気がつく前に鈴は鳴る

@sakit0807

本編

 ただゆっくりと、時が流れている。

 いや、止まっているのかもしれない。

 畳の上で膝を曲げ、愛する人に身を預ける。梅雨明け初夏の、つつがない日常——。


 うちわにゆったりと仰がれながら、障子紙の繊維を眺めていた。

 真っ平らなようで実はごちゃごちゃと絡み合っていて、時たま動いているとさえ思えてくる。まるで何かから逃げるように。

 僅かな空間の中をうごめいて、どこか共感を感じずにはいられなかった。

 ふと喉が渇き、近くの湯呑みに手を伸ばした。だがその手はすぐ鷲掴みにされ元の位置——腰を抱き寄せる彼の左手の上——に戻される。不思議に思い再度手を伸ばしたが、結果は同じ。しかも2回目は掴む力がいささか強かった。

「俺が取る」

 彼に目線を向けると、そう言いながらすこし笑みを浮かべ、僕の前に身を乗り出してきた。

 掴まれた左手は淡く赤らんでいる。

 やっとお茶が、そう思う僕の目に飛び込んできたのは首を伝う数本の汗。やはり僕ばかりをあおいでいて、自分は暑いままだったのか。

 困ったものだと口を開け、彼の口からお茶を含んだ。

 すべて飲み終えるまで、彼は僕の首から手を離さない。すこし大袈裟に喉を鳴らしても、毎回舌で口の中を調べている。面倒で、けれど心地よい彼の悪戯いたずらが、たまらなく好き。

 口が離れたところで、先ほどのことを思い出した。

「僕ばかりを煽がないで。首が汗ばんでる」

 するとまたしても笑顔で、こうすれば俺も涼しくなるなんて僕を抱き寄せ、組んだ自分の足の上に座らせた。もちろん、風はほぼ彼に行っていない。

 もはや苦笑するしかなく、黙って奉仕を受けることにした。


 ぼんやりとしながらまぶたを閉じ、再び開いては彼を確認し。そんなことをいくらか繰り返したあるとき、はからずも目の前の障子に目を奪われた。これを開ければ彼にも風があたる、と。

 手を伸ばしたがその瞬間に耳へ痛みが走り、伸ばした手は捻るようにして手元へ引き寄せられていた。伸ばせば優に届くであろうに、この手が障子に至ることは無いようだ。

「いい子にしてねって、言ったよね? また手首折るの?」そうささやく間も、捻った左手を解放してはくれない。

 噛まれた耳を舐められ、また痛みが走った。「やっと治ったのに」彼は少しずつ、手首に力を加えていった。

 手首の痛みに一旦は喘いだものの、何となく力を抜いてみた。別に抵抗したいわけでもなく、とりあえずは痛みが消えればそれでいいから。

 痛みを我慢し抵抗を抑えると、捻られた手は元に戻され、代わりに手首を掴まれるだけにとどまった。

 これで話ができると彼の方を向くと、なにやら不思議な表情をしていた。目元は悲しげで、でも口角は若干上がっている。

「——障子開けて」

「だめだ」間髪入れない返事だった。

「でも暑いでしょ?」

「お前が寄れば風が来る」

「これ以上どうやって?」

 彼は回答に困り、目線を逸らした。

 目線を彼から逸らさないように。「少しは手を休めて、ね?」恐る恐る彼の手から団扇を取り、床に置いた。

 諦めたのか、僕の手を離しまた元の姿勢——お腹に腕を回し抱く姿勢——に戻った。

「ならこれを付けろ」彼はどこからか赤い紐のようなものを取り出し、許可もなく勝手に僕の右手に付けている。しかも嬉しそうな顔で。

 毛糸のような赤い紐。金色の鈴が1つ付いていて、ほんのわずかな動きでも面白いほどよく鳴り響く。

 普通は仕方なく付けるものだろうに、どうしてこうも嬉しそうなのだろうか。

 結び終わると、彼が障子を開けてくれた。

「やっぱり暑かったんじゃん」


 光が目の奥に突き刺さり痛みを感じる。彼は笑いながらうちわで影を作ってくれて、段々と逃げ出した色は戻りつつあった。

 松色の縁側、敷き詰められた砂利、まばらに道をつくる石——。

 苔むす先には水辺があり、細波さざなみが表面に顔を覗かせている。そのすぐ横には木が植えられて、なんとも涼しそうな木陰となっている。そして期待通り、多少ぬるくはあるがそよ風が吹いている。

 木の葉の音が聞こえないのは距離があるからだろう。すこしだけ残念だが、目的を果たせればそれで十分だ。

 前髪を揺らせながら、緑の宴を楽しんでいた。


 しばらく見とれていると、後ろのふすまが音を立てた。

 名残惜しさを感じつつ瞳を閉じ、彼の手を目元に当てた。誰かが来たら必ずやる、僕の中のルーティーン。それを待って、彼は誰かに入れと命じていた。

 襖が開く音と共に布の擦れる音が迫ってくる。けれど今日はどこか違う気がして、不思議と恐怖さえ生まれてくる。

「大丈夫だ」

 気付けば彼の手を握っていて、耳元でなだめられている。まるで赤ちゃんを泣き止ませるようで、いささか納得がいかない。

 悶々としているうち、いつの間にか恐怖の時間は終わっていたようだ。

 彼が目元から手を退けると、すぐ横の畳の上に黄色の透き通る羊羹と入れ直したであろうお茶がお膳に乗って置かれていた。

 手を伸ばそうとして、先ほどを思い出し自ら手を覆っていた。

「——いい子だ」羊羹の皿を取りながらこっそりとささやくものだから、思わず笑みがこぼれてしまった。

 彼の手で羊羹は一口大に切り取られ、否応なく口元へ運ばれてきた。これではまるで餌付けだなんて思いながら、みかんの香る羊羹を口へ含んだ。

「おいしい?」うなずくと、満足したように自分も羊羹を食べ始めた。

 酸味が強めで甘さは控えめ。その分鼻から抜ける香りは芳醇ほうじゅんで、一口でも十分すぎるほどだ。

 数口目にふと目線が手元にいった。まだ痕は残っているが、大分赤みは引いている。何事もなかったことに安堵しつつも、内心は先ほど彼が言っていた記憶のない骨折に首を傾げていた。

「ちょっと待って」羊羹を差し出す彼の手をつかみ、彼のほうを——


 瞳を開けると、目の前は彼ではなく壁——天井であった。すでに夜を迎えたようで障子は閉じ、柔らかく光が差し込んでいる。

 起き上がろうとしたが、体のいたるところから鈴の音が聞こえてきた。右手はもちろん、左手や両足首、首に付いているのは確認できたが、きっとそれ以外も付いているのだろうという音の大きさだった。

 しかも足には畳に似つかわしくない、光沢のあるゴテゴテとした鎖が巻き付いている。先は畳の下に隠れており、それなりの長さはあるが、部屋から出るには不十分そうだ。

 そうしているうちに襖が開き、浴衣姿の彼が入ってきた。だがこの鈴や鎖には一切反応せず、真ん中あたりに座って腕を広げ、近くに来るように言っている。

「これには——何も言わないの?」

「え? だっていつものことだろ?」笑いながら催促する。

 チリンチリン? いや、むしろジャラジャラだ。凄まじい恐怖を感じながらもとりあえずは従い、彼の前に座った。

 だが腰を下ろし再び彼に目線を向けると、何やら不満そうに見える。

「違う、こっちだ。もう忘れたのか?」僕の腕を引き、鈴を無視して自分の膝の上にまたがらせた。

 次に彼は自分の口を指差している。

 意図がわからずどうしたことかと思ったが、頭とは別に体が動き、わけもわからないまま口を重ねていた。

「——おと?」口は彼の名を呼んでいた。

 けれど羽虫のようにか弱く呼んでは、彼の耳には届かなかったのかもしれない。

 口を口で塞がれ、意図せず彼の舌を受け入れた。上下の歯をなぞられ、舌を互いに重ねながら、口の中を撫でられていく。

 腰に手が回され、いつの間にか首にも。まるで逃げるとでも思っているかのように。

「いい子だひびき」ただ名前を呼ばれただけで、ひどく胸が高鳴った。

 再び口をつけ、今度は畳に寝かされ手首を押さえられた。首から徐々に下がる彼の手で、着ていた浴衣ははだけてしまっている。

 恐怖なのか、高揚なのか。

 混乱しつつも頭の中では整理がつき、すでに順応を始めているようだった。

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