第3話 忘却

 夢を見た。

 ハルと初めて出会ったころの夢だった。

 眠っていた大切な思い出が鮮やかに蘇って……

 ズクッと鈍い痛みが頭に走る。

 殺風景な部屋の真ん中に敷かれた布団で体を起こし、こめかみに手を添え小さく頭を振る。

 朝――じゃない。何で私は寝ていたんだろう?

 服は……ジーンズにダボッとしたシャツ。

 急に入院する事になったおばあちゃんのお見舞いのために叔母さんと久しぶりに日本に帰ってきて、生まれ故郷を散歩して。

 どこか見覚えのある細い道の真ん中で見上げた坂を駆け上がって……

 ああ、そうだ。公園だ。公園に行ったんだ。

 家からよく行っていたあの公園は、おばあちゃんの家からもこんなに近かったのか。

 ママが死んでしまってから立ち寄ることがなくなったおばあちゃんの家は、小さい頃ものすごく遠くにあった気がしていたのに。

 背比べをした。

 桜の木で。

 ハルが言い出したんだ。

 私を忘れないでって。まるで、自分がいた証を桜の木に残すように。

 何度背比べをしても、伸びていくのは私だけだったけれども。

 カチャリとドアが小さな音を立てる。

 開いたドアから顔をのぞかせた叔母さんは、起き上がっている私を見ると大きく目を見開いた。

「ナツ、大丈夫なの!?」

 明るい茶色のショートヘアをフワリと波打たせ、跳ねるような勢いで私に駆け寄る。

 ジーンズにTシャツ――私とそう変わらないラフな格好。

 アメリカで私がお世話になっている叔母さん。ママの年の離れた妹。独身。

 おっとりしていたママの妹とは思えないアクティブな人で、今では私の親代わりだ。

「帰ってきて突然倒れるからビックリしちゃった。いったい、何があったの?」

 叔母さんが心配そうに私の顔をのぞき込んでくる。

「んー、走ったから、貧血、かな?」

 へヘッと笑ってみせる。

 ずっと私を気にかけてくれていた叔母さんに、あまり心配をかけたくない。

 私の記憶がハッキリとしているのは叔母さんとのアメリカでの生活からだ。

 それまでの私はどこかあやふやで、いつも夢の中にいるような朧気な暮らしをしていた。

 思い出せない事が多すぎる。

 思い出したくない事が……何を?

 ママが死んでしまって、お父さんとお母さんが再婚して、ハルに出会って、桜の木で背比べして……私はアメリカに引っ越した。

 途中がポッカリと空いている。

 私は何でアメリカに引っ越したんだろう?

 何でおばあちゃんの家に私の部屋があるんだろう?

 お父さんは?

 お母さんは?

 ハル――は?

 少しうつむいたまま、目だけを叔母さんに向ける。

 叔母さんは私の視線に気づいて、首を傾け眉をひそめた。

 さっきまでは聞くつもりだったけれども、言葉にならなかったけれども、これは聞いてもいい事?

 アメリカで暮らして五年、一度もそんな話が出た事はないのに。今思えばむしろそれが不思議だった。

 私は何の疑問も持たずにアメリカで叔母さんと日常生活を送っていた。

 まるでそれまでもずっとそうだったかのように。アメリカでは日本での暮らしなんて思い出しもしなかった。

 ハルの事も……

 お母さんに叩かれそうになった時、いつもハルが助けてくれたのに。

「どうしたの? そんな難しい顔をして」

 叔母さんがまるで探りを入れるように、私の目の色を窺っている。

 私はフイッと視線を逸らした。

「ううん、何でも、ないよ。何でも……」

 わからない事が多すぎる。

 今はまだ聞くべきじゃない。

 もう少し思い出してから聞かないと、間違いなくはぐらかされてしまう。

 そんな気がした。

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