世界に見捨てられた人々へ捧ぐ

朝吹

世界に見捨てられた人々へ捧ぐ


 カクヨム人口100万人。数パーセントを残して、あとは見棄てられている人々だ。何から見棄てられているのかといえば、ほとんど読者がいないことをもって見棄てられていると定義する。そのほとんどの範囲は任意でいい。

 何を書いても鳴かず飛ばず、高校野球ならばベンチ入りすらしていない。

「野球が好きです」「野球をやっています」

 ただそれだけの存在。

 多くは、「数」となって埋没している。ほう、カクヨムさんは100万人以上のユーザーがいるんですか? すごいですね。星屑たちはただ外部からそう云われるためにカウントされているだけの、頭数だ。


 塵のような存在として宇宙に浮いている名もなき物書き。私たちの多くは人気作、書籍化、受賞作などの巨大惑星の周囲を無名の屑として漂っている。

 その膨大な、粉々の星屑に想いを馳せると、哀しくなってくる時がある。

 自分自身の作品については、完結させた小説に対して、一篇たりとも嫌いな作品はないと云い切れるだけの満足をもってひとまずの道標を立てているのだが、それでもわたしや他の方々の、沢山の小説の、そこに込めたものや、かけた労力、その文字数を想像する時に、無性にさびしくなる時がある。

 巨大惑星に比べて星屑でしかない私たちは何故こんな報われないことをやっているのだろう。わざわざ世界から見棄てられていることへの確認作業でもしているのだろうか。


 自信作が出来上がっても、誰の眼にもとまらない。

 はるかかなたの知的生命体に呼び掛けてはいるものの、応答を得られぬまま、PVのない星屑たちは肩を落としている。

 カクヨムユーザー100万人。そのうちすぐに150万200万と増え、増加するにつれて裾野も分厚く広がっていくのだ、埋もれていく確率を増幅させて、無限大に。



 ところでわたしは、打ち切りになってしまった漫画、鍋倉夫「リボーンの棋士」が好きだった。新進棋士奨励会、略して奨励会に在籍しながらも二十六歳の年齢制限までに規定の四段に上がれずに、プロ将棋界から放り出された青年を主役とする物語だ。瀬川昌司「泣き虫しょったんの奇跡」の漫画バージョンだと想ってもらえればいい。

 奨励会に入るだけでも「天才」なのであるが、そこには異次元の知能が勢揃いしており、全体の一握りしかプロ棋士にはなれない。涙を呑みながら限界をさとり、毎年大勢が去って行く。プロ棋士養成機関の奨励会をプロになるまでの長い挑戦期間とするか、ただの通過点とするかは、第一線で活躍する棋士たちの高速卒業記録をみてもお分かりだろう。プロ棋士になる者たちの多くは十代のうちに奨励会を抜けるのだ。ちなみに藤井聡太氏は十四歳二か月で突破している。


 超一流にはなれなくとも元奨励会の彼らは一流には違いない。アマチュアに下り、下界で対局の誘いを受けたとしても向かうところ敵なしだ。そのさまは瀬川昌司も書いている。挑むものがいたとしても瞬殺されて、一瞬で勝負が終わる。

 オセロの腕自慢が誘い込むものを軽々と打ち破っている時に、誰かこいつに敵うやつはいないのか? そうだお前将棋やってたよな! と将棋に心得がある者が流れを止める救いの手として引っ張り出されてきた途端、それまで調子づいていたオセロ巧者が口を閉ざし、一手おくごとに停滞し、お遊びとは想えぬ緊迫感を生み出して両者ともに長考に沈んでいくさまを、鷺沢萠(作家・故人)は急患が出た飛行機の機内で居合わせた医者が挙手する時の爽快感に喩えたが、オセロにせよ将棋にせよ、はるか先の盤面を読んで駒を動かす彼らの頭脳は特別の回路をもっていて、多少嗜む程度の者の及ぶところではない。ましてや奨励会に在籍していた有段者ともなれば、小指の動きひとつで悪役がぶっ飛んで壁に激突するチート設定の武闘漫画を、頭脳篇で見ているかのようなのだ。

 漫画「リボーンの棋士」は社会の片隅でほそぼそと生きている元奨励会の青年がふたたび駒を手にとり、将棋盤の上で頭脳勝負を展開していく敗者復活ものだ。いうまでもないがタイトルは手塚治虫「リボンの騎士」が元ネタで、棋士と、再生rebornをひっかけてある。


 天才の集まり。そう称される奨励会であっても、四段に昇段できなかった者たちはプロ棋士ではない別の道を選んで生きる。なぜこの漫画を紹介したかというと、天才が天才たちの中でしのぎを削る仁義なき戦いの過酷さたるや、「ああ誰からも読まれない。死にたい」と嘆いている者の比ではないと心底想うからだ。


 死んだらいいんじゃない? 無能のゴミはウザいだけだし。


 と、わたしは自分自身によく云っている。正確には云っているふりをして、げらげら笑っている。

 わたしが奨励会から放逐されたらそのくらいは云うだろうからだ。プロ棋士になれなかった方々と比較して、このような「がっかり」など切り傷にもならないと、心から想うからだ。

 しかしそれも失礼な話かもしれない。プロ棋士にはなれなくとも、彼らはもとの頭が良いこともあってまさにrebornして別の分野で立派に生きている。難資格を取って士業に就いたり、元奨励会という履歴を黄金カードにして優良企業に就職を決めたりする。たまたま漫画「リボーンの棋士」の主人公は再起までに時間がかかり時給で働いているのだが、人生設計を切り替えるスマートさまで計算づくの今の時代では、この主人公の方がレアかもしれない。



 こんなにも読まれないものを書く意味はあるのだろうか。星屑の我々は誰しもが時折、そうやって我に返る。

 1973年、三十七歳で自殺した伝説的CMディレクター杉山登志の心境に限りなく近づいていく時がある。はっきり云って誰? くらいの人物だが特番で名を知った。

 もっとも脂の乗っている時に杉山登志は自死というかたちでこの世を去った。

 所詮は数秒でテレビの中に消えていく彼の作品群。生み出されては次々と流れ去るものに対して、彼は自分自身が世界中から粗略に扱われて見棄てられているような、そんな境地に陥っていたのではないだろうか。もちろん比較にもならないことは分かっている。しかしながら創作者がふと陥る孤独や虚しさは、私たちとそう変わらないだろう。

 詳しくは杉山登志の評伝にゆずるが、降り注ぐ賞賛も栄えある賞も、杉山登志にとってはただの『便利な消耗品宣告』ではなかったか。

「いま人気なのはこれです」「売れそうだね」「じゃあ売り出しましょう」


 それは人気がありますか?

 それは売れますか?

 それは私たちの役に立ちますか?


 求められるのはそれだけだ。

 もちろん企業というものは利益を出すことが何よりも最優先であるので、何ら間違いではない。


 それは出版業界を支えるだけの金を生み出すものですか?


 そして星屑は、まったく役に立たない。「ご覧下さいカクヨムにはたくさんの登録者がいます」その数字でしかない。その代わりに将棋界の奨励会のように途中で放り出されることもない。

 居たいのなら居てもいい。しかし杉山登志のように、命を削るようにして創っても瞬時に作品が埋没して消えていく虚無に永遠にさらされる。

 どちらが残酷なのか分からない。



 さっきからものすごくネガティブなことを書いているのは、エッセイを募集している自主企画の指定タイトルが『世界に見捨てられた人々に捧ぐ』だからだ。ここで世界の飢餓や戦争を題材にしても、食事の時に「難民のことを考えなさい」と云われるようなもので、大切なことではあるがそぐわない。

 身近で、親身になれる、世界に見捨てられた人々といえばカクヨムの星屑だろうと想ったからこれを書いている。『捧ぐ』そうだから、何かを捧げねばならない。


 独りきりで絨毯を織るような地味作業。これが小説を書くということだ。小説を書く人は孤独だ。『世界に見捨てられた人々』というならば執筆中の書き手と、読まれない作品こそ、それに近い状態だろう。カクヨムにあるほとんどの作品はその労力を嘲笑うかのように、読者がいない。

 読者ゼロよりはまだ恵まれている私であっても、

「いったい何をやっているのだろう」

 茫然となる時がある。『捧ぐ』のならば、そんな時の気持ちの建て直し方を書いてみようと想う。

 結論からいうと、性格的に真面目ではあっても深刻になれないわたしの場合、先に書いたように「奨励会に比べれば~」とげらげら笑っているだけなのだが、それでは多方面に対して大変に失礼なので、別のことを提示してみる。



 わたしは、終活をしているのだ。

 わたしは死ぬ間際に「小説を書けて良かったな」と想いながら死にたいのだ。

 楽しかったな。

 投稿サイトを通していろんな書き手さんと交流するのも楽しかったな。

 わたしの夢は、死に際に、今まで書いた小説の登場人物をひとりひとり想い出しながら死ぬことだ。自分の書いたものを想い返しながら死にたいのだ。人生の終わり方に希望があるとすればそれだ。それは脳内にあるだけでは駄目で、頭の中にある物語を外に出して、ちゃんと言葉にしてあげたい。わたしはそれを終活と呼ぶ。

 もちろんその上で、ネットに発表することでこの広大な宇宙のどこかで誰かの眼にとまり、読んでもらえることがあるのなら、小さな小さな星であっても精一杯かがやいて生きていた実感を得ることが出来るだろう。

 しかしそうでなくとも執筆したたくさんの登場人物と、たくさんの世界や人生を経て、そしてそれを想い返すことで、わたしは満たされた晩年を過ごし、一緒に生きた彼らと共に倖せな気持ちで死ねるはずなのだ。

 あとにはわたしの遺した作品が、叢の中で永い眠りにつくことだろう。土の下の無名の死者の痕跡がほぼ後世には残らぬのと同じように、わたしの死をもって、わたしが生み出した彼らも忘れ去られて眠るのだ。

 わたしはこんな感じでやっている。参考までの一例だ。



 漫画「リボーンの棋士」は、一度は将棋で挫折した男がふたたび将棋の駒を手にとり、将棋を再開する物語だ。

 規定上もうプロにはなれない。といっても、瀬川昌司しょったんさんのように編入試験を経てプロ棋士になる道はある。プロを数名破ればよいのだ。その難易度については、そもそもプロ棋士になれる実力があるのならば期間内までになっていることからも明白で実情はほとんど果たせない。それが分かっていても彼は将棋に戻っていった。

 同じ将棋界を描いた羽海野チカ「三月のライオン」より、残念ながら打ち切りになってしまったが「リボーンの棋士」のほうが好きだった。主人公の佇まいがプロと素人の絶妙な合間にあったのがとても良かった。泣き虫しょったんの方は素直で人柄が良くて誰もがはらはらしながら応援してしまうが、リボーンの棋士の方は棋士のカリスマ性を帯びていて、色っぽいと云えるほどだった。そんな男でも生き馬の目を抜くプロの登龍門からははじかれた。そこから男は再起する。彼は云う。

 将棋がやりたい。



 ネットの創作界隈は、「奨励会」よりもはるかに優しい。プロになれなければ追放されるというものではない。

 いずれ利用者が増え過ぎて末端のアカウントは消去されるかもしれないが、その頃にはもう母体の出版社が倒産しているかもしれない。

 その時になって「実は小説を書きたかったが読者がいないので嫌になってやめた」と悔いるのだろうか。

 読まれない小説には意味がない? 

 死ぬから生きている意味はない?

 遠からぬ未来にはカクヨムも閉鎖されてサービスが停止し、すべて意味がなかったということになるのだから意味の有無など悩むだけ無駄だ。(五十年後にもいまの形態で存続しているとはちょっと考えにくい。そしてその頃には登録者の多くが死んでいる)


 精魂を傾けた作品が誰からも読まれない。多くの人が抱え込んでいるこの憂鬱な問題は、わたしを暗くする。

 しかし駒を動かすものがいなくては棋譜が書かれることはないように、小説は書くものがいなければ生まれない。

 星屑の存在意義とは何だろう。一つにはただの頭数だ。あとの残りは、自己満足くらいだろう。そしてわたしの脳裏には、ある言葉が想い出されてくる。

 その昔、マイナーな趣味の友人がほがらかに笑って云ったのだ。

 ひとり遊びは得意なの。

 また、美人画で有名な上村松園(1875~1949年)は、一生をかけてお雛あそびをやっていたようなものだと自らの画業人生を振り返って述べている。両者は同じことを云っていて、入れ替えたとしても、その夢中と没入具合に大差はないように想われる。

 実のところ小説を書くということは徹頭徹尾、「ひとり遊び」をしているだけなのだ。

 ひとり遊びは得意なの。

 小説を書く鋭敏な神経が否応なしに数字に振り回され、可視化される順位に無駄に傷つき、自信や意欲や楽しい気持ちを失って書くのを辞めてしまうのであれば、小説投稿サイトとは、ランク圏外の利用者にとっては努力すればするほど存在否定を眼にするだけの、哀しい場所だろう。

 裾野のボリュームゾーンに埋没しているわたしは、書く愉しみも、誰からも読まれない失望も、ちょうど両方が分かる位置にいる。

 本末転倒になりかねないこの状況を俯瞰するに、やはり何といっても、ひとり遊びをする能力が高い方は「強い」ということだ。それは評価数や順位には関係ない。自分の遊びにとことん付き合って、執念深く、手を抜かず、熾火のような熱意をもち、砂漠の砂を一粒ずつ拾っている書き手は、ヒットを飛ばす強打者にはなれずとも、地道なバントを積み重ねて自分の足場をしっかり固め、投稿サイトを「自分のための遊び場」として活用している。順位をつけられて優劣を裁かれる場ではなく、お借りして楽しむ場に変えている。

 タイトルを自由に決めることが出来るのであれば本エッセイは「Swing Kids (

踊らにゃ損損)」にでもしたい。

 遊ぶことが出来るのであれば、失意を抱えて筆を折り、せっかくの意欲や幼少期より育んできた才能を外からの理由で捨てることはないのではないだろうか。

 奨励会じゃないんだし。



 長くなったのでそろそろ終わるが、読まれない星屑であることに疲れ果ててしまった人たちに、何かのかたちで響いてくれるといいなと希っている。たとえ画壇から黙殺されて相手にされなくとも、上村松園ならば黙々とただ画を描いていたはずだ。その姿勢はわたしやあなたと、まったく同じだ。



[了]

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