刻印

鹽夜亮

刻印

 命を削りながら何かを作る、という表現がある。ここでは芸術全般に用いられるものとして捉えて話をしよう。

 音楽、絵画、小説、それらにどこか共通して、作り手が命を削りながら創作したものというのは、たしかに存在する。それは作り手がその作品の後に亡くなったからだとか、そう言った結果論ではない。聴き手、観る者、読み手に自然と伝わる感覚として、小手先だけでは生み出せないヒリついたあの空気、それはたしかに存在すると私は言い切る。

 私はそういうものを書きたいと思っていた。いや、今でも思っている。そう言ってもいい。だが、今回この話題に触れたかったのはその先のことである。


「削った命はどこへいくのか」

 

 つまり、本題はそれだ。

 命を削る、表現することは、それにあたって自分の内面を深く掘り下げ、いわば危険な領域まで侵入して、向き合い、表出させることにほかならない。人はそれに消耗する。ただ生きているだけなら、触れる必要のない暗部を見つけ出し、格闘し、表現することは人間の精神を、時には肉体をも確実に蝕み、消耗させる。

 カートコバーン、クリスコーネル、チェスターベニントン、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、梶井基次郎。

 彼らは私が今、この話題に触れる中で思い付いたほんの一部の人々だ。彼らはたしかに命を削っていた。少なくとも私にはそう思える。だが同時に、削りながらも、常にそれと向き合っていた。

 至極当たり前な疑問が浮かぶ。


「何故そうまでして、表現するのか?」

 

 私は今まで、漠然と遺したいからだと思っていた。自分の生きた意味を、価値を、本来誰にも知られない自分という人間の奥深くを、生物の生死とは関係なしに遺す、そういうものだと。

 だが、今は少し違う。きっとそれは遺すのではない。


「彼らは刻みつけたかったのだ」


 遺す、と刻みつける、は明確に違う。遺すことはどこか後ろ向きで、哀愁を帯びながら、悲観的だ。絶望と言ってもいい。そこには多大なエネルギーが含まれてはいるが、まさにそれは「死へ向かう」確実なエネルギーに他ならない。私は命を削ることをずっとこの「遺す」だと思っていた。

 だが、「刻む」は違うのだ。そこに過去も未来も希望も絶望も悲観も楽観もない。ただ、今、この場所に自分の在り方を刻印する…そう、それだけなのだ。それが結果として遺ることはあるだろう。だが、それが目的なのではない。あくまで、「刻む」ことが目的なのだ。それ以外は、きっと彼らにとってどうでもよかったのではないか、と私は言いたい。

 今ここにいる自分に、ただありったけのエネルギーを込めて向き合い、それを今この場所に刻みつける。それが側から見て命を削る行動に見えようと、死への支度に見えようと、当人にとってそれはどうでも良いことだ。それらの結果論は、何ら意味を持たない。ここにきて重要なのは、ただ、「今、ここに自分という存在を刻み込めたかどうか」だけだ。それ以外は何もない。…

 冗長になる前にそろそろ締めよう。

 私は、私を刻み込みたい。この場に、今に。今を生きる自分を、ただ刻み込みたい。それが遺るか、遺らないかなどどうでもいい。自分が命を削っているかなど、死がどうのなど、どうでもいい。

 

 ただ今。今だけだ。今だけなのだ。

 さぁ。


「刻印せよ」

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刻印 鹽夜亮 @yuu1201

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