第4話 虚実

 ハルは桜の木に刻まれた痕を指で撫で、とても寂しそうに目を伏せた。

 一向に増えていかない痕。

 一向に伸びていかない身長。

 私たちはいつも桜の木の下にいた。

 ふたりっきりで、ここから毎日を眺めていた。

 いつしかハルは背比べをするとひとりどこかへ行ってしまうようになった。 

 ハルと毎日をすごすようになってから、私がお母さんに叩かれる事はなくなった。

痛い思いをする事もなくなった。

 いつだってハルが私を守ってくれたから。

 私の日々は閑やかになった。

 今までいっぱい叩かれたり、大切なママとの思い出を捨てられてしまったりしたけれども、私はお母さんの事が嫌いじゃなかった。好きだった。

 だって、ママが死んでしまったあと、お母さんは本当に本当に私を大切にしてくれたんだから。

 お母さんが叩くのは私が悪い事をしたからで、いい子にしていれば叩かれる事なんてないんだ。

 もう体も痛くない。ハルがいれば心も痛くない。

 この桜の木にくれば、いつだってハルに会える。

 でも、その桜の木はもう公園にはなかった。まるで最初からそこに何もなかったように跡形も残っていなかった。

 見上げてもピンク色は微塵も見えなかった。一面の青色が目に痛かった。

 錆びた金網に沿うように植えられた背の高い木の枝が、そよ風にカサカサと乾いた音を立てていた。

 ここにあったはずの桜はどうしたんだろう?

 まさか私とハルが背比べで傷をつけたから枯れてしまった、とか?

 公園の入り口で呆然と立ち尽くしていると、ひとりの年配の女性が私の横を通りすぎた。

「あの、すいません」

 私が呼び止めると、女性はまるで不審者でも見るような目を私に向けてきた。

「つかぬ事をお聞きしますが、この公園に大きな桜の木がなかったですか?」

 女性はより一層表情を固くして小さなため息をついた。

「そんな事を聞くなんて、あんたよそ者だろ? この町の人間はみんなあの事件を覚えているから」

「あの、事件?」

「五――六年前くらいだったかな? この公園で小さな女の子が刺されてね……」

 バクンッと、胸が跳ねる――頭が痛い。

「その時の傷痕のせいか死んだ女の怨念か、桜はすぐに枯れたよ」

 今まで思い出せなかった記憶が、まるでスライドショーのように脳裏に蘇る。

 お母さんの顔。怒っているような、泣いているような、笑っているような、顔。

 振り上げられた冷たく鈍色に輝く金属片。

「そんなに会いたきゃ会わせてやるから、あの世であの女のおっぱいでも吸ってやがれ!」

 耳に障る金切り声。

 ハルが私の前に立ちふさがる。小さい体で、目一杯大きく手を広げ。

 ドスンと、衝撃だけが私の体に伝わる。

 雪のように舞い散る桜の花弁と、赤い――赤い、何?

 ピンク色だった視界が真っ赤に染まる。

 深紅にまみれたハルが、私に向かってやわらかな笑みをこぼす。

 ……ああ、そうだ。思い出した。思い出してしまった。

 ふらふらとおぼつかない足取りで公園の真ん中――桜の木があったところまで歩いて膝から崩れ落ちる。

「ああ、ああああ……あああああああああああ……」

 空気を裂くような、金切り声のような、悲鳴のような、咆吼のような。

 血を吐くほどの叫び声。

 女性は逃げるように公園を立ち去る。

 私は膝をつき、土下座のような格好で地面に指を立てた。

 滝のようにとめどなく流れ落ちる涙が、暗い影となって地面に広がる。

 ハルだ。ハルがここでお母さんに刺されたんだ。私を守るために。

 私がいなければこんな事にならなかったのに。

 私のせいでハルが死んだんだ。私がハルを殺したんだ。

 フラフラと立ち上がり滲んだ視界で公園を見回す。

 ハルが死んでしまったのに、何で私は今も生きているんだろう?

 何でアメリカに逃げて、のうのうと暮らしていたんだろう?

 どこをどうやって家に帰ったのかわからない。覚えていない。

 頭の中はハルの事でグルグル回っていた。

 玄関の引き戸を開けると、叔母さんが居間から顔をのぞかせて目を剥いた。

「ナツッ! どうしたの!? まさか思い出し……」

「叔母さんっ! ハルは? 私と一緒にいたハルはどうなったの? 何で私はアメリカに引っ越したの? 何で日本にいちゃいけなかったの? 何で、何で何で!?」

 玄関で靴も脱がずに泣き叫ぶ。

 何を聞けばいいのかわからない。どう聞けばいいのかもわからない。

 まだ全部思い出せていない。

 私は――ハルは――お父さんとお母さんは――?

 転がるように居間から飛び出てきた叔母さんが、私をギュッと抱き締める。

「叔母さんは知ってたんでしょ? ハルが桜の木の下でお母さんに刺されて……わぁっ!」

 叔母さんの背中に腕を回し、肩に額を擦りつけて泣いた。涙が涸れるくらい泣いた。

「落ち着いて! 落ち着きなさい、ナツ! ハルはいない。、いないの!」

 やっぱり、ハルは刺されて……

 パシッと視界に火花が散った。

 何十何百何千――数え切れないほどの桜の花弁が、一面に舞った。

 そうじゃない。ハルは私のせいでお母さんに刺されて死んじゃったんじゃない。

 私はハルを殺すためにアメリカへ引っ越したんだ。

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