第2話
平穏な日常が崩れたのは数日前のこと。
それまでもあまり穏やかとは言えない学園生活を送ってきたが、エルヴィーラにとって待ちに待った出来事がやって来た。
「お前との婚約は止やめだ」
お昼時間のカフェテリアでエルヴィーラに言い放ったのはこの国の第二王子であり、レインハルトの異母弟のヘルムートだ。彼はエルヴィーラと同い年の17歳で同学年である。
王家からの打診により、二人が婚約したのは10歳の時。穏健派であるベルネット侯爵家の令嬢と婚約なら不要な諍いも起こらず、波風が立たないという思惑だったのだろうが、エルヴィーラは出会った当初から傲慢な王子様にいい感情を抱いていなかった。
整った顔立ちは極上だが……、むしろ顔しか褒めるところがない。
学園内での彼の評判は不真面目で怠惰。授業はよくサボり、制服は常に着崩している。婚約者がいるというのに、人目を気にせず女子生徒を侍らすことも珍しくない。
困ったことに王族は国民の模範とならねばならないという意識は全くない。成績優秀で誰もが憧れる異母兄のレインハルトのことも気に食わないらしく、学園内においても二人が会話をしているところを誰も目撃したことがない。兄弟仲は冷え切っているらしい。
第二王子だが正妃の子であるヘルムートを諫める者は、叔父の学園長以外ほとんどいない。彼の母親が隣国の王族のため第二王妃の子であるレインハルトよりも身分が高く、学園内においてやりたい放題だった。
そして今、多くの生徒が集まるカフェテリアの一画で、ヘルムートは女子生徒の肩を抱きながらエルヴィーラに婚約の解消を告げた。
7年の付き合いになるが、ヘルムートにデリカシーの欠片もないことはわかっている。
エルヴィーラは淡々とその申し出を受け止めた。……内心の歓喜を堪えて。
「そうですか」
カフェテリアはシン……と静まり返っている。
明日からどんな噂が出回るか少しだけ興味はあるが、これだけ証人がいれば婚約解消を言いだしたのはヘルムートだと主張できるし、エルヴィーラがすぐに学園を去っても責任は問われないだろう。
(ふふふ……やったわ、ついにこの日がやって来たわ!)
この7年間。ずっとヘルムートに捨てられる日を待ち望んでいたのだ。学園に入ってからも彼の好みとは真逆の女性を演じ続けてきてよかった。
不真面目なヘルムートは、エルヴィーラのような模範的で優等生な女子生徒が苦手だ。傍にいると息が詰まるだろう。
エルヴィーラも本当はそんなに勉強が好きではないのだが、一応王子の婚約者ともなれば成績は落とせないという圧があった。毎日寝る間も惜しんで予習と復習を続けていたため、エルヴィーラの成績は上位三位以内に入っている。
(口うるさい小言という名の正論を言い続けた甲斐もあったわ~。一緒にいると息が詰まるような女なんて、殿下の好みではないものね)
我慢し続けてきた7年間が走馬灯のように脳裏を駆け巡りそうになるが、まだ油断はできない。
エルヴィーラは平常心を保ちながら、「理由をお聞きしても?」と特に興味はないが聞き耳を立てている周囲のために説明を求めた。ついでにヘルムートがまたひとつピアスを増やしたんだな、などと余計なことを考える。
「はっきり言って、お前といてもつまんねえんだよ。ネチネチと小言ばっか言いやがる。結婚したってうまくいくはずがねえし、これ以上我慢なんて冗談じゃねえ。破綻する結婚生活を送る前に俺から申し出てやったんだ。お優しいだろ?」
(いや、我慢なんてしたことなくない?)
つねに不機嫌でエルヴィーラとまともに会話をしようとしない男だ。婚約している身でも堂々と自由恋愛を謳歌していた。そのせいでエルヴィーラが陰で嗤われることも貶されることもあったほど。
「なるほど、そうですか」
「こっちはお前みてえな地味で陰気な女より、可愛げがある女の子が好きなんだわ。お前ももうちょっと男に媚を売るくらいすればいいのによぉ」
「……人には向き不向きがございますので」
エルヴィーラは淡々と答える。
ヘルムート相手に媚を売るのを想像するだけで鳥肌が立ちそうだ。
(なんだかムカムカしてきたわ……私だって初対面で「地味で冴えないブス」って言ったの忘れてないからね!)
ついでにヘルムートの婚約者候補だった令嬢に背中を押されて池に落とされたことも思い出す。あれも間接的にヘルムートのせいだろう。
エルヴィーラが厳しい王妃教育を受けている間、サボり魔だったヘルムートが真面目に勉学に励んでいたことはない。いつだってハズレくじを引いていたのはエルヴィーラだ。
出来の悪い夫を支えるために妻が優秀でないといけないなんて、意味がわからないと思っていた。教育するべきはヘルムートの方なのに、と。
「女性は愛される努力をしなければね、エルヴィーラ様?」
クスクス笑うのはヘルムートのお気に入りの子爵令嬢、エステルだ。肩を抱かれているのをうれしそうにし、ヘルムートに甘えている。
エルヴィーラのことを地味で陰気くさいと言うだけあり、これまでヘルムートが付き合ってきた令嬢は皆華やかな美貌を持った女子生徒ばかり。
今の恋人のエステルは珍しいストロベリーピンクの髪をした愛らしい美少女だが、性格は……同性の友人を作るのは少々難しそうだ。
(好きでもない相手に愛されるって苦痛では?)
ヘルムートに愛されるとか冗談ではないし、婚約解消はずっと願い続けてきた望みだった。
エルヴィーラは幸せになることを諦めていない。自由になったらやりたいことが山ほどある。
(いろいろ言いたいことはあるけど、エステルさんには感謝だわ。馬鹿王子と仲良くなってくれてありがとう! ちょっと趣味悪いと思うけど、いっそこのまま婚約したらいいんじゃない?)
エステルが猛烈にヘルムートを甘やかしてなんでも肯定しまくり、アプローチしてくれたおかげで、エルヴィーラは望み通りの展開になっているのだ。正直婚約者がいるのにすごい度胸だとは思うが、エルヴィーラも特にヘルムートを諫めることなく傍観していた。
(あ、そうだわ。これで私も晴れて悪役令嬢の立場から解放される……!)
悪役令嬢とは、数年前から隣国で流行っている恋愛小説の登場人物だ。
小説の中で王子の婚約者はえげつないような嫌がらせを次々に仕掛ける高貴な令嬢だった。
その清々しいまでの嫌がらせ行為はある意味潔くて、彼女を応援するファンができるほど。
そして小動物な顔をした身分の低い主人公も意外なほど逞しくて強かにやり返していた。どんな手を使ってでも愛を勝ち取りに行くという気概が伝わってきて嫌いじゃない。
だが最終的には悪役令嬢が負けてしまい、身分を剥奪されて国を追放された。その後の彼女がどんな人生を歩んだかは描かれていなかった。
(入学前に読んでおいてよかったわ。私のことを妬んでいる誰かさんに嵌められる可能性もあるって気づけたから。嫌がらせやいじめなんて絶対にしないけど、冤罪を作り上げられるのも嫌だもの)
エルヴィーラの立場ポジションは物語の悪役令嬢と一致していた。
王子と愛し合う恋人を邪魔する身分の高い政略的な婚約者……それを知ったときは、まさしく自分の立場では? と衝撃を受けたものだ。
ヘルムートの取り巻きからも陰で悪役令嬢と揶揄されていたことも知っている。そのため厄介ごとに巻き込まれたり冤罪を作られないように、自衛を徹底してきたのだ。
(私から馬鹿王子の恋人に嫌がらせをしたり邪魔したことなんてないんだけども。逆に陰口や嫌がらせを受けた回数は……数えきれないくらいにはあったわね)
ヘルムートの取り巻き令嬢たちとすれ違うことにも気を付けて、職員室や図書室に入り浸る日々を送っていた。職員室なら教師の目があるし、図書室なら入室と退室時に時間を記入するため居場所を記録できる。
授業が終わると同時に即行で教室を出て、私物は常に全部持ち運び、移動ルートは毎日変えるという地道な努力のおかげで大きな嫌がらせに巻き込まれることもなかった。
そして婚約が解消されたなら、学園に通い続ける義務もない。
ヘルムートの婚約者だからという理由で半ば強制的に通わされていただけだから。
エルヴィーラは胸元を飾る紫のクラバットを外す。この色はアメジストの瞳を持つヘルムートの色だ。
入学当初に義務として嫌々互いの制服の一部を交換し、以降毎朝憂鬱な気持ちでヘルムートのクラバットをスカーフ替わりにつけていた。こうして人前で堂々と外せる日が来るとは感慨深い。
(私のスカーフは捨てられているでしょうけど。一度もつけていたところを見たことがないわ)
なにせヘルムートは常に制服を着崩している。襟の釦ボタンはいくつも外され、鎖骨の下の肌まで見えていた。彼がきっちり制服を着こなしているのを一度も見たことがない。
「これはお返ししますね。あと私から父にも婚約解消を報告させていただきます。ごきげんよう、殿下」
「ああ、今後は学園内でも声をかけてくるなよ」
あまりの言い草に顔をしかめる生徒たちがエルヴィーラを気遣うように見つめてくる。
だがエルヴィーラは顔がにやけそうになるのを必死に堪えながら、カフェテリアを去った。その足取りはとても軽い。
(やったー! これからは騒がしい王都を脱出して、念願だった領地でのんびり田舎暮らしよ! でもその前に、南の別荘で魚介類を食べまくりたいわ。あそこは新鮮な海鮮がおいしいし、海で思う存分遊べるわね! 肌を健康的な小麦色に焼いても誰からも文句を言われないって最高。市場でたくさん買い物もしたいし、いっぱいオシャレもできる!)
南方地方にある海沿いの避暑地にベルネット侯爵家の別荘がある。だがエルヴィーラはヘルムートと婚約してから一度も行けていなかった。10歳から王妃教育を受けさせられて、ほぼ王城で育ったと言っても過言ではない。
家族と顔を合わせたのも年に数回のみ。思い返すと少しだけ感傷的な気分になる。
今までの厳しい王妃教育も自分のためだと思えば無駄ではないが、費やしてきた時間を考えると何とも言えない感情がこみ上げてきそうだ。
すっきりした気持ちと、複雑な感情が絡み合う。もっと早く振ってくれたらという怒りも少なからずあった。
(……いいえ、過ぎた時間を考えたってしょうがない。これからお父様に報告して、すぐに退学の手続きをして――)
【まあまあ、なんて不憫なのかしら!】
頭の中に女性の声が響いた。
エルヴィーラは思わず歩みを止める。
【幼い頃から努力して頑張って来たというのに、あんな言い草ってないわ! 本当ひどいクズじゃない!】
ヘルムートがクズというのには概ね同意なのだが、一体この声は誰だろう。
(え、幻聴? 私だけに聞こえる幽霊の声とか?)
怖い想像が頭をよぎる。今まで心霊体験なんてしたことがない。
【こーんなにも美しい濃紺の髪と思慮深い海色の目をした乙女に向かって、地味で陰気臭いなんて! ひどいわ! あなたがとっても美しいことを誰も気づいていないなんて、嫌になっちゃう!】
「あ、あの……?」
エルヴィーラは耐えられずに声を出した。なにやら頭に響く幻聴は勝手に盛り上がっているようだ。
【でも安心して、女神様が不憫な乙女に特別な祝福を授けてあげるわ! まだまだ若いんだし大丈夫よ。学生のうちにたっくさん素敵な恋をしなくちゃね! 学園生活を謳歌してちょうだい】
「え? はい?」
身体が一瞬ふわっとした温もりに包まれた。
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