第3話

 中学校に入学しても、ハルは変わらず歌劇団に夢中だった。むしろ情熱は加速していた。

「教室でもスニーカーを履かせて下さい」

 ハルは学校にそう申し出た。

 踊る足を守るために。

 不慮の事故で足を痛めたり、怪我をしたりするのが怖いから。既成の上履きでは、足を保護するには頼りないからということだった。

「ナツも室内履き、スニーカーにしたら?」

 ハルに提案されても、私は曖昧に笑うだけ。

「上履きでも、気をつけるよ」

 バレエで酷使する足を、私も労るべきだとは思ったけど。

 学校でただ二人だけ、上履きと同じ白色でも段違いに目立つ重装備スニーカーを、身につけるだけの度胸はなかった。

 上履きの薄い靴底よりも、すこしだけ厚く作られたスニーカーの底。

 それだけのことで、目線の高さが変わるはずもないのに。まっすぐ前を向いているハルは、私よりずっと背が高く見えた。

 脇目も振らずに、ハルは突き進んでいく。

 私も踊っている時は、自分にはこれしかないんだってくらいに、何も見えてなかった。

 だけど生き方まで、あの日見た『桜姫』の桜色に染め上げることは出来ない。


 周りを顧みないハルは、学校で大いに顰蹙を買うこととなる。スニーカーひとつで敬遠されるなんて、ばかばかしいと思う。けれどハルの歌劇団にかける熱意と振舞いは、周囲の目には異様に映ったのかもしれない。ハルが無視も陰口も堪えていないようだったのは、それこそ歌劇団しか見えてなかったからだろうけど。

 中学一年が過ぎ、二年が終わる頃になってもハルはずっとハルらしいままで、ひとり前だけを向いて進んでいて。

 周りに理解されないのは、つらくはないかと問えば。

「同士がいるしね」

 ハルは桜の木を刻みながら、私に笑いかけた。

 私はとっくに、ハルに顧みられることなく振り落とされたのだと思っていた。

 私には駆け抜けていくハルに、しがみつくだけの力なんて残っていなかったのに。

 桜の傷は、いまだ目標に届かず切実な刻み方をしていた。


 いよいよ研究所のオーディションが目前に迫った、中学三年の初夏のこと。

 梅雨空の下、事件が起こった。

 朝、登校したら、ハルの室内用スニーカーが靴箱から消えていたのだ。

 空の靴箱を見つめて、顔を強ばらせたハル。いつもならとっくに教室でおしゃべりしているクラスメイトが、下足場に貼られた『土足厳禁』のポスターの前でたむろしていた。

 規則を外れるからには、ハルは室内に砂粒ひとつすら持ち込んだことなんてないというのに。

「ハル、私の上履き使って」

 私はハルに自分の上履きを差し出した。私は裸足でもなんとかなる。だけどハルは駄目だ。薄汚れた上履きだって、ないよりはマシなはず。

 けれどハルは、私の顔と上履きを一瞥すると。

 履いてきたスニーカーで、そのまま校内へと入っていった。

 その日は朝から雨で、外から履いていたスニーカーは泥だらけだった。

 廊下に足跡を残して、ハルは教室に向かう。

「ハル!」

 上履きも履かないまま、ハルを追いかけた。

 こんなの、先生に見つかったら。学校中に知れ渡って、みんなから責められでもしたら。

 忠告して、それでハルは止まるだろうか。

 誰に何を言われても。

 慰めても。

 ハルがそれを望むのか。

 私は何を言えるだろう。

 何が言いたいんだろう。

「ハル!」

 私は、ハルに。


「ハル。私、桜姫にはならないよ」

 前を行く汚れたスニーカーが、ぴたりと止まる。

「私は歌劇団にはいかない」

 ハルが振り返った。

 雨の染みたブラウス。

 私が見た中で一番、疲れた顔をしていた。

「どうして」

 それでも強い瞳で、私を射抜くハル。

 刻んだ誓いに届かない身長は、言い訳になるだろうか。

 いや、ハルはそれでも、諦めない。

 だけど、私は。

「泥だらけのスニーカーで歩く勇気は、ないから」

 なりふりかまわず、歩いてはいけないから。

「……勝負って言ったのに、降りるんだ」

 静かなハルの声音は、怒りなのか悲しみなのか、失望なのか。もっと違うなにかなのか。

 一緒にいても、結局はわからない。

「ずっと勝負になってなかったよ。ハルが戦ってたのは、少なくとも私じゃなかった」

 ハルの目もとが歪む。

 ああ違う。こんな、恨み言みたいなこと言いたいんじゃなくて。

 私が伝えたいのは、そんなことじゃなくて。

 ずっと、とどかなかったけど。

「だけど一緒に背比べするの、好きだったよ」

 あなたの戦いを、ずっと近くで見られたこと。

 いっときでも、同じ夢を見たこと。

 それは私にとっての、宝物。

 憧憬も羨望も、もどかしさも全部ひっくるめて、全部抱えて、私はハルと違う道を行く。

「……スニーカーじゃなくてもいいけど、裸足はやめておきなね」

 大事な足なんだから。

 濡れた靴下に包まれた私の足を見て、ハルは言った。

 少しだけ、寂しそうな顔をして。





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