16 エンジン吹かした、ズボンを穿き忘れたまま
ジョーが帰ってからアーガマの状況は一変した。降り始めの雨のように点々と客が来たかと思うと、あっという間に狭い店内は満席になった。
突然の転調に俺もムーも適応することができずに、なにもかもを諦め、ただ目の前のことをこなした。二十三時半を回った頃にようやく客がいなくなった。
俺とムーは無言で足を引きずるようにして店を片付けた。疲労感と徒労感に身体が支配されている。普段なら三十分ほどで片付くところだが、一時間半もかかった。
すべてを終えると、ムーはテーブル席の貧相な合皮のソファに身を投げた。ムーが寝転がるソファの前に椅子を並べて俺も寝転んだ。
「もう、うんざり」ムーは呟いた。
口を開くのも億劫だった。寝返りをうつように身体だけムーの方を向き、目を細めて精一杯の同意を示した。ムーは微動だにせずに天井を眺めている。俺の意思表示は届くはずもなかった。
密やかに手話で交感するように、俺たちは無言で身体の末端を絡め合った。時折、視線が交差した。もつれる身体の末梢部分は次第にその範囲を拡大させ、四肢が絡んだ。静かに
不吉な鈍い音が鳴り響き、眠り込んでいたことに気づいて跳ね起きた。あたりを見渡すと、薄暗くて客のいないアーガマだった。目の前のソファにはムーが横たわっている。呼吸にあわせて胸が上下に動いている。眠っているようだ。
乾いた音が再び鳴った。うらびれたアーガマのドアが開く音だった。意識は混濁していたが、心臓の鼓動がやけにうるさく感じた。
錆びた自転車の車輪のように軋んだ音をたて、ゆっくりとドアが開かれた。白い陽光が店内に差し込んだ。左手をかざし、目を細めた。異様に白い光彩の中に人が立っている。逆光で影しかわからない。白い光をまとった影は、おもむろに店内に入ると歩みを静止した。
ユゲ先輩だった。右手に大きなSバールが握られている。背筋に冷たいものが走った。頭のてっぺんから足の爪の先にかけて血の気が引き、重たい汗が滲むのを感じた。恐怖が足下から駆け上がり、心臓を捉えた。
凍りつくような静寂が訪れた。いつも低く唸っている業務用冷蔵庫のコンプレッサーすら、堅く沈黙を守っていた。暴力的な白い光と、店内を覆う闇のちょうど狭間で、ユゲ先輩は釘付けにされたように立っている。逆光でその表情を
ユゲ先輩が再び歩き出そうとした瞬間、俺は目の前のテーブルに放り出していた財布とキーケースを素早く掴み、カウンターの中に向かって全力で駆け出した。カウンターの中に入った直後、Sバールが力任せに飛んできて、壁面のバックバーに敷き詰めるようにして並べてある酒瓶に激突した。けたたましい破砕音が耳をつんざき、粉々になった瓶の欠片が四方八方に飛び散った。匂いだけで酔っぱらいそうなほどの強烈なアルコール臭が立ち込めた。構わずカウンター奥の勝手口を目指して走り抜けた。ムーが起き上がったのを視界の端が捉えた。
勝手口から外に出て、手早く原付バイクにまたがってエンジンを吹かし、勢いに任せて発進した。ユゲ先輩がアーガマから出てきて、俺のことを舐めるように見ている姿がサイドミラー越しに見えた。
破裂しそうな心臓の鼓動を感じながら、懸命に原付バイクを走らせた。どこに向かっているのかはわからない。風を切り、必死に走っているということだけはたしかだ。
もう一つ、たしかなことに気がついた。俺はズボンを穿いていなかった。スウェットシャツに、ボクサーパンツというなんとも情けない格好をしていることに気がついた。
国道を南に折れて、丘の上にある服屋に立ち寄ることにした。店の駐車場に突っ込み、勢い余って灰色の低いブロック塀に原付バイクのフロントカウルをぶつけ、やっとのことで停まることができた。
下半身はボクサーパンツ一枚という恰好で服屋に入った。幸いにも入店を拒否されるようなことはなかった。店員と客は怪訝そうな表情を一瞬だけ俺に投げつけたが、これといって思うことはないようだ。
適当なジーンズを選んで買い、そのまま穿いていくことを店員に告げた。店員は丁寧にタグを切り離してくれた。俺はジーンズを受け取り、レジのすぐ横で背中を丸めて足を通した。
服屋を出てから、裸足だということに気がついた。再び服屋に戻りソックスを買った。それから服屋の隣にある靴屋に入り、コンバース・オールスターのハイカットを買った。そのまま履いていくことを店員に告げると、店員は眉ひとつ動かさずにタグを切り取り、おまけに靴紐まで通してくれた。
ジーンズを身に着け、ソックスとスニーカーを履くとようやく人心地ついた。俺はフロントカウルが傷ついた原付バイクにまたがり、太陽に背を向け、どこまでも続く道路を走り出した。
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