7×3

押田桧凪

第1話

「やーい、7の段が言えないくせに!」とからかわれた経験のある彼女にしか、その悩みは当然わからなくて、きっと自分じゃどうしようもなく埋められない孤独があることを理解した上で付き合う覚悟を決めたのは僕だった。


 人生において、できなくてもいいことがある。例えばそれが彼女にとって7の段を言うことで、必要のなかったことだったから。


 1ダースは12本で7×2を使うことはなくて20歳が成年で3分の1成人式もないし、7×3を使うこともなかった。7円玉は無いし、5円玉を7枚出すことも稀だったから7×5は使わなかったし、第一、彼女は「しち」ではなく「なな」とはっきり発音する人で、七五三ななごさんと呼んで笑われたこともあった。体育の授業の点呼では、彼女は出席番号27番だったが、7番、17番の人がそれぞれ「しち!」「じゅうしち!」と叫んでいた時も、彼女だけは「にじゅうなな!」と叫んでいたし、もっと言うと彼女の名前は『菜々なな』だった。


「7 月生まれだから、菜々ってつけるのはさすがに単純すぎるっていうか虫がいいよね。私だったらそんな名前、絶対つけない」


 そう呟いた時、助けを求めるように目配せする彼女に目を合わせるのが僕には苦しかった。デートでディズニーランドに行った時、お釣りがちょうど700円で、「500円玉1枚と100円玉2枚で、ミッキーの形にしてコイントレーに置いてくれたんだ」と目を輝かせながら喜んでいた頃の彼女はもうそこにいなくて、「菜々で良かった」と思える瞬間が彼女に訪れることを僕はずっと祈っていたんだとその時初めて気づいた。


「例えばさ、冬生まれで『夏実なつみ』とか言う名前をつけられたら私だったら耐えられなかったかもしれないな。冬に根を張る強さなんて私にはないから」


 ワンルームに残された部屋干しした洗濯物のような寂しさだけが満ちた顔で、彼女は言った。


「同じ7月生まれの友達がさ、太陽っていう名前で、その妹がひまわりって言うんだよね。ひまわりは太陽を追いかけるように成長するからって。僕にとっての菜々は多分、そういう人だった」


  菜々と三紬紀みつき。 7と3。互いに素だねって、笑いながら帰ったあの日も今日も。半ば自分を納得させるような言い方でしかなくて、だから小粋なジョークだと受け取られたって良かった。駅前で長年の再会を祝うように、僕は助走をつけて彼女を無言抱きしめる。


 それから僕たちは息遣いだけが聞こえる暗い部屋で、かけ算をする。

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7×3 押田桧凪 @proof

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