バイエル16番

友未 哲俊

🎹

 ドミレファミドレ

 ドミレファミレド


 うーん、難しい。とちゅうで手を止めて、美名みなちゃんは鍵盤けんばんをにらみつけました。

 この曲、いくらがんばっても、右手と左手が頭のなかでバラバラになってしまって、ちっとも合わさろうとしてくれません。これまでの曲だったら、右手が旋律せんりついているあいだ、左手はドソミソ、ドラファラ … ときれいに応援おうえんしてくれていたのに、この曲の左手ったら、右手の指が動いている時は長い音をさえたままでいるくせに、右手が長い音をさえたとたんに気を変えて、伴奏ばんそうする気なんてちっともないみたいに勝手かって鍵盤けんばんをたずねに行くのです。

 困っている美名ちゃんを見た先生が、きのう「この曲はね、むづかしいことばで<たいいほう>っていう書きかたがされているの。初めてだったから美名ちゃんの指もびっくりしてしまったわね」と笑っていたのですが、まるで右手といて、ちっとも助けてくれるつもりなんてないくらい、わがままな左手です。


 レミドソ ファミレ

 ドミレファ ミレド


 右手だけでいてみます。

がとてもきれいでわたしも大好きな曲なのよ」って先生は言っていたけど、<きしょうてんけつ>って何かしら?それに —— と、美名ちゃんは、生れてはじめてピアノを近くで見た時にふしぎに思った疑問ぎもんをまた思い出しました —— 黒い鍵盤けんばんがきちんとならばずに所どころけているのはなぜ?音楽って本当に変てこでむづかしい。

 けずにもう一度、両手でいてみましょう。今度は二小節しょうせつ成功せいこうだ、と喜んだしゅんかん、また左指が変な音をいてしまいました。

「あーぁ、」

 美名ちゃんはピアノの右かたに目をやります。

「おまえ、よくこんな下手へたくそな音を平気で聞いていられるわね」

 そこには、いつものように子ネコの小雪こゆきとすわって美名ちゃんのれんしゅうを見ていました。とくいな曲をいている時は小雪がいてくれてうれしいのに、今は放っておいてほしい気分です。

 半分ひらいた四月のまどから、あまいかおりの光たちがこぼれかかり、白鍵はっけん黒鍵こっけんや、小雪のっ白な毛なみをまばゆくかがやかせます。


「おばあちゃんが!」

 家中に叫び声がひびきわたりました。

「おばあちゃん!」

 風佳ふうか悲鳴ひめいです。

 おどろいてかけつけたお母さん。

 あおい顔をした風佳がベッドにりかかっていました。

「起きてくれないの!返事がないの!」

 かけ寄ったお母さんが、おばあちゃんの両肩りょうかたにそっと手を当てました。息はありますが、目をとじたまま答えてくれません。

「お母さん … 」

 美名みなおばあちゃんはとてもふしぎな表情ひょうじょうをうかべていました。眉間みけんにたてじわを寄せたしかめつらなのに、目もとと口もとはたのしげに笑っています。

 おばあちゃんの右手の指と左手の指が、ふとんの上で、ひとりでに、ゆっくりと、別々に動いて行きます。くちびるが小さく開いて、まるで何かを歌っているようです。

 四月の光をいっぱいにあびたタンスの上で、小雪こゆき写真しゃしんが、美名みなちゃんのく聞こえない名演奏めいえんそうを聞いていました。


 ドミレファミドレ

 ドミレファミレド

 レミドソファミレ

 ドミレファミレド


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              🌸



 

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