第4話

 ハルと私は違う道を選んだけど、決別したわけじゃない。

 スニーカー事件の後もハルは歌劇団のために邁進したし、私はバレエを続けた。

 ただ、気持ちが切り替わったのか。

 梅雨が明けて、日が差して、私は久しぶりに夏を思い出した。

 春の花の息吹。

 夏の草木の生命力。

 秋の燃えるような木の葉。

 冬の白い大地。

 季節の移ろいや自然の美しさを感じながら、目に焼き付けて。

 踊るつま先に、指先に。体中に、世界の美しさを表して。

 私の目指していたものは、きっとそこにあったんだと思う。

 私には私の、ハルにはハルの世界が、それぞれにあったのだと。

 まばゆい夏の光の中、ようやく心から、私たちの有り様を受け入られた気がした。



 * * *



 頭の芯に、火をともしたような。

 今は花のない桜の木の下で、熱に浮かされたようになったのは、遠い過去に思いを馳せたからだろうか。それとも初夏の日差しのせい。

 桜の木の肌を撫でる。あの頃の私たちが刻まれている。

 背比べの線は、途中から片方だけにつけられるようになった。

 桜姫を諦めた私の傷跡の隣で、ハルはその先も身長を記し続けた。

 何本も刻まれた印は、目標に届かないままで。

 あの後、ハルは満を持して受けたオーディションに落ちた。

 あんなに沢山のものを賭けたのに。

 ――賭けているのは、私だけじゃないから。

 誰もがみんな戦っている中、そう簡単に選ばれることはなくて。

 それでもハルは諦めなかった。

 私たちは別々の高校に行って、それぞれの世界であがくことになった。

 ハルは何度でも、歌劇団のオーディションに挑んだし。

 私は歌劇団こそ、別世界のものだと離れて行ったけど。踊ることはやっぱり、ずっと大好きで。

 大学は舞踏科のある学校へと進学した。

 歌劇よりバレエの方が簡単だから、私でも選べたなんてことは、まったくない。厳しい世界であることに変わりはなかった。

 ただ歌劇では、ハルと一緒に進もうとしたことに無理があったのかもしれないし。

 似て非なる世界を比べて、同じ舞台芸術でも愛し方が違ったのかもしれない。

 単に適性の話ということもあるだろう。

 なんにしても、私は私の道を歩いている。


 鞄の中で、スマホが震える。

 表示した画面には、歌劇団の公演情報が送られてきていた。

 演目は『桜姫』。

「なんでこのタイミングなのよう!」

 人気のない公園で、私は思わず叫んだ。

 この夏から海外留学をするというのに、どうして今!

 大学からの推薦状を勝ち取って、海の向こうの舞台芸術を学ぶ機会を得た。絶対に逃してなるものか。

 だけどハルが桜の木につけた、目標に届かない傷の数々を見ると。

「観に行きたいなあ」

 スマホで歌劇団の公式サイトを開く。

「ハル、そこに立ってるんだもんね」

 トップページに掲載された『桜姫』の公演情報と、ハルの写真。

「スケジュールを調整すれば……」

 留学準備と出発日と公演日程を頭の中で巡らせながら、身長を刻んだ幹を視線でなぞる。自然と頭が上向いた。

 揺れる新緑に、あの時もそうだったなと思う。

 桜が散って、春が終わって。

 訪れた次の季節に、私とハルはそれぞれの世界へ続く道を歩み始めた。

 足元の尖った石を拾う。

 私は桜の木に、もう一度誓いを刻みつけた。

 傷跡は百五十五センチより、少しだけ上。

 バレエの世界では、さらに高い身長が望ましいとされる。

 だけど背が低くても、活躍している方はいるし。

 ハルだって、桜姫になれたし。

 葉の形をした影が落ちる足元は、裸足でもスニーカーでもない。柔らかい作りのフラットなパンプスには、葉の間からちらちらと光が差していた。陽の光はもう夏めいている。

 夏の始まりに、私はあの日刻んだ誓いを超えていく。





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春にさよなら いいの すけこ @sukeko

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