっとした優しい声。

「ヒナ!?」

 私はすぐさま教室の外に振り返るが、ヒナの姿は無い。急いで廊下まで出て、あたりを見回す。廊下の先に、階段を下りていくヒナの小さな背中が見えた。

「ちょ、ちょっと待ってよ……!」

 私は慌てて階段まで駆け抜けていき、そのまま段差を降りていく。下校しようとする生徒たちに阻まれて、ヒナの姿は見え隠れしながら、少しも追いつけない。まるで、近づくたびに遠ざかる蜃気楼みたいに。

 やっと一階まで辿り着いて、また辺りを見回す。昇降口の方に、ヒナがよたよた歩きで走っているのが見えた。「待ってってば……!」ヒナも走り疲れているようだが、私だって六限目に散々走った後なんだから、なかなか足が前に進まない。ヒナ、私をどこに連れて行く気? 

 下駄箱から靴を出す。玄関の向こうにヒナが見えた。ヒナは、私の姿を見ると、隠れるようにまた逃げて行った。あっちは、裏庭の方だ。ヒナ、どうして隠れるの、裏庭に何があるの? 追いかけて、玄関口から飛び出した。ああ、もう! 靴が反対!

 靴を履き直して、裏庭にまで辿り着く。そこには誰も居なかった。不気味なほどに静かな空間に、遠くのグラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくる。二月の冷たい風が芝生をそよそよと撫ぜ、雲に見え隠れする太陽が、建物の影にならない僅かな隙間から、土に光を当てる。どこか異様な存在感を放つ物置だけが、微動だにせず動かない。

「ヒナ、そこに居るの?」

 私は、赤く錆び付いドアに、手を掛ける。


[7]


 ……暗い。寒い。寂しい。

 物置の中は、黴臭くて狭い。人間が三、四人入るのがやっとという空間の中に、僕やヒナだけでなく、ヒナが自殺するのに使われた道具も乱雑に詰め込まれている。僕は、仕方なく体を縮こまらせて、埃まみれの床の上にうずくまる。

 最初からこうしていれば良かったんだ。物置のドアは内側から鍵がかかるようになっている。だから、僕がこの中にヒナと一緒に居て見張っていれば、誰も中に入って来ることは無い。たとえマヒロがここに辿り着いたとしても。

「ユキ君は、それでいいの?」

 なんでそんなこと聞くの。ドアの向こうからヒナの声がする。黙っててよ。ヒナは死んでるんだから。

「死んでないよ。私はここに居るよ」

 そうじゃない。ヒナは死んだんだ。僕の隣で、冷たく硬くなっているのがヒナだ。外から聞こえる声は、僕が作り出した幻に過ぎない。

「そんな……私、そんなこと言われたら悲しい……悲しいよ……」

 やめてくれ! 作り物の分際で悲しむふりなんてするな! 嘘つきだ、ヒナは嘘つきだ。僕を騙した嘘つき。僕を人殺しに仕立て上げた嘘つき……。

「大丈夫。ユキ君は人殺しになんかならない。心配いらないよ。最近の警察は優秀だもん。自殺か他殺かぐらいすぐ分かっちゃうよ。だから、ユキ君は何も心配しなくていいんだよ」

 ……分かってる。僕もそう思っていた。だから、最初からそんなこと心配なんてしてなかった。ただ、心配してるふりをしていただけ。本当に怖いものから目を逸らすために。ずっと、恐れていたことが現実にならないために。

「ユキ君、泣いてるの?」

 僕は暗い部屋の中で、たった一人だった。ヒナも、トモキも、マヒロも居ない。僕の大切だった日常は、もうここには無い。ただ、子供みたいにすすり泣く、弱くて臆病な僕が居るだけだ。分かっていた。あの瞬間、ヒナが死んでしまったのを見てしまった瞬間に、僕らの日常は砕けて消えてしまったのだと、最初から分かっていた。それなのに、僕はまだ失うのが怖いままだった。もう無いはずの僕らの日常が、消えてしまうことだけが変わらずに怖かった。だから、僕はヒナの死体を隠した。僕らの日常が失われないように。僕らの日常が、ずっとずっと永久に変わることなく続くように。最初から分かっていた。分かりきっていた。そんなの無理だって。ヒナは、僕らの大切で、かけがえの無い仲間は、もうどこにも居ない。この世界のどこにも。それなのに僕らの日常が続くなんて、絶対に有り得ないことだって。

「ヒナが居なくなったら……僕は……大人になんてなれない……なれないよ……!」

 大人になんてなりたくない。ヒナを置いて僕らは大人になる。二十歳になって、仕事を初めて、お酒を飲んで、好きな人が出来て、家族が出来て、そうやって幸せになる度に、ヒナのことを忘れている時間が増えて。それなのに、僕に「好きだよ」と言って死んだヒナは、十三歳のままで。そんなの許せない。許せるはずがない。それでも時間が前に進んで行くなら、僕はずっとここに居る。この暗くて黴臭い壁の中で、息を止めて、世界が終わってしまう日を、ここで待ち続ける。

「ふふ、ユキ君って大人びてるようで、まだまだ子供だよね。どんなに待っても、世界は終わったりしないよ。私たちの生きてるこの世界は、そんなにヤワじゃないもの。ユキ君。このままここに居ちゃダメだよ。ユキ君は前に進まないといけない。私を置いて、前に進まないといけないんだよ」

「そんなこと出来ないよ……。僕に、そんな勇気なんてない」

 ヒナは、ドアの向こう側で悪戯っぽく笑う。「ねえ、ユキ君」何度もフラッシュバックしたその言葉が、あの日と同じトーンで、同じ笑みで、僕に呼びかけた。

「いいよ。目を開けて」

 僕は、目を見開く。それでも、物置の中は真っ暗なまま変わらない。光を、光の中に行かなきゃ。目を開けないと。震える足を立たせて、鍵を開けてドアに手を掛ける。さび付いたドアはひどい音を立てて、開いた。ヒナ、会いたいよ。ヒナ、光を。僕に、光を!

 僕は押し出されたように、ふらふらと外に出た。そこは、いつもの薄暗闇の裏庭。誰も居なかった。ヒナはここには居なかった。ヒナが居るのは、あの物置の中。ヒナは死んでいる。ここには誰も居ない。誰も居ない。

「……また、僕を騙したんだ」

 呆然として立ち尽くす。自分がどこに行けばいいか、何も分からない。もう何も。

 それから、どれだけの時間が経ったのだろう。たった一分か、それとも一時間か、時間の感覚さえ曖昧なままの僕の視界に、一つの人影が映る。昇降口の方から、こちらに近付いてくる影。見知った影、見間違えるはずが無い。

「マヒロ」

 僕は物置の中に飛び込み、ドアを閉める。遂に、マヒロがここに辿り着いてしまった。どうやって? どうして? もうそんなことはどうでもいい。足音はこちらに近付いてくる。ゆっくりと、辺りを探るように、丁寧に芝生を踏みしめていく。足音が止まる。ドアを隔てた向こうに、マヒロが居る。それが気配で分かる。分かってしまう。僕はただ、一秒でもその時が長く続くように、この静寂が打ち破られることが無いように、息を殺していた。

「ヒナ、そこに居るの」

 ドアに手が掛かる。隙間から光が差し込む。そして、ドアは驚くほど簡単に、ガラガラと音を立てて開かれた。


[8]


「……………………えっ?」

 私は、目の前に映る光景に、頭がフリーズする。そして、瞬きを一つした途端に、パン! と派手な音が鳴った。

「マヒロ~! 誕生日おめでと~!」

 私は、突然のクラッカーに驚いて、物置の中からよたよたと出てきたヒナに、突き出されるような形でしりもちをついた。すると、物置の後ろの方からも、パパン! とクラッカーの音が二つ鳴った。

「おめでとう、マヒロ」

「おっめでとーう! いやー、一時はマジでバレるかってひやひやしたぜ」

 物置の中からは、ユキトとトモキ、私の愛する仲間たちが続々と出てくる。埃っぽい中にわざわざ隠れていたからだろう、ユキトはゲホ、とひとつ咳をした。

「どうして……なんで、わざわざこんなとこに?」

「まあ、成り行きっていうか、丁度いい隠し場所が無かったっていうか」

 はは、と笑うユキトは、見覚えのある形の、大きな包みを抱えていた。

「そうそう。マヒロ、これプレゼントだよ」

「なーにが、『そうそう』だ。隣町の楽器屋からそれ取りに行くために、わざわざヒナと五、六限サボってたくせに!」

 なるほど、二人が昼からずっと居なかったのはそういう事かと、ストンと腑に落ちる。それから楽器屋という言葉も、もちろん私は聞き逃さなかった。

「楽器って、もしかしてそれ! 私のギター!」

「……トモ君~! 先に言っちゃダメでしょ!」

「やべ」

 ヒナに怒られてるトモキを無視して、私はユキトからプレゼントを受け取る。包みを丁寧に解くと、そこにはネックが折れていたはずの私のアコースティックギターが、新品同様に綺麗な姿でそこにあった。

「っっーーーー! なんで!? パパはもう直んないって言ってたのに!」

「昔だったら、ギターのネックって折れたらもう直らなかったけど、最近は直してくれるお店もあるんだってさ。まあ、隣町にまで聞きまわって、直してくれるとこやっと見つけたんだけど……」

 今の私はきっと、さぞかし輝いた目をしていることだろう。私の大切にしていたアコギ。数カ月前に、ちょっとした拍子に倒してしまって、ネックが折れてしまったアコギ。もう二度と弾けないと思ってたのに、もうあの優しくて温かい音は、絶対に聴けないんだと思ってたのに。

「弾いてみてもいい!?」

「どうぞ」

 ヒナが物置の中から椅子と、ギターのケースを渡してくれる。私がその場で弾かせて、と言うのを見越していたのだろう。ピックをケースから出し、ペグを回して軽くチューニングをする。弦を弾くと、あの時と変わらない、じんわりと胸の中に響くような音がした。私は初めてギターを触る子供のように、夢中になって弄りまわす。それを、みんなは私を取り囲むようにして、見守っていた。

「……おい、マヒロ。お前泣いてないか?」

 トモキに言われて、私は初めて頬の上を涙が落ちていくのに気づく。涙は止めようと思っても止まらず、グズグズと鼻を啜ることしか出来ない。

「うぅー……ううー!」

「も~。マヒロってばまた泣いてる」

「いいの! これは嬉し泣きだからノーカンなの! 大好き! みんな大好き! うわあー!」

 私は嬉しさをどう表現すればいいかも分からず、滅茶苦茶な演奏に、滅茶苦茶な音を乗せて歌った。この瞬間にしかない音楽を。ここにしかない歌を。私の大切で大好きなみんなのために。

「あははっ! あははははっ! 大好き……あははは……!」


 それから、一通りはしゃいだ後、みんなで写真を撮って、今度ケーキも食べようという話をした。今晩は家族でお祝いだから、また今度。

「じゃ、俺はこれから部活行くから。また明日な。マヒロ、マジおめでとう」

「ういういサンキュー。ふふっ」

 上機嫌でトモキに手を振る。今更だけど、体育が終わった後に制服に着替たのは、ジャージだとお祝いの時になんだか恰好付かないから、わざわざ着替え直したのだろう。変なところに気が利く奴だ。さっきはバカな奴なんて思って、悪いことしたな。

「……さて、じゃあ僕も帰るよ。今日は家の手伝いがあるから」

「ん、そっか。バイバイユキト。ほんっと色々ありがとう」

「良い一日を」

 そう言って、ユキトは教室を出て行った。残ったのは私とヒナだけ。放課後の教室はみんな出払っていて、私たち二人だけだった。

「ヒナもホントにありがとう! ユキトと一緒にわざわざ隣町にまで行ってくれたんでしょ? 大変だったよね。しかも授業までサボって」

「ふふ。どういたしまして。今日のサプライズね、ほとんどユキ君が企画して進めてくれたの。だから、私は全然大したことしてないよ」

「へー、ユキトが。なんかちょっと意外だな。てっきりトモキが二人に言って始めたんだと思ってた。ああいう騒がしいの、アイツが一番好きそうだから」

「騒がしいのが一番好きなのは、トモ君じゃなくてマヒロでしょ」

「あーそれもそうかー! あははっ!」

 あんなに喜んだ後にいまさらという感じだけど、なんだかここまで手の込んだ祝われ方をすると、ちょっとだけ照れ臭い。

「……実はね、これ本当は言っちゃダメなんだけど」

 ヒナは机の上に座って、窓の方に目を向けた。グラウンドからは、規則的な運動部の掛け声が聞こえてくる。

「ユキ君帰り際、今日は家の手伝いって言ってたでしょ。あれね、ギターの修理のためにお小遣い前借りしたから、そのお返しに家事一週間分肩代わりしてるんだって」

「えーそうなの! そんなことまでして貰って悪いなー」

「うん。偉いよね」

 ヒナは、じっと窓の外を見つめている。その視線はどこか寂しそうに見えた。まるで、ここじゃないどこか遠くを見つめているような、そんなふうに見える瞳。

「誕生日おめでとう、マヒロ」

「ありがとう、ヒナ」

「13歳の誕生日おめでとう」

「うん」

 ヒナは、私に視線を戻して、穏やかな微笑みを浮かべた。

「マヒロ、去年の誕生日、自分が何歳になったか覚えてる?」

「え?」

 私は、突然そんなことを聞かれて驚く。考えるまでもなく、私は答える。

「13歳?」

 ヒナは、私の顔を見つめて、ずっとニコニコしている。けれど私は、最初は穏やかだと感じたその笑みが、気のせいかひどく歪なものに感じ始めていた。

「じゃあ、その前は?」

「13歳」

「その前は? そのもうひとつ前は?」

「13歳だよ。その前も、その前の前も13歳」

 私は困惑する。どうして突然、ヒナはそんなことを聞くのだろう。

 一体どうして、そんな当たり前のことを聞くのだろう。

「ねえ、マヒロはさ。未来のことって考えたことある? 遠くじゃなくてすぐ先の未来、例えば、来年のこととか」

 ヒナは、微笑みを崩すように、くしゃっとした笑みを浮かべた。ヒナは、私に答えなど、聞いていないみたいだった。

「私はね、来年の冬に、死のうと思ってるの」

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