本編
本編
東京駅から京浜東北線で上野駅へ。そこから常磐線に乗り換える。電車に揺られながら牛久を越えた先に、茨城県日立市日立駅がある。
8月のお盆休み、帰省のため、小学生の僕は母親と一緒に電車に乗って、その日立駅にやってきた。
電車のドアが開くと瑞々しい葉っぱの匂いが漂う。
電車をおりると、真夏の蒸し暑い風が僕の頬を撫でた。
穏やかに改札口へむかう人の群れ。その流れに従い、僕達も駅の外にでる。
「ちょっと待ってね。おばあちゃんに電話するから」
お母さんが暑い日差しのなか、汗をたらしたらし、バッグの中のスマホを探す。
でも僕は暑さなど気にならなかった。都会では聞いたことがない珍しい蝉の鳴き声がしたから。これはひぐらしやツクツクボウシの鳴き声だと、あとで知った。
僕は目を閉じて、蝉の音に耳を傾けた。
風の音、蝉の鳴き声、人々の騒音。それに混じって確かに鐘の音がした。
鐘の音だ。
大みそかの夜にテレビで聞く除夜の鐘のような、低くぼーん、ぼーんとうなるような音だ。それは遥か山の奥から聞こえてくる。
どこかの山寺が鐘を鳴らしているのだろうか?
「おかあさん、あの音はなに?」
僕がたずねる。でもお母さんは電話でおばあちゃんと話すのに夢中だ。
しかたなく僕は耳をすまして、蝉の鳴き声を聞いて暇をつぶした。しかし以前にも増して、はっきりと鐘の音が聞こえる。
他の人達は気にしてない。というより聞こえていない様子だ。
「おばあちゃんは近くのスーパーで買い物をしてるみたい。私たちのためにね。これからこっちに来るって」
やっと電話が終わったようだ。お母さんが早口で僕に伝えた。
「ねえ、あの鐘の音はなに?」
僕はもういちど、お母さんにたずねた。
「えっ? 鐘の音? なにも聞こえないけど」
不思議なことに、お母さんには鐘の音が聞こえないらしい。
「きっと電車の走る音が山に反響して、鐘の音のように聞こえているのよ」
とお母さんが説明する。
もっともらしい答えだ。僕は静かにうなずいた。そんな会話をしている間に、買い物袋をぶらさげたおばあちゃんが手を振りながら現れた。
「ごめんなさい。待たせちゃったかしら?」
「ううん。私達もいま着いたところ」
それから僕らは駅前に並んでいるタクシーの一つに乗った。お母さんが前の席。僕とおばあちゃんが後ろの席に。タクシーに乗っている間も鐘の音は聞こえた。僕は不思議に思っておばあちゃんに聞いてみた。
「おばあちゃん、あの鐘の音はなに?」
「えっ?」
おばあちゃんが不思議そうな顔をする。それから耳をすます。お母さんが口をはさむ。
「もうこの子ったら、さっきからその話ばかり。聞こえないって言ってるのに」
「ごめんね。おばあちゃんにも聞こえない」
期待外れの答えだった。
「でもね、鐘の音って聞いた時、おばあちゃん、子供のときのことを思い出しちゃったわ」
「えっ? なにを思い出したの?」
お母さんが興味津々にたずねる。
「もう今の若い人は知らないと思うけど、昭和40年頃までは、この日立市も銅の鉱山で賑わっていたのよ。日本の経済の基盤だった。貧しかった戦後日本を復興させたほど、銅の採掘は大きな事業になっていたの。昔は日立市も東京に負けないくらい大都市だった。それでね、この鉱山跡地には、鐘の音にまつわる不吉な話があってね。もし鐘の音を聞いてしまったら……」
「聞いてしまったら?」
僕は恐る恐るきく。
「夜中に死んだ鉱夫の幽霊がやってきて、冷たい土の中に連れて行かれるって。むかし、おばあちゃんがまだ子供だった頃に、学校中でそういう怖い噂が流行っていたのよ。実際に幽霊を見たっていう男子生徒が現れてね。女子たちを怖がらせていたわ」
お母さんが苦笑いをする。
「やだわ。怖い話なんて。でも聞いたことがあるわね。昭和の頃は日立市も鉱山で栄えていたって。それこそ、おばあちゃんの言う通り、日本の経済の基盤になっていたってね。確か当時の歴史を残す資料館もあったはずだけど」
資料館とか鉱山の歴史も少なからず興味がある。
しかしそれ以上に興味をもったのは、怖い話のほうだ。
僕は詳しく話してとせがんだ。
おばあちゃんが教えてくれた。
坑内で働く作業員たちへ、昼休みと定時退社の時間を知らせるために鐘の音で合図した。
それがぼーん、ぼーんという低い鐘の音だったという。
あの噂がどこで始まったのかは分からない。
でもいつのまにか、こんな話が子供たちの間でひろがってしまった。
それはこんな話だ。
それから鉱山が廃鉱になった
その音を聞いた人のところに、
言い終わると、おばあちゃんは静かに手を合わせた。
なんともやるせない悲しい話である。
その日は一睡もできなかった。
朝になるまで、僕は布団の中で縮こまってブルブル震えていた。
だって僕は夜中に聞いてしまったのだ。
山奥から響くぼーんぼーんという鐘の音を。
じゃり、じゃり、とつるはしを引きずって歩く何者かの足音を。
そいつが遠い山の向こうから、だんだん家にむかって近づいてくるのを。
山奥から聞こえてくる鐘の音 淵海 つき @Sinkainolemon
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