春にさよなら

えーきち

第1話 帰郷

 まるで空を覆うように桜が咲いていた。

 天を仰ぐ私の視界は一面の淡いピンク色だった。

 さらさらと吹き抜けるやわらかな風に広がった枝が擦れ、カサカサと乾いた音を立てていた。

 桜しかなかった。

 誰もいなかった。

 いつもそこにいたはずの、女の子の姿は今はもうなかった。

「ナツはわたしがまもるから」と言っていた、ハルという子はどこにもいなかった。

 さくら色の雲を支える真っ黒でゴツゴツした太い幹に、無造作に刻み込まれた痕。

 ふたつ並んだ痕。

 ハルとふたり、背比べをした痕。

 その深く刻まれた痕に指を這わせる。

 片方の、私の肩を超えたあたりの痕。これは五年前の私のだ。

 じゃあ、その隣にある今の私の身長くらいまで何本も刻まれた痕は?

 ハル――?

 ううん、そんなはずはない。

 だって、私がハルを殺したんだから。

 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ……

 カーテンの隙間から射し込む光に顔をしかめ、目を覚ました私の、枕が涙で濡れていた。



 薄暗い部屋。

 見覚えのある、今ではもう見慣れない部屋。

 五年前まで、多分一年くらい住んでいたおばあちゃんの家の、私の部屋。

 私の物はみんなアメリカの家にあるから、ここにはもう生活感はなかった。

 夢を見ていた、気がする。

 何年も前のセピア色した夢だったような。

 ピンクと深紅だけが鮮やかで……ハ――ル?

 そうだ、ハルだ。ハルの夢を見ていた。

 何でこんなに大切な事を忘れていたんだろう?

 小さい頃からずっと私を助けてくれていたハルの事を。

 中学に上がるタイミングで叔母さんとアメリカで暮らすようになって五年がすぎていた。

 ブラックジーンスにダボッとした白シャツを合わせたラフな格好で家を出る。

 小学校の頃まで過ごしていたこの町は、まるで初めて訪れた町のようだった。

 記憶が曖昧だ。何も覚えていない。

 自然豊かと言えば聞こえはいいけど、ただ時代に置いていかれただけのどこかくすんだ町を、早朝の散歩がてらに闇雲に歩く。

 すれ違う人はほとんどいない。いてもお年寄りばかり。

 どこかで遠くで、もの悲しげに犬が鳴いている。

 私が生まれた町。

 小学校卒業まで住んでいた町。

 その頃の友達なんてひとりも覚えていないけれども、ハルの事だけは覚えている――いや、忘れていた。ずっと忘れていた。

 今朝の夢で思い出した。ハルとふたり、大きな桜の木で背比べをした時の事を。

 出会った頃は同じくらいの高さだったのに、私の身長は比べる度にぐんぐん伸びた。まったく伸びないハルを置き去りにして。

「いいな、ナツは。あたしは大きくなれないから」

 ……そんな事って、ある?

 何かがおかしい。私はまだ何かを忘れているの?

 ハルに出会って、ハルと背比べをして、ハルは私を守ってくれて……何から?

 針を刺したような痛みが頭を走る。心臓が煽られる。視界がチカチカと瞬く。

 まるで覆い被さってくるようなピンク色の空と、視界に広がっていく赤。

 髪を振り乱した大きな影が金切り声を上げて、青く冷たく光る鋭い――あれは刃物?

 私を囲んで見おろす、いくつもの黒い影に並んだ無機質なビー玉のような目。

 滲んであやふやになった景色がグルグルと回る。

 たくさんの悲鳴と怒声と喧騒と。

 車一台通るのがやっとの細い道で、緩やかに上っていく坂の先を見上げる。   

 足が自然に速くなる。

 坂を一気に駆け上がる。

 シャッターが閉まっている小さな工場を左手に緩やかな坂をくだると、まばらに並んだ古い家屋の間に垣間見た。

 この景色は覚えている。

 家も、その向こう側にある公園も。

 くすんだ木造の家と家の間の入り組んだ細い道を進む。

 そうだ。この先にある公園は、幼かった私の大切な居場所だった。

 ハルがいて、私がいて、大きな桜の木が……どこに?

 人っ子ひとりいない寂れた公園に、そんなものは見当たらない。

 記憶にある古びたブランコや滑り台もない。

 管理の手が回らないのか、元は水色だったであろう金網の柵は塗装が剥げてあちこちが錆だらけだ。

 この公園の真ん中に、大きな桜の木があったはずなのに。

 記憶を手繰りつつ、ひっそりとした公園に足を踏み入れる。

 あちこちに青々とした雑草が伸びていて、どれだけ目を凝らしても公園の真ん中に大きな桜の木があったという痕跡はこれっぽっちも残っていない。

 この公園のじゃない、のかな?

 いや、そんな事はない。見える景色に新しい家が混ざってはいるけれども、ここだ。ここに間違いない。

 大きな桜の木の下で、私とハルは背比べをして……

 つっ……頭が痛い。

 ハル……

 私がアメリカへ立った時、ハルはどうしていた? ハルと最後に会ったのは?

 会った? アメリカに行く私をハルが見送りにきたとか、そんな記憶はない。何も覚えていない。

 アメリカでの慣れない暮らしに四苦八苦して、日本での事なんて忘れていた。

 ……ウソ。そんな事で忘れる? 今だって思い出せないなんて。

 私は日本にいた時どうしていたの? どんな暮らしをしていたの?

 覚えているのは桜の木でハルと背比べをした事だけ。

 記憶の欠片をかき集めてたどり着いた公園を飛び出し、迷いながら家に帰った私はその事を聞こうと思っていた。でも、聞けなかった。

 息を切らせて帰った私は、何事かと目を丸くする叔母さんを見た瞬間、胸が煽られ息が苦しくなって言葉が喉から出てこなかった。

 まるで身体全体が拒絶反応を起こしているように。

 息が荒い。胸が苦しい。

 両手で胸をギュッと押さえたまま、私の視界はすぅっと闇に落ちた。

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