第5話 再見 ~ 春にさよなら

「ねえママ? なんでわたしのなまえはナツなの?」

「ママの名前はハルコでしょ? ハルの次はナツじゃない?」

「じゃあ、そのつぎはアキ?」

 ママは真ん丸にした目をすぅっと細めるとお腹に手を置いてフフッと笑った。

「どうかな~?」

 けれどもママはアキを待たずに死んでしまった。

 それはママの大好きな桜の季節――春がすぎ、緑鮮やかな私の季節だった。

 そんな突然真っ暗になってしまった家に明かりをつけてくれたのがお母さんだ。

 それなのに、お父さんとケンカをするようになってしまった。

「ナツはだんだんママに似てきたな」ってお父さんに言われて私がよろこんだから。

 みんな私が悪いんだ。

 私がいなければ――夏がこなければ、ママは生きていたかもしれないのに。

 わたしがママに似なければ、お母さんはお父さんととケンカをしなかったかもしれないのに。

 いつもは大切にしまってあったママとの思い出を押し入れから出してベッドの上で見ていたのは、ママが死んでしまって何度目かの桜が咲く季節だった。

 楽しかったはずの毎日が苦しくなって悲しくなって、ママに会いたくなって。

 それがさらにお母さんを怒らせた。

 私は毎日のようにお母さんに怒鳴られ叩かれるようになって、その痛みから逃げたかった私の中にが生まれた。

 それがハルだった。

 ハルが痛みを一手に引き受けてくれたおかげで私は生きてこれた。体の痛みも、心の痛みも、全部、全部。

 私は桜の木の下で、じっと息を潜めていればよかった。

 あの桜は、私とハルが背比べをした桜は、公園の桜ではなかったんだ。

 桜は私の、心のステージ――私とハルが入れ替わる舞台だった。

 ママが生きていた頃によく行った、公園の桜とごっちゃになっていた。

 それもそうだ。ハルは、ママに会いたい私の想いが作り上げた人格でもあったんだから。

 ハルは桜の木に自分のいた証を刻み込んだ。

 私に覚えていてほしくて。私と一緒に大きくなりたくて。

 でも何年経っても大きくなれるはずがなかった。ハルは人格が生まれた時の年齢のままなんだから。

 あの事件の頃には、私はずっと桜のステージ裏にいて、ハルがわたしの代わりに舞台に上がっていた。私の記憶があやふやだったのはそのせいだ。

 お母さんはお父さんと私を刺したあと、言葉にならない声で泣き叫びながら、何度も何度も桜に刃物を突き立て、最後には自らの腹部を貫いたという。

 桜はそれが原因で枯れ、公園はだれも寄りつかなくなった。

 人がそんな死に方をした公園なんかで、どこの親が子供を遊ばせようと思うのか。

 おばあちゃんの話だと、近いうちにあそこは公園ではなくなるらしい。

 家で刺されたお父さんは手遅れだったけれども、私は幸いにも駆けつけた人がすぐに救急車を呼んでくれて一命を取りとめた。

 ただ、あの事件のあと、おばあちゃんに引き取られた私の心は完全に壊れていた。

 ママもパパも、お母さんも、ハルも、大切なみんなが死んでしまって、自分も生きているのか死んでいるのかわからなかった。その時の記憶は未だに思い出せない。

 私が大声を上げて暴れると、決まって自分の肩をギュッと抱き締め小さく丸まっていたらしい。

「大丈夫、私が守るから」とブツブツ呟きながら。

 てっきり死んでしまったと思っていたハルは生きていたんだ。

 当時この家でおばあちゃんと一緒に暮らしていた叔母さんが、私の中のもうひとりの人格に気づいた。そして、それが私の心の病なんだという事も。

 カウンセラーをしていた叔母さんは、知り合いのつてでアメリカへ行く事が決まっていた。そこに私を同行させる事にした。

 有名な先生に看てもらって心をひとつにしないと、私の心が罪の意識に苛まれて死んでしまうと言って。

 叔母さんは私を助けたくて、いっぱいいっぱい話したらしい。

 その時は私も納得したんだと思う。ハルを助けるにはそれが一番なんだと言われて。

 でも、ハルが桜のステージに現れることはなかった。

 私はハルという人格を殺すためにアメリカへ渡ったんだ。

 ゴメンね、ハル。出会った頃から私は自分の事ばかりで……

「違うよ」

 声の聞こえた窓の方を振り返る。

 少し開いた窓から吹き込むやわらかい風が、レースのカーテンを微かに揺らした。

 その風に乗って、一枚のピンク色の花弁が部屋に舞い落ちた。

「私の身長、大きくなっていたでしょ?」

 夢の――私の心にある桜の木に……ああ、大きくなっていた……そうだ、大きくなっていた!

 今の私の背と同じ高さにまで。

「ナツは私を殺したんじゃない。私と一緒に生きていく道を選んだの。もう私はハルじゃない。私もナツなんだから」

 フワリと浮かんだ花弁が部屋を舞う。

 ひらり、ひらり、ひらり、ひらりと。

 私はハルに追い越された桜の痕の横に、自分の背を刻み込む。

 春にさよなら。

 ハルとさよなら。

 窓から流れ込むそよ風の熱は、一足早くナツを迎えていた。


【了】

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春にさよなら えーきち @rockers_eikichi

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