第1話
紙の束をテーブルの上に広げ、リリアは深く息を吐き出すと、気合を入れるように軽く頬を叩いた。
紙の束は、よく見れば古い手紙だった。流れる様な筆跡は、うっとりするほど美しく整っている。
「最初の手紙はこれかしら? ……あぁ、そうね。ステファンが街に着いて初めて送ったものだから間違いないわね」
紙を傷めないように気を付けながら、慎重に開く。
故郷に残してきた妻に宛てた手紙で、あてがわれたアトリエの広さや、窓から見える景色について興奮気味に語っている。
ステファンは、田舎町のあまり裕福ではない家庭に生まれた。
貧しいながらも愛情いっぱいに育てられたものの、彼が学生の時に両親を相次いで病気で亡くした。元々勉強が苦手だった彼は学校をやめ、日雇いの肉体労働者として働いていた。
彼は両親がまだ生きていた頃から、近所に住むエリザという少女と付き合っていた。
エリザの家もステファンの家と同じく裕福ではなかったが、彼女は頭が良かったため国の援助をもらい、高等教育を受けていた。
いつか一緒になりたいと夢を語りつつも、将来有望なエリザとその日暮らしが精いっぱいのステファンでは、つり合いが取れていないのは明白だった。
いずれはエリザのためにも身を引かなくてはいけないと分かっていながらも、ズルズルと先延ばしをし続けて数年、唐突に転機は訪れた。
切っ掛けは、休憩中に気晴らしで描いていた絵だった。
もともと絵を描くのが好きだったステファンは、お昼ご飯を食べ終わるといつも、適当な紙の裏に落書きをしていた。自由気ままにペンを走らせていただけだが、たまたまそれを見た同僚が、路上で売ってみたらどうかと提案してきたのだ。
最初は半信半疑だったステファンだが、思い切って売り出してみたところ、話題になった。
独特で美しい絵は飛ぶように売れ、いつしか絵を売ったお金だけで食べて行けるようになった。
貯まったお金で小さな家を買い、庭に簡素なアトリエを建てると、エリザを迎えに行った。
エリザの両親を何とか説得し質素な結婚式を挙げてから一年、ステファンにとある貴族からパトロンの申し出が来たのと、エリザが懐妊したのはほぼ同時だった。
ステファンは悩みに悩み、最終的には生まれてくる子のためにもと、貴族の求めに応じて都会へと行き、指定された画商が用意したアトリエに向かった。
「どれもこれも、惚気話ばかり……」
呆れとも苛立ちともとれる声音でリリアが呟く。
手に取る手紙全てから、ステファンのエリザに対する溢れんばかりの愛情が伝わってくる。
聞いた話によると、ステファンは幼いころからエリザのことが好きだったらしく、何年もの猛アタックの末、彼女が折れる形で付き合い始めたらしい。エリザは頭が良く、運動もできて、なによりも町一番と言われるほどの美人だった。
高嶺の花を手に入れたステファンは、それは大切にしていたという。
「それなのに、なんでステファンは手放したんだろう?」
妻へ送り続けたラブレターは、娘の誕生の後から急激に数を減らしていく。
最初のうちは変わらずに愛を囁いていたのだが、頻度が減り、枚数が減り、やがて事務的な話だけが連なるようになった。
娘の成長やエリザのことを気にするそぶりは一切なく、自分が今どんな絵を描いているのか、画商や貴族がいかに良くしてくれるのかを言い連ねている。
素晴らしい都会から離れたくない。
しかし、エリザたちを呼び寄せる気はない。
仕事は順調で、きっともう自宅に戻ることはない。
あの町には、もう二度と帰らない。
『娘が成長するまで、何不自由ない生活費を送り続けることを約束する。例え絵が売れなくなったとしても、画商と貴族が君たちの生活は保障すると言っている。だから……』
別れてくれないだろうか。
冷たい一文を指先でなぞる。
あれだけ愛にあふれていた人が、一年にも満たない月日であっさりと妻子を捨ててしまうとは。都会の魔力というものなのか、それとも別の要因があるのか。
リリアは手紙の束を何度も読みなおした。
ステファンの変化は、娘の誕生がきっかけのように思える。
「ステファンは、子供が欲しくなかったのかしら?」
しかし、娘が生まれる直前まで、我が子の誕生を心待ちにしていた様子が伝わってくる。
街を歩いているときに小さな子供とすれ違うと、目で追ってしまうと言っていた。
もしも男の子が生まれたら、赤い蝶ネクタイのスーツを着せて、もしも女の子が生まれたら、レースとフリルがたくさんついたピンクのワンピースを着せて、三人で手を繋いで街を歩くのが夢だと楽しそうに語っていた。
「でも、ステファンは一度も娘には会わなかった」
それどころか、年頃になった娘がステファンを訪ねて行っても、門前払いされたらしい。
元々ステファンはあまり社交的な性格ではなかったらしく、都会に行ってからは余計に拍車がかかったようだった。月に数回画商や貴族と会う程度で、ほとんどの時間をアトリエにこもって過ごしていたらしい。
リリアは小さく首を振り、広げた手紙をテーブルの隅へと追いやると、今度は別の束に手を伸ばした。
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