第2話 横切る(後編)

「なあんだ……」


 安堵と幾ばくかの落胆を覚えつつ、私はハンドルを握り直した。やはり、疲れているのだろう。

 この辺りは車窓から見る限り、深夜に人が通るような界隈ではない。だが、万が一ということもある。


 私はともすれば水面下へちゃぷんと沈み込みそうになる意識を懸命に引っ張り上げながら、ハンドルを殊更に強く握って前方を見据えた。ラジオをつけるという選択肢もないではないが、こういう時はやめた方が良い――音楽のリズムやメロディーはともすると精神と意識をそちらへ吸引し、人のまぶたを重くさせるものだから。


 カーナビが無くてもどうやら私はいい具合に、家のある方角に向かって車を進めているように思えた。相変わらず辺りは雑木林や田畑、伐採後再植林中のスギ林などに囲まれて、風の音ばかりがむやみに響いていたが――不意に前方の路肩に明るいスポットが現れた。

 蛍光灯の光であふれたウインドーの上に、全国どこででも見かけるコンビニチェーンの、赤と緑の目立つロゴが掲げられている。まだ少し距離があるが、見間違えはしない。


 少し残念なのは店が反対車線側にあることだが、気をつけて右折すればいいだろう。そう思って、私は早めにブレーキを踏み始めウインカーのレバーに手をかけた。


 ――それが幸いした。 

 

 ふいに左手の路肩、枯れたカヤだかススキだか、丈高な草が風に揺れるその低い土手のところから、何か大きなものが飛び出してきたのだ。


「危ねっ……!!」


 減速していたおかげでほとんど空走せずに停められたが、眠気も一気に醒めて心臓が早鐘のように鼓動を打った。


「おい……おぉ、もう……くそ」


 もぐもぐと呪詛の言葉を吐きながら、その何かを目で追う――信号も、横断歩道の白線も、辺りには見当たらない。


 ――こんなところで、深夜に左右確認もせずに渡りやがって!!

 

 人間だと、理由もなく決めつけていた。だが、対向車線側の路肩へ移動して藪に分け入っていくそれを見て、私の背筋には嫌な汗がどっと噴き出した。


 人の形をしていない。しいて言えば五指全てを下に向けて机の上や床の面についた、人間の手首から先――そんな感じのシルエットだと感じた。

 黄色がかった色ながら、奇妙に温かさを感じさせないくすんだ色。骨のある直立したタコのようにも見える。


 そう感じさせたのは、雨か夜露に濡れたものかその表面にちかちかと光る、液体めいた反射光のせいだったかもしれない。 


 多分時間にして数秒――思考を停止させられたようにブレーキを踏んだままだった私は、ようやく車を再スタートさせることに思い至った。


(きっと今のは、何かの見間違いだ……そうに決まってる)


 奇妙なものはもうこの場から離れたらしく、ウインドウを細めに開けて藪の方を透かし見ても、もう草のそよぐ気配すらなかった。

 コンビニまではほんの三十メートル足らず。あそこに行けば人がいる――いるに違いない。ハンバーガーか、ホットスナックの什器から肉まんでも買って、腹を満たせばこんな不快な経験はすぐに忘れられるだろう。 


 店に駆け込むと、そこには暖房の生ぬるさと食べ物の油のにおいで、いくらかよどんだ空気がこもっていた。水色とオレンジのジャンプスーツを着込んだ輸送トラックの運転手が、何か商品の入ったパレットを台車で運び込んで去っていく。


 私は大きく息をついてハンバーガーと缶コーラを手に取り、レジへと歩み寄った。

 温めて貰う間に、深夜バイトの女子店員に気さくな風に声をかけた。


「今ねぇ、そこの道でなんか大きな動物が飛び出してきて……危なく轢くとこだったよ」


 可愛らしい顔をあか抜けないメガネでちょっと台無しにしたその店員は、気のなさそうな口調で返した。


「えー、やだ。タヌキとかですかね……? 何年か前には、このあたりでシカも出たって聞きましたけど」


「ああ、なんかそんなのだったかも――」


 私の言葉は語尾から情けなく力が抜けていた。違う。シカとかタヌキとか、そんなものじゃない――クマとでも言ってくれればまだ納得できたが。あの何かのは人間のものより一回り太いくらいのずっしりしたものに見えたのだ。


 私は今の何かを冗談めかして話題にすることで、笑い飛ばしてもらって安心したかったのだろう。だが、話したことでかえってその異様さが心象の中に際立ってしまった。


 その後、二カ月ほどで私はそのホテルを希望退職した。深夜まで、あるいは当直で朝まで拘束されて働くのはもう年齢的に無理だと悟ったし――何よりも。

 夜道で二度と、あんなふうに飛び出してきて横切っていく何かに、出会いたくなかった。

 

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特に怖くもない話 冴吹稔 @seabuki

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