第3話
ステファンと画商との間にあった信頼関係は、彼がアトリエに移ってしばらくしてから崩れた。
画商は腕の良い贋作家を雇い、片っ端から偽物を作っては売りさばいていたらしい。
貴族もどうやら一枚噛んでいたようで、ステファンは詐欺の片棒を担がされる形になっていた。
子供が生まれるこのタイミングで、せっかく手に入れた地位を手放すのか、それとも自身の良心に従ってこの場を去るのか。悩みぬいた末に、ステファンはアトリエを抜け出すことに決めた。
『もうそろそろ、子供が生まれるころだと思う。いま僕は、君の元へ向かっている予定だ。もしかしたら、手紙よりも先に僕がついているかもしれない』
『でもきっと、手紙の方が先に着くだろうから、生まれてくる子に一足先にお祝いを言わせてほしい』
『0歳のお誕生日おめでとう。僕たちのところに来てくれて、ありがとう。最大限の愛をこめて。君に会うのが、今からとても楽しみだよ』
『エリザ、僕は家に帰ったら、すぐに地上の楽園を描く作業に入るよ。君と子供の隣に、僕の姿も入れて家族の肖像画にしよう。この子の一歳の誕生日にプレゼントするんだ』
この手紙を最後に、ステファンから秘密のメッセージが届くことはなかった。
なぜ郷里の春が描きかけのままだったのか?
続きを描けない状態になっていたからだろう。おそらく画商と貴族は、贋作家が筆を入れて価値が損なわれることを嫌ったのだろう。
なぜ夏の田園以降の作品の評価が低いのか?
いかに腕の良い贋作家と言えど、お手本のない新作を描く技術は低かったのだろう。いくらステファンの筆を真似ても、彼の独特な美的センスまでは写し取れなかったのだ。
なぜステファンは娘の誕生後に人が変わったようになったのか?
その言葉の通り、人が変わっていたのだ。アトリエに閉じこもっていたのも、ステイシアが会いに行っても顔を見せなかったも、別人だったからだ。
なぜエリザはずっと変わらなかったのか?
秘密のメッセージがなくなり、手紙の内容が変わっていく中で、聡明な彼女がステファンの死を感じ取れなかったとは思えない。
リリアはこの謎だけは解くことが出来なかったのだが、ステイシアはあっさりと解いてしまった。
ブラックライトに浮かぶメッセージを一通り読み終え、地上の楽園を見た後で、彼女は静かに一粒の涙をこぼすと、そっと教えてくれた。
「母はきっと、父が生きていることを願っていたのよ」
手紙が送れない状況になりながらも、画商と貴族の監視の下、ひっそりと生きているかもしれない。いつか彼が画家として使い物にならなくなった時、家族の元へ戻してくれるかもしれない。
もしもステファンが別人になっていると騒ぎ立てれば、彼の命が危うくなる。表面上は何事もないように努め、それでも別れを切り出されれば面会を求める。
生きている望みは薄い。けれど、微かな奇跡にかけて手紙を送り続けた。
万が一、生きているステファンに届いているのならばと、愛の言葉を添えて。
ステファンが使っていたアトリエからは、大量の血液が流れた痕跡が見つかった。丁寧に拭きとられていたものの、科学の前では隠し切れなかった。
貴族が使用していた別荘の庭からは、白骨遺体が見つかった。DNAから、ステファン・デュモンのものだと断定された。
はっきりとした死亡日時は分からないが、アトリエを離れる旨を綴った手紙をエリザに送った後、それほど時を経ずに亡くなったようだった。
ステファンを囲っていた貴族の家系は、不幸な事故や病が続いて没落しており、すでに後を継ぐ者もいなくなっていた。画商は不慮の事故で亡くなっており、彼の持っていた画廊も無くなっている。
ステファン・デュモンの墓に入っていた別人の遺体は掘り起こされ、本来の主が眠ることになった。偽のステファンが誰だったのかは、現在も調査中らしい。
ステイシアは、ステファンが無事に埋葬されたのを見届けた後で、ひっそりと息を引き取った。
春の穏やかな日差しの下、詩集を膝の上に乗せて、ほんの少し居眠りをしてしまった。そんな姿でそっと旅立ったらしい。享年九十九歳だった。
彼女は生前、手紙を丸ごと美術館に寄贈していた。
『地上の楽園』が飾られた対面の壁には、ステファンが描いた『絵を描く自画像』がかけられている。
生まれたばかりのステイシアと彼女を抱くエリザを、ステファンが描いているように見えるその空間は、家族の肖像画とタイトルがつけられていた。
美術館の中にステファン・デュモンの軌跡をたどった一角が完成し、正式にオープンとなったその日は、奇しくもステイシアの百歳目の誕生日だった。
地上の楽園 佐倉有栖 @Iris_diana
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