紫を蹴る

「火事だーっ!」

 屋敷にその声が響いたとき、直感的に、貸しっぱなしのキセルが脳裏に浮かんだ。

 ヒヨウは結婚式の会場で最終確認に立ち会っていたが、声が聞こえてすぐ大広間を飛び出した。慌てる使用人を掻き分けて走れば、やはり火元は花嫁の控え室。あのガキ、と悪態が口からこぼれる。

 覚悟を決めたい? 殊勝なことを言って、それは父親を裏切って逃げる覚悟のことだったのか。

 控え室は屋敷の離れにある。渡り廊下を駆けるヒヨウの目に、二階の窓から木伝いに抜け出す小柄な姿が映った。使用人たちは火を消すのに手いっぱいで、火を放った犯人を追うことまで頭が回っていない。ヒヨウは渡り廊下から庭へ出て、娘が降りてくる場所へ先回りしようとした。しかし、上から落ちてきた何かが脳天に命中し、地面に膝をついた。

 眩む視界に目を凝らせば、地面に散らばるのは花瓶の欠片だ。屋敷の廊下という廊下には何かしらが飾られている。そのひとつだろうとぐらつく頭で思う。

 低くなった視界に、花嫁衣装の焦げた裾が入りこんだ。滑りやすい靴を脱いだ裸足が地面に下り立った拍子に、帯からころりと宝石がこぼれる。これは控え室にあったものだろう、花婿からの贈り物だ。嫁ぐ気がないなら返せと言おうとしてやめ、ヒヨウは別の言葉を投げつけた。

「どこへ行く気だよ」

 脅迫のつもりだった。

 父親を裏切ったのだ。実家へは帰れない。十四歳の娘が後ろ盾もなく、どうやって生きていくつもりか。

 ヒヨウが伸ばす手をかすめて、小さな手がこぼれた宝石を拾い上げる。華奢な、というのはもっと大人びた手に使う言葉だ。指の短い丸い手は、宝石より菓子でもつまんでいた方が似合う。大人なら誰もが守るべき少女を、守ってくれる大人はこの国にいない。

「あなたみたいなのがいない場所だ」

 少女は答え、懐から取り出したキセルを振りかぶった。その光景を最後に、ヒヨウの視界は暗く沈んだ。


***


「西へ逃げるのを目撃した者がおりました。人の多い都会で身を隠すつもりかと」

「ああ」

「宝飾品を持ち逃げしたのは逃亡資金のためでしょう。現れそうな質屋を見張らせましょうか」

「ああ、そうだな」

 命令を受けて娘を探しに行った使用人たちが戻ってきたとき、誰も連れていなかったのを見て、ヒヨウは一気に疲れて枕に頭を下ろした。うっかり勢いをつけて倒れたせいで、包帯を巻いた頭がまた痛んだ。その舌打ちに使用人たちが委縮するのが視界の隅に見える。

 実りないやり取りを数度繰り返したところで、いちばん若い使用人がハッと顔を青くした。

「若旦那様、申し訳ございません」

「どうした」

「役人に届けるのを失念しておりました。放火と窃盗の件で届ければ、捕吏が動き、すぐに娘を見つけ出せるかと思いますが」

 金づくりのキセルを持つ丸い手が脳裏に浮かぶ。

「いや、いい」

「ですが……」

「家の恥をさらす気か。ヒ家の力だけで探し出せ。できないなら放っておけばいい、娘一人逃げたところで誰も困らない」

 一番困るのはこの俺だ、と口の中でつぶやく。

 それでも届出を制止したのは、何のためだっただろう。憐れみか、同情か。自分で追いこんだものを見逃すことで救ってやったと豪語するなら、それは、我ながら気色悪い。

(『あなたみたいなのがいない場所』、ねえ)

 そんな場所があるだろうか。新しく用意させたキセルを指先で転がし、ヒヨウは紫の溜息をついた。

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紫を蹴る 矢庭竜 @cardincauldron

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