第2話 回顧
「ごめんなさい、おかあさんごめんなさい」
真っ赤な顔で、吊り上がった目で、拳を振り上げるお母さんの足にしがみつく。
お母さんが足を大きく蹴って乱暴に私を振り払う。
「お母さんなんて呼ばないで、気持ち悪い! あんたなんかあの女の所へ行っちゃえばいいのに」
パラパラと人や車が行き交う路地の片隅で、歩道に転がった私は四つん這いになって再びお母さんの足下にすり寄った。
「ごめんなさいごめんなさい。ちゃんということきくから、しゃしんをかえして。ママのしゃしんをかえして。おねがいおねがい……」
「五月蠅い! 恥ずかしいから黙ってろ!」
再びお腹を蹴られた私は、小さなうめき声をこぼして冷たい歩道に転がった。
遠巻きにこっちを見ている老若男女の目に哀れみの色が浮かびはするものの、だからと言って誰かが助けてくれるでもない。
まるでその辺に転がったゴミでもみるような目で私を見おろすお母さん。
パパ――ううん、お父さんと結婚する前はやさしかったのに、大好きだったのに、私が大切にしていたママとの思い出は片っ端から捨てられてしまった。
お母さんの持っているあの写真は、隠していたママとの最後の思い出だった。
家を飛び出し逃げたのに、あっという間に追いつかれ、大切な写真を奪われてしまった。
「ごめんなさいごめんなさい、しゃしんを……」
「こんなものっ!」
胸がバクンと跳ねる。
滲む視界。歪む世界。心の崩壊。
お母さんの手から四つになった破片がヒラリと舞い落ちた。
「ああああああああ~」
とめどなくこぼれる涙を飛び散らせながら、歩道に落ちた大切な思い出の欠片を砂ごとかき集めて覆い被さる。
お腹の底から出した獣のような自分の声が、頭の中で木霊する。
「みっともない真似すんなっ! こんなものっ!」
「あうっ……」
脇腹に衝撃と痛みを感じ転がった私は、また蹴られたんだとわかった。
お母さんが私の宝物を踏みつける。
足を上げ、尖ったかかとで何度も何度も。
写真を拾おうと伸ばした私の手も一緒に。
「どけっ!」
お母さんの矛先が自分に向いてよかった。怖くはなかった。私の大切なものを傷つけられるくらいなら何をされてもかまわない、どんなに体が痛くても。
お母さんが私の顔めがけて足を踏みおろす。
私は目をギュッとつぶった。
パァッと暗闇にピンク色が舞った。
ヒラヒラと、ハラハラと、フワフワと。
それが桜の花弁だとわかった時、私はハッと我に返って目を開けた。
痛くなかった。体のどこにも痛みはなかった。
私の前でお母さんの足に組みつく女の子。
「逃げようっ!」
女の子はニィッと笑うと私の手を取って力強く引っ張った。
私は慌てて写真の破片を拾い集め、手を引かれるままそこから逃げ出した。
怒鳴り散らすお母さんの声を置き去りにして。
何が起こったのかわからなかった。キツネにつままれたような、そんな気がした。
女の子は路地裏をグルグルと走り抜け、公園の大きな桜の下でやっと止まった。
ゴツゴツした焦げ茶色の太い幹に小さな手をついて、荒れた息を落ち着かせるように大きく一回深呼吸していた。
「あ、ありがとう」
恐るおそる、女の子に声をかける。
女の子は振り返りすぅっと目を細め、とてもやさしい笑みを浮かべ首を振った。
「もうだいじょうぶ。わたしがナツを守ってあげるから」
それがハルとの出会いだった。
ママが死んでしまってしばらくすると、お父さんはお友達だというお姉さんをつれてくるようになった。
お姉さんはとっても私にやさしくしてくれて、おいしい食べ物もキレイな服もいっぱい買ってくれた。
お父さんとお姉さんと私の三人で、遊園地や水族館、ほかにも色々な所に遊びに行ったりもした。
ママがいなくていつも寂しく泣いてばかりいた私だけど、その頃にはちょっとだけ笑えるようになっていた。
「ナツはお姉さんと仲よしだろ? お姉さんと家族になりたいと思わないか?」
お父さんにそう言われて、私は「なりたい」とすぐに答えていた。
お姉さんはいつもやさしかったから、お父さんだって私だって毎日笑って暮らせるようになるって思ったんだ。
そしてすぐに、お姉さんは私のお母さんになった。
お姉さんはお母さんになってからもやさしかった。わたしがママの話をするとちょっとムスッとしていたけれども。
だから私はママの思い出を箱に入れて、大切に大切に押し入れにしまっておいたんだ。
たまに押し入れから出してベッドに並べてママが元気だった頃を思い出していた。
そのまま、うたた寝をしてしまったのがいけなかった。
お母さんにママの思い出が見つかってしまい、見た事もない怖い顔で怒られた。
「私がいるのにそんなものを後生大事に持ってるなんて、何の当てつけ?」
お母さんが何を言っているのかよくわからなかった。何で怒っているのかもわからなかった。
私はお母さんが好きだけど、死んじゃったママも大好きで、ただそれだけなのに。
でも、きっと私がいけないんだ。だからお母さんは怒っているんだ。
「そんなにケガをしてるのに?」
ずっと黙って私の話を聞いていたハルが、そこで初めて口を挟んだ。ジッと、私の体を舐めるように見ながら。
私はサッと両手をうしろに隠した。
肌が出ているのは手と、キュロットから出ている足だけだ。こんなところ、ちょっと擦りむいたり青くなっているくらい。誰かに見つかっても、学校で転んじゃったと言っておけばごまかせた。
見えてる所のケガなんて本当にたいした事ない。服に隠れているところは、もっと大きな青あざがいっぱいあるんだから。
ハルは眉をひそめて私の目を真っ直ぐ見つめてくる。その奥の、私の心の中までのぞき込むように。私は思わず目を逸らした。
「こ、こんなのすぐに治るから。大丈夫……」
「でも、痛いでしょ?」
そう言って、ハルは私をキュッと抱き締めた。
フワッとピンク色の花弁が舞った。
ヒラッとピンク色の花弁が降った。
ハルのあたたかさに、わたしの目からひとしずくの涙がこぼれ落ちた。
桜の咲く季節がすぎママとお別れして、桜の咲く季節にハルに出会って。
桜の木の下で、私は泣いた。
ハルの背中に手を回し、私は大きな声を上げて泣いた。
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