17 黄檗色の三日月

 プリンスが死んでしまって何年か経つ。エイズで死んだんじゃないかと囁かれているが、本当のところを俺は知らない。素晴らしい音楽は残ってゆく。それだけのことだ。

 プリンスの他にも何人か死んだ。プリンス以外で覚えているのはデヴィッド・ボウイくらいのものだ。忌野清志郎いまわのきよしろうが死んだのは、はるか昔のことだと思う。たぶんきっと。


「朝礼の途中で申し訳ないですが」俺はモニターに向かって切り出した。「そろそろ時間が迫っていまして。行ってきます」

 画面の向こうから――正確に言えばイヤフォンから、「行ってらっしゃい」と聞こえ、俺は頭を下げてみせてオンライン会議から退出した。

 オフィスを縮小させた会社から格安で買い取ったオフィスチェアから立ち上がり、誰もいない部屋を見渡した。物が増えた。ローテブルは部屋の隅に追いやられて起立し、代わりに木製のベビーサークルが設置された。細々とした物から大きな物まで、身動きが取れなくなるほどにいろんな物が増殖した。

 クリーム色をしたル・クルーゼのマグカップを、仕事用のデスクからシンクに運んで洗った。コーヒーや紅茶の黒ずみがこびりついて、どれだけスポンジで擦っても落ちない。

 スーツのパンツを穿き、ベルトを締め、ジャケットを羽織り、結婚指輪をつけ、はち切れんばかりに膨れ上がったビジネスバッグを掴んで自宅を出た。電車を乗り継いで新幹線に乗り込み、シートに腰をかけた。倒した背もたれに沈み込むようにもたれかかり、ゆっくりと目を閉じた。


 手応えというものがまるで感じられない一日だった。俺が話す言葉は上滑りし、妙な間と不自然な沈黙がたびたび訪れた。

 その日最後の商談を終えたのは十六時半過ぎで、あの街の隣街だった。あれから一度も街には立ち寄っていない。もしも連中に見つかったら、どんな目に合わされるかだいたい想像がつくからだ。

 不毛な一日を終えると、ふとあの街に寄りたいと思った。気づいたときには電車に揺られて街に向かっていた。街に近づくにつれて鼓動が速くなるのを感じ、背中を汗が伝った。できるだけ人に顔を見られないよう、伏し目がちに努めた。


 電車が街に着くと、足早に駅のプラットホームに降りた。一段飛ばしで階段を上り、素早く改札を出た。

 西口のペデストリアンデッキに立った。空撮するドローンのように、デッキの上から周囲を見渡した。ズボンを穿き忘れ、裸足で街から逃げ出したときから街並みが大きく変わっていた。空室のテナントが目立った。閉店したとおぼしき店は多かったが、見知らぬ新しい店はほとんどなかった。

 人々をすり抜け、ジョーとよく来た地下にあるバーに向かって歩いた。バーは建物ごとなくなっていた。更地になっていて、何度も降りたはずの地下への入り口は影も形も見当たらなかった。そこにバーがあったなんて、にわかには信じがたいくらいに跡形もなかった。嵐で様々なものがなぎ倒されてしまったかのように、街のそこかしこに爪痕のようなものが感じられた。


 行くあてもなく、重たいビジネスバッグを携え、革靴で街を歩いた。娼婦が客引きをしていた公園の前を通った。歩道橋のふもとにある小汚い店――いつの日か、母乳が似合いそうな女をジョーが指名した店だ――はシャッターで閉ざされていた。性別があやふやな立ちんぼが佇んでいた立体交差点のたもとを通り過ぎた。

 大きな川の堤防が近づいてきた。小高い河川敷の道路に上った。来た道を見下ろし、それから川を眺めた。あたりはもう少しで夕焼けがやってきそうな気配が溶けだしていた。

 土手を下り草原を突っ切ると、まだ子どもだった頃にジョーと一緒に訪れた、深緑しんりょくの小さな森を見つけた。森は変わらずにそこにあった。あの日と同じように青みがかっていて、静謐な空気に満ちていた。

 森は俺のことを包み隠してくれた。穏やかでリラックスした気持ちになれた。人々に忘れ去られたような小さな木の橋を渡り、森の奥へと進んだ。橋を渡るときに革靴が乾いた足音をたてた。

 用済みとなった役立たずの提案資料をビジネスバッグから取り出し、尻に敷いて座った。流れる川の水を眺めた。日が当たらない森の中からでも、徐々に日が落ちてゆくのがわかった。木々の隙間から感傷的な夕日が見えた。遠くの空に浮かぶ、まだら模様の雲が赤く照らされたが、空はいまだ青さを保っていた。不自然なほど青く、アーガマの青白い照明を思い出させた。いつだったか、この場所でジョーと一緒に眺めた夕焼けとは、まるで違って感じられた。

 青と赤のコントラストが、赤と闇のグラデーションに移り変わった。日が落ちたのだ。それでも尚、街は残照で僅かながらも紅に照り映えていたが、間もなく街に暗幕が降りた。


 三日月が空に浮かんでいた。ジョーとムーのことを思った。それから俺は立ち上がった。

「もう森には来られない」他人の声に聞こえた。「川に来ることもできない」

 声は森に染み込んですぐに消えてしまった。


 尻に敷いていた忌々しい提案資料を置き去りにするように、踵を返して一歩踏み出した。森に来たときと同じように、乾いた木の橋を渡った。草原を通り抜け、土手を上った。

 小高い堤防を通る道路の上で立ち止まった。あたりを見回してみた。万感の思いが走った。不思議と涙は出そうになかった。

 イヤフォンを耳に差し込み、ダイナソーJr.の『ユア・リビング・オール・オーバー・ミー』を再生した。『リトル・フューリー・シングス』がかかり、詰まったパイプが一気に流れ出したような、激しいフィードバック・ノイズの渦にのみこまれた。絶叫が聴こえてから、泣きたくなるくらい気の抜けたJ・マスシスの声に包まれた。

 黄檗色きはだいろの三日月に照らされて、俺は歩き出した。

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