特に怖くもない話

冴吹稔

第1話 横切る(前編)

 かれこれ九年ほど前になるのだが。そのころ私は、近郊の観光地にあるホテルに内務の仕事で勤めていた。

 

 

 内務というのは、平たく言ってしまうと究極の雑用係だ。

 毎日のように営まれる宴会パーティーの関連だけでも、調理補助に宴席の設営、日本酒を出す場合なら燗つけ。飲料予算が決まっているパーティーなら酒代の記録と超過の警告。片づけに皿洗い、残菜の処分。何でもやる。

 

 これに定時の見回りと浴場の掃除、夜勤の当直者への引継ぎ、時には電球の取り換えまで、一切合切。大きな宴会やパーティーがセットされている日は、ひどく帰りが遅くなるのが常だった。

 宴席の世話をする中居さんたちは片づけと称して、膳の上の残り物をつついてはのんびりとお茶を飲んでいたりするし(本来はとんでもない事なのだが)、厨房のパートのおばちゃんたちは、定時になると上がってしまう。洗いものが残っていようと何だろうと、だ。

 

 かくして、そんな同僚たちのフォローや後始末を全部被って、最後の最後まで残っているのが私ということになる。あげくにこれで超過勤務になると、本社の管理部から文句がくるのだからたまった話ではないのだが。

 

 

 とにかく、その日も――二月の寒い夜だった――私は大幅に遅れた業務をどうにか片づけ、凍り付くような寒さの中を、ホテル裏の「駐車場」とは名ばかりのじめじめした草地に置いた、中古軽自動車のところまでたどり着いた。これでやっとのこと、家に帰れるのだ。

 

 ホテルのある川沿いの平野部と、私が住んでいる地域の台地では結構な高低差がある。

 だから帰り道には花房坂という、らせんの一部を切り取ったような急坂を上ることになるのだが、ここは台地の北側斜面に位置していて、冬場にはしばしば凍結するのだった。

 その夜、乗り込んだ軽自動車のフロントガラスは結露した水滴がびっしり凍り付いていて、少し行った先のコンビニでお湯を貰うまではまともに運転できないありさまだった。

 

 これは、坂は確実に凍結しているだろう。無理に登ろうとすれば良くて立ち往生、悪くてスリップ事故を起こす――そう考えた私は、今考えてみれば恐ろしい話だが、カーナビのついていないその車で、なんとなくの方向感覚だけを頼りに、なだらかな道路が続くルートを探りつつ距離的には遠回りで帰ることにしたのだ。

 

 東の工業団地の方へ向かう、片側三車線ばかりの大通りを走って、途中から人影まばらな田園地帯へと入り込む。広大な緩斜面に段差を取って作られた水田の間を抜ける途中、高架線の鉄塔にでもつけられたものか、夜目にも赤い何かの標識灯が目に入った。

 

 辺りには田畑と路面とその赤色灯以外、何も見えない。どこかひどく遠い場所に迷い込んだような、奇妙な気持ちに襲われながら私はハンドルを操り続けた。正直、ひどく腹が減っている。

 東京にいたころに食生活の乱れから体を壊していたので、本来は間食とか深夜になっての飲食は避けるべきだった。だが、一度意識してしまうと、もう我慢が出来なかった。

 

 コンビニを探して田舎道を進んでいく。

 どうやら風が吹き始めたらしい。ところどころに立つ街灯の光を受けた沿道の木々が、生きているように揺れ動いている。ふと、ヘッドライトの光が路面に照らし出す明るい円の中に、奇妙なものが見えた。

 

 

 車のやや前方を、ほぼ同じ速度で何か小さなものが走っている――そう思われた。身長十センチばかりの小さな人影が足を目まぐるしく動かして、並走しているのだと。

 

(莫迦な……小人なんかいるわけがない。疲れてるんだ)


 そう自分に言い聞かせ、頭をぶるぶると振って視線を前方に据え直す。


 改めてはっきりした目と頭で見てみれば、果たしてそれはただ、乾いた枯れ葉が風に吹かれ、車の速度が生み出す空気の渦につかまって、くるくると回転しながら延々と、車とともに移動している――ただそれだけの事だったのだが。



(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る