第2話
先ほどまでの手紙とは違い、保存状態が著しく悪く、絵具が飛び散っているものやクシャクシャにしわが入っているもの、ビリビリに破かれた後に誰かがテープで繋ぎ合わせたものまである。
今にも朽ち果ててしまいそうなほどに脆い手紙には、丸みを帯びた字が几帳面に並んでいた。
こちらは、エリザがステファンに宛てた手紙だ。
見てわかるように大切に保管されていた形跡はなく、ほとんどがステファンの死後、アトリエを掃除した際にゴミとしてまとめられていた紙の束から見つけたものだ。
このうちのいくつかは、月に数度ステファンがアトリエを空ける際に掃除を依頼されていたメイドが、ゴミ箱の中から拾って保管していたものらしい。有名な画家の妻の手紙なら、いずれそれなりの値がつくだろうと思っていたようだ。
エリザの手紙は、最初から最後まで穏やかな愛にあふれていた。
どの場面を切り取っても、変化はない。
自身のこと、町のこと、友人のこと。
娘が生まれてからは、その様子に多くの文字数を割いている。そして最後には必ず、ステファンの体調を気遣い、変わらない愛を囁く。
それは、ステファンから別れを切り出された後も同じだった。
『会って話し合いましょう。きっとあなたも、娘を見れば気が変わるわ』
ステファンはその提案に返事をしなかった。
素っ気ない事務連絡に、たまに思い出したように軽く愛の言葉を書き添える。
それに返事をするエリザの手紙は、変わらない。
人が変わってしまったステファンを前に、何も変わらないエリザ。
その変わらなさが、かえって不気味だった。
なぜエリザは変わらないのだろうか?
有名画家の妻の座を手放したくないからだと、散々陰口を言われていたようだが、この手紙を見る限り、もっと深い何かがあるような気がする。
「何かがおかしいのに、その何かが分からない!」
リリアは苛立たし気に地団太を踏むと、テーブルに突っ伏した。
金色の髪をワシャワシャとかき乱し、誰も見ていないのを良いことに、子供の時のように床に寝転がって手足を振り回す。
足がテーブルに当たり、手紙が一枚落ちてくる。紙の状態から考えるに、これはステファンが送った物だろう。
空中でそっと受け止め、寝転がったまま手紙を読む。何度も読んだため、冒頭でどんな手紙なのか分かる。
これは、ステファンが初期にエリザに送ったものだ。前後のエリザの手紙が失われているため、どんな会話をしていたのかは定かではないが、ステファンが自身の特別な才能を自慢している文面だ。
『僕は天才だから、バラバラの小さな紙を繋ぎ合わせて大きな絵を描けるんだ』
『僕の頭の中には、僕にしか見えないキャンバスがあるからね』
事実、ステファンは路上で絵を売っていた時、よく来る客にオマケとしてその場で即席の絵を描いていたらしい。
ある時毎日来ていた夫人に、今までの絵をこの順番に並べてほしいと言って一枚の紙を渡した。
夫人は不思議に思いながらも指定されたとおりに紙を並べると、一枚の大きな絵になったという。
ステファンは確かに、彼にしか見えないキャンバスを持っていた。幻のキャンバスに描いた絵を、少しずつ小さな紙に書き写す技術も持っていた。
「もしかしたら『地上の楽園』も、ステファンの幻のキャンバスに描かれただけの作品かもしれないのよね」
そうだとしたら、彼がこの世を去った今、消失してしまったということになる。
地上の楽園がどんな作品だったのか、知ることが出来なくなって残念だと言う感情と、秘密のヴェールに包まれたままで良かったのかもしれないと言う思いが交差する。
そこに何が描かれているのかによって、この手紙の束をどう処理するのかが決まってしまう。
この手紙の束の所有権は、リリアの祖母にある。
祖母の名前はステイシア・デュモン。
ステファン・デュモンのたった一人の娘だ。
ステイシアは幼少期からずっと、父親から捨てられた娘だと揶揄されてきた。
母のエリザはどんなにステイシアが訴えてもステファンと別れることはなく、いつも曖昧な笑顔で抱きしめていた。
周囲の悪意ある言葉にさらされながらも、ステイシアは穏やかな女性に育った。
いつも優しく、柔らかな笑顔を浮かべるステイシアのことが、リリアは好きだった。
しかし同時に、時折見かける陰りを帯びた表情が気になっていた。
最近になってステイシアとステファンとの確執を知り、自分なら曽祖父の心変わりの原因が分かるかもしれないと、根拠のない自信を持って倉庫の奥から手紙の束を引っ張り出して数か月、何もつかめないまま時間だけが過ぎていた。
結局、これまでの定説通り、ステファンは都会で色々な刺激を受けるうちに妻子への愛情を失い、遊び惚けているうちに絵の腕も鈍ったというのが正しいのだろうか。
「遊んでたせいで期日までに郷里の春を描き上げられなかったから、中途半端なままで出して、夏の田園も雑に描いて出した。ステファンの名があればどんな絵でも売れるから、その後は適当に描いて出し続けた。……別に、筋は通ってるのよね」
しかし、それならエリザはなぜ、ステファンを見限らなかったのか。
空中に伸ばした手の先にある手紙をもう一度眺め、ふとあることに気づいた。
ほんの少しだが、紙が薄くなっている箇所がある。
窓から差し込む日差しに透かし、目を凝らす。
茶色い紙に、透明な文字が浮かび上がる。
「……の……楽……。地上の楽……!!」
リリアは起き上がると、もっとよく見ようと窓辺に移動して手紙を透かした。
地上の楽園の文字は読み取れたが、その前後は手紙の文章が邪魔してよく見えない。
「紙が薄くなってるけど、触っても特に何もないってことは、削って字を書いてるとかじゃなく、何かの液体で書かれてるってことよね。炙り出し? は、ないわよね。だって炙った形跡はないもの。だったら……」
引き出しから、ペン型のブラックライトを取り出す。
子供のころ、秘密の手紙が流行ったときに使っていたものだ。専用のペンで書くと、ブラックライトをあてないと読めないようになる。
カーテンを閉め、ライトのスイッチを入れる。
手紙に光を当てれば、白い文字と共に絵の断片が浮かび上がった。
『だから僕は、地上の楽園というタイトルの絵を、これから生まれてくる子と君に贈るよ。手紙の端に数字と記号を入れておくから、順番通りに左上から並べて』
リリアは夢中で、手紙の束から数字を探し出した。
一番の数字の隣には、右の矢印が描かれていた。二番の隣にも右の矢印、五番になってやっと、下矢印と左矢印が描かれた。おそらくは、六番目は一番の一つ下の段に置けば良いのだろう。六番の隣には、また右矢印が描かれていた。
指示通りに並べると、テーブルいっぱいに大きな一枚の絵が浮かび上がった。
それは、美しい女性が可愛らしい子供を抱いて微笑んでいる絵だった。
女性の顔には、ステイシアの面影があった。
おそらく、エリザと子供の絵だろう。白い線のみで描かれた絵にも関わらず、モデルへの溢れんばかりの愛情が伝わる、息を呑むほどに美しい絵だった。
これほどまでに深い愛を描ける人が、あっさりと妻子を捨てるはずはない。
リリアはそう確信すると、文字の浮かんでいる手紙を片っ端から集めた。
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