渾天儀【短編】

さえ

駐車場で 遊ばないで ください

 翳山家の裏手には土蔵がある。鬱蒼と植え込みが茂った奥に煌めく白亜の建物は何処か神秘的ですらあった。


 家の者はかねてより「土蔵には一人では入ってはいけない」と言いつけられていたが、腕白息子の清は、いつか必ず中に入ってやろうと機会を窺っていた。尾籠おこの沙汰だと理解していながらも、好奇心を抑えきれなかったのた。


 朱夏の盛りであった。盆の行事で人が出払った隙を狙い、清は禁を破って土蔵へ忍び込んだ。蔵の扉は清の細い腕でもあっさりと開き、逆に不気味な程だった。

 外では蝉が喧しく騒ぎ、清のうなじには薄らと玉の汗が浮かんでいた。しかし蔵の中は冷んやりしていて霊廟を思わせる静けさであった。


 何でえ、怖い事なんか一つもねぇじゃねえか、腰抜けめ。そう思って蔵の中をグルリと見渡す。


「ねェ、遊びましょうよ」


 童女の声が厳かな沈黙を破壊した。

 清は目を凝らして闇の奥を見つめた。長い髪の毛を二つ結びにした小柄な童女である。紅に金刺繍をあしらった瀟洒しょうしゃで贅沢な着物を着ていた。白皙はくせきの細面の、けぶるような睫毛の間から、怜悧な光を湛えた切長の瞳が覗いている。薄紅色の唇にはある種剽軽ひょうきんな表情が浮かんでいた。


 幼い時分、「土蔵には白痴の子供が閉じ込められていた」と耄碌の爺さまに聞いた事を思い出した。だが清には、目の前の童女が幽霊のような悍ましい存在には思えず、一歩また一歩と静謐な闇に歩を進めて行った。


「あてしの宝物見せてあげましょか」

「何だい宝物って」まだ声変わりしていない細い返事をする。

渾天儀こんてんぎよ。星達の動きを見ることで、今生きている世界線とは別の世界を調べられる魔法具よ」


 彼女は飄然と微笑った。


 渾天儀という名に清は覚えがなかったが、童女が奥から引っ張り出したアーミラリ天球儀を見て果たしてこれがそうなのかと思い至った。

 それは直径一尺ほどの球体であり、精緻な彫刻が施されていた。清は球体に手を伸ばしたが、触れる直前で引っ込めてしまった。


 しかし次の瞬間、彼の瞳には鮮やかな光景が流れ込んで来た。それは見慣れぬ異国の風景だった。広大な砂漠の中に聳える巨大な神殿らしき建物。色とりどりの布地に身を包んだ人々が見知らぬ楽器で華やかな音楽を奏でている。そして、そこに生きる人々の顔つきは皆一様に浅黒く彫りが深い。ただ目だけが爛々と輝いていた。酒池肉林の楽園の中心で、清は左団扇で蜜柑など頬張っている。


 清は呆然と口を開ける。


 もう一度瞬きすると、目の前の光景は一転して荒涼たる風景に変わった。雪原に立つ一人の美しい娘の姿が見える。繻子がごとき雪白色の銀髪を靡かす異国の姫。その背後からは虎に似た禍々しい怪物が迫っている。清は必死になって駆け出し、姫と手と手を取りながら怪物を打ち倒した。


 気がつけば、清の全身は汗でびっしょりと濡れていた。鼓動が激しく高鳴る。ふと気がつくと目の前に童女の笑顔があった。


「素晴らしいでしょう。もっと見たい?」


 熱に浮かされて何度も首肯した。すると再び情景が見えて来た。

 今度は何処とも知れぬ四畳半一間だ。破れた障子から西日が照って、黴びた畳を照らしている。数人の男が剣呑な空気で顔を見合わせている。

 男たちは借金取りのやくざ者で、詰められている老人は負債で首が回らなくなっているようだった。やくざは、胴間声で男を呼びつけ恫喝する。


「あんた随分といい身分じゃあないか、俺らの方はこちとら女房子供抱えてるっていうのに、のうのうとしてやがる、こんな不公平が許されると思ってんのか」

「すまない。俺だって一生懸命やってるんだ」

「嘘をつけ! どうせ親父の遺産でも貰ってんだろ」


 男は苦渋に満ちた表情を浮かべる。そこで清は気づいた。

 老いさばらえているがこれは自分だ。自分をこのまま六十七十にしたらこんな容貌になるだろう。眼窩は落ち窪み歯は欠けて着ているものはみすぼらしい。人生の敗残者といって差し支えない、浮浪者染みた様相であった。清はアッと声を上げる。


「頼む。見逃してくれ」

「いいや駄目だね。この借りは命をもって返してもらうぜ」


 やくざ者は男の襟首を掴んで揺さぶった。その内の一人が懐から刀を出して、老いた清を一思いに斬りつける。鮮血が飛び散り、老人は悲鳴を上げた。

 しかし無法者の狼藉はこれでは終わらない。かぱっと柘榴のように開いた傷口から臓物が引きずり出される。老人は自分の腸が引き摺り出されていくおぞましい感覚に襲われて絶叫した。


「しかし老人一人の命じゃあ割に合うめえよ、かくなる上は」


 それからぐいっと首を回して清の方を睥睨した。間違いなく目が合った。事切れかけている自分、臓物を手に掴んだ男、刀を持ったやくざ、全員がこちらを見つめている・・・・・・・・・・

 清はぎゃッと甲高い金切声を上げて咄嗟に渾天儀を蹴っ飛ばした。すると童女は『魔道具』もそのままに、着物の袖をはためかせながら蔵の奥へと逃げ込んでいった。


「あゝ、いけないんだァ。ひ、ひ、ひ」


 闇の中から引き攣った含み笑いが聞こえた。清はすっかり腰を抜かしていて追いかける勇気は無かった。心臓の痛みに耐えかねて胸を押さえるが、一向に治まる気配が無かった。

 後から渾天儀を調べてみたが、又その中を覗いてみる勇気は如何しても持てなかった。


 それからの清は嘗ての腕白ぶりはどこへやら、寸暇を惜しんで勉強し必死に働いた。そうでもしないと、あの渾天儀で見た光景がすぐ後ろにでも迫って、自分の首を死神の鎌で搔っ捌いて来るような気がして恐ろしかったからだ。

 年号が平成に変わる頃には、老いた清は町一番の金持ちになった。考えてみるとあれは座敷童だったのだろうと漏らした。


 清の死後、家族は彼が大切にしていたアーミラリ天球儀だけを手元に残して中の収容物を売り払ってしまい、土蔵は取り壊されて貸駐車場になった。だが今でも「夜、着物姿の童女に声を掛けられた」という苦情が稀に来る。

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