金太郎×スラング

 なにか堅いものをガッガッと叩き付けるようなその音は、鉄筋コンクリートのマンションの壁から、時折聞こえてくるのだという・・


 困り顔で打ち明けてきたのは、うちに遊びに来ていた妻の弟だ。


 フリーランスのエンジニアを生業にしている義弟は、場所に囚われずパソコン一台で身を立てていた。

 そんな彼の主な仕事場は、自宅らしい。

 集中できるようにと、鉄筋コンクリート作りで防音設備の優れたマンションを選んだ。


 にも拘らず、夜になると、時々、どこからともなく妙な音が聞こえてくるらしい。


 彼は、まず、隣人を疑ったのだという。


「隣にはKという中年の男性が、高齢のお母さんと一緒に暮らしているんです。引っ越した時に、挨拶に行ってから、そこまで親しくはないですけど、立ち話程度でしたら、割とよくするくらいの付き合いはあります。母子ともに穏やかで、物静かな雰囲気の人達です」

 だから、余計に奇妙なのだと、彼は続ける。

「最初は、模様替え、でもしているのかな、と思いましたよ。でも、時間が時間ですからね。いくら防音性能が高い作りだって言ったって、静かな真夜中じゃあ、さすがに少しくらい響きますよ。でもね、そんな当たり前の常識がわからないような人達じゃないんですよ」ほんとに、ほんとに、と自分に言い聞かすように繰り返した。


 その正体不明の音は、突然始まったかと思えば、唐突に終わり、彼が気を抜いて油断している絶妙なタイミングを見計らうようにして再度襲われるのだと言う。


「寝不足になりますね。でも、こういう時はフリーランスでよかったなぁって実感しますね。好きなタイミングで、昼寝の時間を作れますから。その音が昼間じゃなかったのも救いでしたね。昼間だったら、仕事にならない」


 ゲリラ的に睡眠を妨害してくるその音が気になるあまり、一度、音がし始めたタイミングで、ベランダから隣を覗いてみたことがあるという。


「分厚いカーテンが閉まっていて、なにも見えませんでした。明かりもついてなかったんです。当たり前ですよね。お母さんは九十近いって聞いたので、きっと早寝ですから」


 では、その音は、いったいどこから聞こえてくるのか?


 もしかしたら、上下階から壁を伝って響いてくるのかもしれない。そう考えた彼は、上と下の階に住む人間とその生活スタイルを調べたそうだ。そんなことができるのも、フリーランスの成せる技とでも言ったらいいのか。


 とにかく、義弟が調べたところに寄ると、彼の部屋の真上に住む三十路の女は、前歯の大きな看護師。

 駅向こうにある有名な総合病院に勤めており、日勤と夜勤を織り交ぜた多忙な生活を送っているようで、在宅中には、泥のように眠っていることが多いようだった。

 彼が訪ねて行った日も、なかなか出てこず、やっと出て来た女の白目は、真っ赤に血走っていたらしい。


 彼の部屋の真下の住人は、昼夜逆転の生活をしている狐顔をした二十代のホストだ。

 帰りは、早くても深夜二時から三時、アフターをすれば朝帰りが常だった。

 音がし始めるのは夜中の零時。

 ホスト男の生活スタイルには合わない。

 となると、やはり隣人ということになる。


「でも、どう考えても、有り得ないんですよ。だって、そこらへんに歩いている人なんかより、よっぽど善良な人達なんですから。息子さんは共有施設の掃除を進んでやってくれますし、お母さんだって、このあいだも、作り過ぎたからって角煮をお裾分けしてくれて。それが、めちゃくちゃおいしかったんですよ」と、隣人を弁護する事例を並べ立てる義弟は、必死の形相だ。

 角煮はちゃんと豚肉だったかい? と、わざと冗談めいた質問をすると、当たり前じゃないですか!と荒い語気の返答をされた。

 その隣人は、なんの仕事をしているのかと聞くと、ハッキリしたことはわからないと言う。

「聞いても誤摩化されちゃうんですよ。でも、ボクと同じIT業界に関わる仕事らしいのは確実でしょうね。いつだったか、Kさんが、電話しているのを偶然聞いたことがあるんですけど、モヒカンだとかマサカリとか言っていたので。ネットスラングなんですよ。IT業界だと結構頻繁に使われる俗語です。以前はどちらも、空気を読まない批判的な意見なんかに対してネガティブな意味で使われてましたけど、今時だと、マサカリに関しては、もっぱら技術的なコメント投稿の意味合いで使われますね」っても正直、投げられてあまり嬉しいものじゃないことに変わりはないんですけど、と苦笑いをする。


 樵夫が持っているイメージが強いマサカリは、処刑に使われていたことに端を発し、正義や権威の象徴を始めとした様々な意味合いがあるようだ。

 義弟は、スラングとして使われ始めた由来までは、わからないという。

 

「とにかく、このまま続くようだったら、大家さんに訴えようかと考えてます。誰だか知らないですけど、迷惑もいいところだもの」と、話し始めた時の憂いの表情はどこへやら、スッキリした顔になった義弟は、妻が出したアイスティーを一気に飲んだ。

 話しているうちに取れるような閊えならば大したことはなかろうと、わたしもそれ以上は詮索することを控えた。


 義弟が再び我が家を訪ったのは、秋も深まる頃。


 例の夜中の音に関していると思われる情報を、得られたのだと報告してきた。


「Kさんの家には、時々、毛むくじゃらの大男が泊まりにくるんです。で、これは、あくまでボクの勘ですけど、Kさんと、その大男はデキてると思いますね。同性愛ってヤツです。廊下なんかで二人とすれ違う時なんかに、なんとなく、そんな親密な空気を感じるんです。多分ね、当たってますよ」きっと、と早口で断言する彼は、もはや噂好きの主婦にしか見えなかった。

 そこに、なに言ってんのよと妻が入ってきて、そんなこと簡単に決めつけるもんじゃないわ、と弟を諌めた。


「でもね、ボクは発見したんですよ。例の音がするのは、決まって、Kさんの家に大男が泊まりにきているときなんだ。だから、もしかしたら・・」言葉を濁す彼を、バカな想像はおよしなさい、とピシャッと叱る妻。

 だが、わたしは義弟の気持ちがわからなくもなかった。

 得体の知れない夜中の音に怯え続けるくらいなら、卑猥な音だと割り切って、やれやれと安心して眠りたいのだ。

 両目の下に横たわった黒々としたクマを見れば、彼のストレスが確実に蓄積されていることは容易に想像ができる。だが、親切に接してくれる隣人を疑いたくない彼は、この状況に対しての打開策、もしくは妥協案を見つけられないでいるのだ。


「今日はね、例の音を録音してきましたよ。二人に聞いてもらいたくて」

 義弟は小型のICレコーダーを取り出して、再生ボタンを押した。


 ゴッゴッと低く濁った音が流れ出した。

 その音は、例えるなら深海に潜った潜水艦が海藻に覆われた岩と接触したような音、或は拳で誰かを殴るような音にも聞こえなくはない。

 いずれにせよ、到底無視できる音ではないことがわかった。


「念のため、警察にも持ち込んだんですけどね。門外漢だから、大家に相談しろとあしらわれました。うちのマンションは大家が高齢らしくて不動産屋が管理しているような物件なので、不動産屋にも行きましたけど、一応調査してみるけどって面倒臭そうな顔をされまして、まぁ案の定の対応ですよ。大方、ボクが自作自演して騒いでるんじゃないかとでも思ったんじゃないですか? そんなことをするメリットなんてないのに。苛々しましたね」


 相変わらず隣人との仲は良好なのかと聞くと、最近、老婆の姿が見えないらしいのだ。

「歳が歳だったので、最初、亡くなっちゃったのかなって思ったんですけど、隣の部屋の扉横に車イスが置かれるようになったので、要介護になったんだなってわかったんですよ。それに乗って、外出をしているらしくて。時々、Kさんが車イスを押しながら出かけて行きますね。でも、それより気になっているのが、」


 音の合間をぬうようにして、微かな念仏が聞こえてくるらしいのだ。


「蚊が鳴くくらいの細い声なんで、録音機には入ってませんけど、もう、気分は完全にお化け屋敷ですよ。もしかして、そういう最中に聞こえる声かもしれないと思って、聞き直してみましたけど、やっぱり違うんです。お経みたいな感じなんですよ・・これって、こういう場合というのは、いったい、どうしたらいいのでしょうか?」


 義弟は困り果てているのだと、その段になってようやく理解した。


 とは言っても、わたし達が助言できるのは、せいぜい、耳栓でもつけてみたらどうかということくらいである。

 聞き及ぶ限りでは、恐らく、関わり合いにならないのが一番安全だと思われる現象である事は間違いないようなので、いたずらに彼を煽り立てることはできない。

 耐えてやり過ごすしかないと思うのだが、少々お節介な上に恐いもの見たさから大胆な行動に出る傾向にある義弟に通じるかどうか。


 好奇心は、時として身の破滅を招くのだ。


 妻も、そこを一番に心配しているらしく、これ以上、隣人を気にするのは止めた方がいいと警告している。


「わかってますよ。でもね、実際にボクは現場にいる当事者なんだ。それも、当人達と少なからず接して、面識だってある。もしかしたら、苦しんで困っているかもしれない。それなのに、他人事だと割り切って、知らない振りをするほうが残酷だと思いませんか?」


 義弟は、一刻も早い解決をと焦っているのだ。

 それが、どのような手段であろうとも、今すぐに実行しなければいけないという脅迫めいた考えに取り憑かれている。過敏になった防御本能が暴走している危険な状態だと判断したわたしが口を開くより先に、妻が切り出した。

「私達も一緒に、行くわ」


 わたし達一行が、義弟の住むマンションに到着したのは、夕焼け空にうっすらと夜の帳が降りた頃だった。


 問題の隣室のチャイムを鳴らしたが、留守なのか誰も対応に出てこない。

 それなのに義弟はしつこくチャイムのボタンを押しているので、わたしが取り押さえる羽目になった。

 そうして問答を始めた義弟とわたしを、妻がしっと制した。

「なにか、物音がするわ」

 そう言って、彼女がドアノブを回すと、開くではないか。

 凍えるような季節外れの冷気が、扉の隙間から漏れてきた。

 顔を見合わせたわたし達は、覚悟を決めて頷くと、真冬のように冷えた室内に踏み入ることにした。


 玄関で静かに靴を脱ぎ、暗い廊下を歩いていくと、冷たい足の裏が張り付くように粘ることに気付いた。

 足を裏返しても黒くなっていることだけがわかる程度の明度しかない。


 首を傾げながら、恐る恐るリビングの扉を開けたわたし達は、冷凍庫に迷い込んでしまったかの錯覚を覚えた。


 今は晩秋。

 わたし達を含め、街行く人々もみな秋の装いだ。

 にも関わらず、その部屋はクーラーが効き過ぎており、吐く息が吹き出しのように白くなるのだ。


 キンキンに冷えたリビングの真ん中で真っ先に目に入ってきたのは、ちんまりと正座して泣きながら手を合わせている老婆の姿だった。


 老婆はリビングの隣室、つまり義弟の部屋と隣り合わせになっている和室側に向かって、ちょうどアマゾンの原住民が神を崇め讃えるような具合に何度もお辞儀を繰り返している。


 その老婆の後ろに、両手で抱えた腕を擦りながら並ぶような恰好で、わたし達は和室に目をやった。


 そこには、血だらけになった巨大なまな板のような台が据えてあり、赤黒い血液に濡れた鉞が刺さっていた・・


 警察が到着したのは、それから数十分後。


 どうやらKと大男は、指名手配中の連続殺人犯だったらしい。


 逃走中に偶然知り会った老婆の実の息子をそそのかして殺し、その後、老婆を脅して息子に成り済ましていたのだという。

 その後も、被害者を連れ込んでは、殺人に耽っていたらしい。

 典型的な、サイコパスだ。

 義弟が色々と行動したことで、いち早く勘づいたKと大男はとっくに行方を晦ましていた。


 哀れな老婆は、目の前で切り刻まれる被害者を、成す術もなく、見ていることしかできなかった己を責め、悔い続けて精神を病んでおり、事情聴取をしている最中に、ベランダから身を投げてしまったそうだ。


「まさか、マサカリが現物だなんて、誰も思いませんよね?」

 すっかりクマがなくなった義弟は、寂しそうに、薄く笑った。

「指名手配写真を見せてもらいましたけど、二人ともモヒカンで、いかにも殺人犯って顔をしていました・・人間って、わからないものですね」

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日本昔話×現代サイコホラー 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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