恋はスクランブルエッグ

一初ゆずこ

恋はスクランブルエッグ

大和やまと、目玉焼きを作って」

 おはようの挨拶あいさつの次に、あたしが選んだ言葉を聞いた大和は、キャリーケースに着替えを詰める手を止めて、困ったような顔で笑った。あたしが大和の妹になった十三年前から今までの間、毎日のように見てきた穏やかな笑みを、カーテンの合わせ目から一条いちじょうの朝日がくすぐって、琥珀こはく色の目に光を灯す。

「たまには、海羽みはねが作れよ」

「やだ。大和の目玉焼きがいい。もう大学受験は終わったし、いいでしょ?」

「受験生でもお構いなしに、作れって毎日せがんでただろ」

 可笑おかしそうに言った大和は、シャツとズボンに着替えていて、短髪にも寝癖がない。まだパジャマ姿のあたしが、セミロングの髪に手櫛てぐしを入れていると、大和は小さく笑って立ち上がり、リビングのカーテンを開けに行った。午前七時の白い日差しが、室内から薄闇うすやみを追放する。門出かどでの朝は快晴で、空の青が嫌味いやみなくらいにまぶしかった。

「受験生になる妹に、もっと優しくしてよ。荷造りだって、もう終わるでしょ?」

「まあな。あとは父さんが起きてから、伯父おじさんの軽トラに荷物を積むだけだ。そっちこそ、大学生になる兄に優しくしろよ。目玉焼きくらい、誰が作っても一緒だよ」

「そんなことない。大和の料理は特別だもん」

 大和の目玉焼きは、家族の誰が作る目玉焼きよりも美味しかった。お母さんの目玉焼きは、黄身きみ半熟はんじゅくにするために焼き時間が短いから、白身しろみも温泉卵みたいにふよふよなのに、大和の目玉焼きは黄身の半熟を維持いじしながら、不思議と白身に弾力があって、カリッと香ばしく焼かれている。窓辺で振り向いた大和が、苦笑した。

「最後の朝くらい、母さんが作る朝食を食べたいんだけどな」

 最後の朝、という言葉が、あたしの胸をつきんと刺す。けれど、最後ならせめて、悲しい顔は見せたくない。あたしは、笑顔を無理やり作った。

「料理してるところ、見せて。明日からは、あたしが作るから。お願い」

 声ににじんだ切迫感せっぱくかんを、遠くから聞こえるすずめさえずりが薄めてくれた。窓辺の逆光ぎゃっこうが生む影の中で、しばらく黙った大和は、呆れ笑いで「仕方ないな」と答えると、ソファの背に引っ掛けていたエプロンを身に着けて、あたしの隣を横切った。

「顔を洗って、着替えてこいよ。その間に準備をしてるから」

 高校の弓道部できたえた身体は、ずいぶん背が高くなった。うん、と答えてリビングを出たあたしは、上手く作れなかった笑顔の仮面かめんをいったん外して、吐息といきをつく。

 一つ年上で、あたしと血がつながらない兄は、ここから遠く離れた土地で、一人暮らしをするために――朝食を取ったら、家を出る。


     *


「みはね、お兄ちゃんのお嫁さんになる!」

 あたしの人生の中で一番古い記憶は、まだ小学校にも上がっていないほど幼い頃に、家族に宣言した日のことだ。

 子どもの他愛たあいない言葉だと、誰もが真に受けなかったと思う。お父さんは笑っていたし、お母さんも一拍いっぱく遅れで笑っていて、当の大和やまと琥珀こはく色の目を瞬くだけで、あたしに何も言わなかった。紛れもなく本気の言葉だということを、あたしだけが知っていた。

「お兄ちゃん、おはよう!」

「お兄ちゃん、どこに行くの? みはねも、つれていって!」

「お兄ちゃん、だいすき!」

 親鳥おやどりを追う雛鳥ひなどりみたいなあたしと、小学生の大和は手を繋いでくれた。「仕方ないな」と言って苦笑して、からかってきた生徒も追い払ってくれた。昔から身体を動かすことが好きだった大和の手は、あたしの手よりも少しかたくて、温かかった。

海羽みはね、おはよう」

「海羽も、遊びに行きたい? いいよ。おいで」

「うん、知ってるよ」

 いつだってあたしをこばまなかった大和は、あたしが何度も伝えた「だいすき」に対してだけは、かたくなにこたえてくれなかった。ねたあたしが文句を言うと、狼狽うろたえた様子でまゆを下げて、一言だけ答えてくれた。

「俺も、海羽が大切だよ」

 決して嘘をつけなくて、優しくて残酷ざんこくな兄の手が、いつかあたしの手を離す未来が来ることを、この頃からさとっていた。やがて恋という言葉を覚えたあたしは、大好きな人のことを「お兄ちゃん」と呼ぶのをやめて「大和」と呼んだ。両親はあたしをしかったけれど、大和は少し困ったような顔で笑うだけで、あたしの好きにさせてくれた。

「大和、おはよう」

「大和、あたし、合格したよ。大和と同じ高校!」

「大和……」

 高校二年生になって、十七歳になって、ちょっとずつ子どもじゃなくなって、その分だけ大人に近づいたあたしは、この恋が家族を悲しませることくらい、分かっている。実の兄妹きょうだいでは、結婚して夫婦になることなんて望めない。幼い頃みたいな無邪気さで、大和に「大好き」と伝えたら、今度こそ家族は、あたしの本気に気づくだろう。

 だから――昨年さくねんの春に、お父さんが口をすべらせたとき。食卓の空気はこおりついたけれど、あたしは心から嬉しかった。

 その日の夕飯はハンバーグで、大和が作った目玉焼きがっていた。高校三年生になった大和の隣で、あたしが目玉焼きにはしを入れたとき、対面の席で新聞の夕刊を読んでいたお父さんが、感慨深そうに言った。

「この記事の写真、海羽がうちに来たばかりの頃に、家族で花見に行った公園だな。桜は今が見頃だそうだ。大和も海羽も春休みだし、久しぶりにみんなで行くか」

「ちょっと、あなた!」

 お母さんが、血相けっそうを変えて叫んだ。お父さんは、しまったと言わんばかりに口を開けた。あたしは、目玉焼きに箸を刺した格好のまま、黄身が流した半熟の涙が、ソースと混ざりながらハンバーグに垂れていく様子を眺めてから、茫然ぼうぜんと大和を振り返って、息を止めた。お父さんの小声が、他人事みたいに耳朶じだを打つ。

「実は、海羽は――」


     *


大和やまとも、知ってたの? あたしが、養子ようしだったこと」

 両親の告白を聞いた晩に、あたしは大和の部屋を訪ねた。机に向かって参考書を開いていた大和は、ベッドに腰かけたあたしに「知ってたよ」と普段通りの口調で答えて、普段よりも影がある微笑で振り返った。

「身寄りがない四歳のあたしを、両親が引き取ったことも?」

「うん。海羽みはねが来た日のこと、覚えてるから」

「あたし、覚えてない」

「幼かったもんな。俺も、海羽が来る前のことは、全然思い出せないよ。俺の人生の中で一番古い記憶は、妹ができた日のことだから」

 あたしたちは、実の兄妹じゃなかったのに、記憶のページの始まりには、互いの存在が記録されている。誰にも内緒にしていた恋の卵を、これからも温めていく資格を得られた奇跡が、あたしに告白を躊躇ためらわせなかった。

「あたし、大和のことが好き」

 大和は、シャーペンを机に置いた。あたしが大和のお嫁さんになると言ったときの再現みたいに、何も言わない。耳鳴りがしそうな沈黙を壊したのは、嘘っぽいくらいに穏やかな笑みで告げられた、昔から変わらない台詞せりふだった。

「俺も、海羽が大切だよ」

「はぐらかさないでよ」

 ずっと抑え込んできた痛みを、あたしは隠さずにぶちまけた。

「あたしの『好き』の意味を、本当は知ってるくせに、鈍感なふりをしないでよ」

「俺は兄で、海羽は妹だから。恋はできないよ」

 さとすような声が、あたしの逆鱗げきりんに触れた。ベッドから立ち上がったあたしは「どうして?」と言って、椅子に座った大和までの距離を詰めた。

「あたしと大和、血が繋がってないんだよ。兄妹じゃなかったんだよ」

「血が繋がってなかったら、兄妹じゃないのか?」

 訊き返す声は、頭に血が上ったあたしから声を奪うには、じゅうぶんなくらいに冷えていた。ハッと口をつぐんで俯くと、大和も我に返ったのか、優しい声で言った。

「その話は、もうやめよう」

「じゃあ、どうして、あんな顔をしたの」

 今度は、大和が口をつぐんだ。顔を上げたあたしは、頬を伝う熱をぬぐいもしないで、どこまでも逃げていこうとするずるい人を、にらみつけた。

「あたしが養子だって判ったときに、なんであんなに苦しそうな顔をしたの。本当は恋ができることをあたしに知られるのが、そんなに嫌だった?」

「違う」

「違うなら、認めてよ。意気地いくじなし」

 涙で視界が波打って、大和がどんな顔をしているのか分からない。両手で顔をおおったあたしは、押し殺した声で、聞き分けのない子どもみたいに、想いをねだった。

「好きって、言ってよ」

「好きだよ。海羽」

 欲しかった一言は、拍子抜ひょうしぬけするほどあっさりと手に入った。でも、奇跡が一日に二度も起きるわけがなくて、あたしが一番欲しいものは、やっぱり手に入らない。

「家族として、大切な妹として、海羽が好きだよ」

 椅子から立ち上がった大和は、大きな手のひらで、あたしの頭を撫でた。

「俺はまだ勉強で起きてるけど、海羽はそろそろ寝たほうがいいよ。おやすみ」

 あたしを妹扱いする兄の手は、昔よりも硬かったけれど、昔と変わらず温かくて、こばみたいのに、拒めなかった。


     *


 大和に振られてからの一年を、あたしたちは兄妹として過ごした。あれから大和は、妹の告白なんて聞かなかったような顔で、あたしと今まで通りに接していた。

 夏休みには、家族で祖父母の家に出掛けた。居間で夕食を取ったときに、集まっていた親戚たちは、久しぶりに会う大和に「いい男になって」とか「高校ではモテるでしょ」なんて言ったけれど、大和は「モテませんよ」と律儀りちぎに答えて謙遜けんそんした。

「俺よりいい男なんて、たくさんいますから」

 それは嘘だ。大和は、女子生徒たちから何度も告白されてきた。毎回断っているようだけれど、いつか誰かの恋心を受け入れる日が来るかもしれない。

 酒盛さかもりをしている大人たちの輪のすみっこで、枝豆を巻いた卵焼きを食べていると、親戚の一人に「海羽ちゃんは、勉強の調子はどう?」と訊かれた。返事をしようとしたあたしは、相手の笑みのぎこちなさに怖気おじけづいて、口ごもった。今までは意識しようがなかったけれど、あたしの生い立ちは親戚にも知れ渡っている。そのとき、隣から「頑張ってますよ」と助け船が出されたから、どきんと心臓がはずんだ。

「海羽は、俺よりも利口りこうです。俺が高二の頃よりも、真面目に勉強してるんで、安心してください」

 卵焼きをはし一切ひときれつまんで、ほがらかに笑う大和を見ていると、なんだか泣きたくなってしまった。大和にとってあたしは妹で、一人の女の子として守ってもらえたわけじゃない。期待を裏切られるくらいなら、いっそ優しくしないでほしかった。

 それでも嬉しいと思ってしまったあたしは、きっと利口じゃない。恋の諦め方なんて分からないし、分かりたくもなかった。


     *


 お気に入りのブラウスとスカートに着替えて、洗顔を済ませてリビングに戻ると、掛け時計は七時を示していた。両親は、まだ休日の朝寝あさねから目覚めない。台所に立った大和は、先にサラダを準備していた。皿のすみに寄せられたレタスとプチトマトが、日差しを瑞々みずみずしく浴びて光っている。あたしに気づいた大和は、卵を一つ手に取った。

「じゃあ、作るか」

「うん」

 あたしが隣に並ぶと、大和は卵をまな板にぶつけて、ボウルに手際よく割り入れた。次に、二つ目の卵をあたしに手渡したから、あたしは尻込しりごみしてしまった。

「大和が割って。あたしが割ったら、黄身がつぶれちゃう」

「ああ、海羽の目玉焼きは、結局いつもスクランブルエッグになってたっけ」

「あたしだって、好きでスクランブルエッグを作ってたわけじゃないもん」

 目玉焼きを作りたくても、卵を割った瞬間には、からの破片が黄身を致命的ちめいてきに傷つけて、ボウルの中で血液みたいに染み出た黄色が、透明な白身をよごすから、菜箸さいばしでぐちゃぐちゃにき混ぜて、失敗をなかったことにするしかなくて――後戻あともどりができない告白をした、こう見ずなあたしの恋みたいだ。大和が、肩をすくめて笑った。

「卵の中央を、平らなところにぶつければ、綺麗に割れるぞ」

「こう?」

 卵をそろりとまな板にぶつけると、からに入った亀裂きれつには、無節操むせっそうに拡がる罅割ひびわれとは異なる秩序ちつじょを感じた。ボウルにつるりと落ちた卵が、大和が先に割った卵と、兄妹みたいに寄り添い合う。並んだ黄色と透明に、大和は慣れた手つきで塩を振ると、熱したフライパンからふたを外した。湯気ゆげ入道雲にゅうどうぐもが、ほわっと白く立ちのぼる。

「フライパンは、オリーブオイルを多めに引いておくんだ。しっかり熱してから、卵を流し入れる」

 棚引たなび湯気ゆげが消える前に、大和は卵のボウルをかたむけて、フライパンの真ん中に投入した。ジュワッと花火にそっくりな音がして、快晴の日を大雨の日に塗り替えるようなにぎやかさが、二人分の卵をいじめていく。熱々のオリーブオイルで泡立つ白身が、ウェディングドレスみたいにひるがえりながら、透明感をうばわれてにごっていく過程かていを、あたしたちは最後まで見なかった。大和がフライパンに再びふたをして、台所に静けさが戻ってくる。

「大和が料理を始めたきっかけって、何?」

「どうしたんだよ、突然」

「いいじゃん、教えてよ。知らないことがくやしいんだもん」

「子どもかよ」

「子どもだもん。子どもだから、あたしはまだ、諦めたくない」

 フライパンの密室みっしつで、逃げ場のない二つの卵が焼ける音が、台所に揺蕩たゆた静寂せいじゃくみだしていく。大和は、観念かんねんした顔でトースターに食パンを二枚セットすると「小学五年生のときの林間りんかん学校で、家を長くけたときがあっただろ」とささやいた。

「覚えてるよ。四泊五日だったよね」

 大和がいない間、大和のことばかり考えていたから。そう言葉にしてもよかったけれど、打ち明け話に耳を澄ませたいから、黙っていた。

「あのときの自炊じすいがきっかけで、自立して家を出るなら、料理は必須のスキルだって、当たり前のことに気づいたんだ。早く身につけたかった俺に、母さんが最初に教えてくれた料理が、スクランブルエッグだった」

「スクランブルエッグ? 目玉焼きじゃなくて?」

「ああ。習いたての頃は、卵ひとつ満足に割れなくて、黄身をつぶしたから。海羽のことを笑えないな」

 ふたから漏れた湯気みたいな温かさで、大和は笑った。大好きな表情をあたしに向けてくれたのに、傷口に塩を振りかけられたみたいに、胸がひりついた。そんなにも昔から、大和は家を出る気でいたのだ。あたしから、離れる気でいたのだ。

「そろそろ完成だ」

 大和が、蓋を持ち上げた。湯気の霧が晴れると、二つの白身が作る白い海は、互いの境界線きょうかいせんくしていて、ほどよくげたふちのレースは、小波さざなみの形をえがいている。月と太陽みたいに離れた黄身は、燃え落ちる寸前すんぜんの線香花火の色をしていた。

 大和は満足そうに「成功だな」と言って、出立しゅったつ前に作る最後の目玉焼きを、サラダの隣に盛りつけた。ちょうど食パンも焼けたから、あたしはバターをひと欠片かけらずつせて、ダイニングテーブルに運んだ。

「いただきます」

 並んで食卓に着いて、唱和しょうわする。完成した朝食は、明度を増していく朝日に照らされて、波打ちぎわ貝殻かいがらみたいにかがやいた。目玉焼きに醤油しょうゆを垂らしてから、あたしが養子だったことを知った夜のようにはしを入れて、白身に卵黄をからめて、口に運ぶ。

美味うまいだろ」

 得意とくいげに言った大和に、うん、と答えたらよかったのに、あたしは兄とは似ていなくて、とことん諦めが悪いから、違う台詞せりふを選んでいた。

「大和が好き」

 あたしは、やっぱり利口りこうじゃない。まだ子どもで、大人になれなくて、綺麗な目玉焼きを作りたくても、潰れたスクランブルエッグしか作れない。夢を叶える努力をしても、報われないことを知っている。それでも、どうしても、諦めたくなかった。

「あたしを、大和の彼女にしてよ」

「やめろよ」

 返ってきた言葉は、今までにないほど強い拒絶きょぜつだった。頭から血の気が引いたあたしは、大和を見上げて、茫然とする。大和は、苦しそうに目元をゆがめて、兄の顔を捨てていた。あのときと、同じ顔だ。

「俺が、どんな気持ちで、ここから遠い大学を受験したと思ってるんだ」

「あたしのこと、そんなに嫌いだった?」

「違う」

 大和は、いつかのように否定した。

「俺のことを好いてくれて、笑顔が可愛い妹のことを、嫌うわけない。俺は……妹ができて、海羽と家族になれて、嬉しかったんだ。海羽を家族にしてくれた父さんと母さんにも、ちゃんと言ったことはないけど、おんを感じてる。俺は、今の家族の形を壊したくないんだ。今の家族の形を、大切にしたいんだ」

「だから、離れるの?」

 あたしも、いつかのように涙ぐんだ。

「好きって、言ってよ。あたしのこと、好きって言ってよ」

「海羽は、俺の妹だよ」

 箸を置いた大和の指が、あたしの目元をぬぐった。涙のもやが薄らいだ視界からは、男の人の顔をした大和が消えていて、兄の仮面をつけ直した家族が、胸が苦しくなるほど優しい顔で笑っていた。

「妹なんだ」

 独白どくはくみたいな台詞せりふが、トーストに染み込んだバターみたいに、朝の静けさに溶けていく。そのとき、二階から足音が聞こえてきて、開いたリビングの扉から、寝ぼけまなこの両親が顔を出した。お父さんは「お、早いな」と感嘆かんたんの声を上げていて、お母さんは「あー、二人だけで先に朝ごはんを食べてる」と悪戯いたずらっぽく言ったから、大和は「作ろうか?」と鷹揚おうように言って、苦笑いをした。

「さっき海羽の分も作らされたから、二人分も四人分も一緒だ。なあ、海羽」

「……うん」

 あたしも、涙の名残なごりを指でぬぐって隠してから、兄にならって、無理やり微笑わらった。


     *


 朝食を終えたあとで、大和とお父さんは外に出ると、伯父おじさんから借りた軽トラックに、引っ越しの荷物を積んでいった。最後にキャリーケースを載せた大和は、玄関先で見送るあたしとお母さんに向き直った。

「じゃ、行ってくる。父さん、運転よろしく」

「ああ、任せとけ」

「身体に気をつけてね」

「うん。長期休暇には帰ってくるよ」

 大和は、助手席に乗り込んだ。続いてお父さんが運転席に乗り込むまでに、あたしは助手席の窓をノックする。窓を開けてくれた大和の手を握って、耳打ちした。

「大和。あたし、諦めないから」

 大和は、少し驚いた顔をしてから、朝食を作ってくれたときみたいに笑った。

「そういう諦めの悪いところ、子どもの頃から変わらないな」

「子どもだもん。でも、次に会うときは、大人になってるかもよ?」

「変なことを言うなよ」

 泡を食った顔の大和に、隣に乗り込んだお父さんが「何の話をしてるんだ?」と訊ねたから、あたしは「お父さん。お母さんも」と呼びかけた。

「あたしを、引き取ってくれて……家族にしてくれて、ありがとう」

 車内のお父さんも、あたしの隣のお母さんも、目を見開いて驚いている。助手席の大和が「俺からも」と言って、春風に短髪をなびかせながら、頭を下げた。

「海羽を、家族にしてくれて、ありがとう」

 お父さんは、呆気あっけに取られた顔で「どうしたんだ、二人して」と言ったけれど、お母さんはしんみりとした笑顔になって、あたしと大和を見比べた。

「こうやって二人とも、あっという間に大人になっていくのね」

「大和は、まだ子どもだよ。実は怖がりだって分かったから」

「おい、海羽……」

 大和は、狼狽うろたえた様子でまゆを下げてから、面映おもはゆそうに笑った。硬くて温かい兄の手が、あたしの手から離れていく。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 ぬくもりが残る手を振ると、春風があたしの髪を巻き上げた。遠くから運ばれてきた桜の花びらが、家から離れ始めた軽トラックを、あたしの代わりに追いかける。見送りを終えても佇むあたしを、お母さんが「海羽」と穏やかに呼んだ。

「さっき大和と作ってくれた目玉焼き、美味おいしかったわ。また作ってくれる?」

 あたしは、勿体もったいつけて「うーん」と呟くと、清々しく晴れ渡った青空を見上げて、大好きな人の笑い方を真似まねて、宣言した。

「当分は、スクランブルエッグかな」


<了>

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