第10話 オベント・サジェスト
兄に話を切り出したのは二日後だった。
理由は単純だ。会社の営業部の人間どもに連れ回されて兄の帰りが遅かったからだ。
だいたい経理部門の兄が何で営業に連れ回されるのかという話だけども、兄がいると無茶なアポの取りつけやプレゼンの成功率が段違いなんだそうだ。人間型の兄が絶世の美男であるのは差し引いても、僕らタヌキはビジネス関連の吉祥動物だ。何らかのご利益があるのかもしれない。僕ら自身には何にもいいことはないけど。
兄は昨晩営業に駆り出され、今日は溜まりに溜まった本来の業務をこなしてついさっき帰ってきた。
僕が彼女持ちであることをカミングアウトしてからというもの、兄は家じゅうの匂いを嗅いで、留守中に彼女を連れ込んでいないか確認するのがルーティンになっている。まったく鬱陶しい。今夜も一通り嗅ぎまくって納得してから、今夜の自信作、大きな丼に作った小田巻蒸しを食べてやっと人心地着いたようだった。
風呂に入ったあとはよほど疲れているのか、オリジナルの姿でソファーに大股を開いて座り込み、NHKの料理番組を見ながらリンゴを齧っている。
どんなに清潔に気を配ってデオドラント用炭石鹸を使っていても、この姿だと臭そうに見える。
人間の姿で二三日風呂に入らなかったらまた違う意味でヤバい。正月休みに、兄が録り溜めたアニメやドラマを見るのに忙殺されて四日ほど風呂に入らなかったことがあった。そのままぶらっとコンビニに行くと、鼻をひくひくさせた人間が、とろーんとした目つきで顔を覗き込んできたという。帰宅した兄はどんなに怖かったか訴えていたが、僕は、きっしょ、と言うしかなかった。
とりあえず、僕はじわーっと切り出した。
「兄ちゃん、ちょっと話があるんだけど」
――んー、何?
「あのさぁ……一緒に食事でもどうですかって」
――あー、いいよ。いつ? どこ行く? 吉野家? 松屋?
「あー、えーっと……僕の彼女と一緒に、ご飯でも食べに行こうって話なんだけど」
リンゴをシャクシャクしていた口の動きが止まった。
――なんで?
「前にも言ったじゃん、彼女とは結婚を考えてるって。親類になるんだし、お互い挨拶くらいはしといてもよくない?」
――どうして?
「どうしてって……結婚したら、彼女は兄ちゃんの
――イモウト……
兄は少し咀嚼してから最後のリンゴを飲み込むと、哀れっぽい顔をした。
――君が結婚したら、僕はどうなるんだ
「兄ちゃんは兄ちゃんだろ」
――そうじゃなくてさ
兄はふがふがと続ける。
――僕が追い出されるか、君ら夫婦が出ていくかして、僕は一人になるんだろ?
兄本人にも僕にも、兄に仕事と家事の両立ができる気がしない。
でも僕と彼女の愛の巣に兄が同居するとなると、うざ絡みしてくるのは目に見えているのでそれは嫌だ。兄に対してはこれでも肉親の情はある。ところどころ尊敬しているし気の毒にも思う。だけど、僕は彼女が嫁になったらところ構わずいちゃつきたい。
そう正直に言ってしまうと、会食なんかとんでもないと一蹴されそうなので、僕は適当に誤魔化すことにした。
「あー……ほら、そういうのも含めて、彼女にも兄ちゃんと会ってみてから考えてもらいたいしさ、とにかくみんなでおいしいもの食べようよ。食事が気詰まりならちょっとそのへんのカフェでお茶するだけでもいいし」
――ぐぐぅ
「だから時間作ってください、お願いします」
兄は難しい顔で、しばらく考えていた。なにか言おうとしてはやめるのを数回繰り返したあと、やっとこさこう言った。
――わかった。じゃあ来週の日曜日はどう
僕は食い気味に返事する。
「彼女が兄ちゃんに合わせるって言ってたから大丈夫だと思う。ちょっと電話してみるわ」
――待って、条件がある
兄は、もとから歪んでいる顔をもっと歪めた。
――場所は森林公園、内容はピクニック。お弁当は彼女のお手製。これ以外は認めない
「は?」
兄の言葉に、僕は姑根性を嗅ぎとった。
「僕の結婚相手に相応しいか、弁当で品定めしてやるって訳?」
――まあ、うん
「性格悪っ!」
――だってさあ……
「だってもくそもないだろ、もし兄ちゃんが相応しくないっつっても、彼女とは結婚するからな」
彼女は確かに料理はうまくない。でもめちゃくちゃ下手でもない。僕も彼女もお互いの得手不得手に納得しているし、愛すべきところだとも思っている。完璧なパートナーなんて不気味だ。木材の組継ぎみたいに、ダメなところを認め支えあっていくからいいんだ。
兄が、ふん、と鼻息を吹きだした。したり顔というか、ドヤ顔というか、とにかくムカつく表情だ。
――一生顔を突き合わせていく相手なんだから、身内の言うことも聞いて慎重に選ぶべきだと思うよ
僕は牙を剥き出しそうになるのを抑えた。
「兄ちゃんって底意地悪いよな」
――子どもの頃から見物客が来るくらい不細工やってると、多少はタヌキ関係に用心深くなるもんだよ
その言葉には説得力がありすぎた。
僕が黙ってしまったので、兄はぷいっと背を向け、洗面所に向かった。
そして、新しい歯ブラシをガジガジ噛みながら戻ってきた。タヌキの姿で歯を磨くときは犬用ハミガキスティックを使えというのに、兄はこうして何本も歯ブラシをだめにする。
――で、結局どうする?
「……彼女に伝えて、日程調整するよ」
僕が不承不承に呟く。
プラスチックが歯に当たる音を口腔内に響かせながら、兄は低く喋った。
――君が隠れて弁当作りを手伝っても、すぐわかるんだからな
僕は腹が立って、目の前の乱杭歯タヌキのケツから一つまみ毛を引っこ抜いた。
もちろんギャーギャー喚かれた。
双曲線上のタヌキ 江山菰 @ladyfrankincense
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