15 タバコを一本くれないか?

 噴水の水が飛び上がった。やや間があって、音をたてて水面に落ちた。

 街から五十分ほど電車を乗り継ぎ、湾岸の大きな公園にやって来た。あたりは柔らかい風に満ちていた。街の風はなぜだかいつも硬質で肌に鋭く突き刺さる。風から潮気を感じた。不快ではなかった。新鮮で青々とした芝生を見つけた。

「この辺で食べようか?」少し先を歩くムーが振り返った。ムーはだいたいいつも俺の前を歩く。

 ムーはフレッド・ペリーの黒いハリントンジャケットを羽織り、ゆったりとしたブル―グレーのスウェットシャツに、まだ色が濃いアー・ペー・セーのタイトなブルージーンズをあわせていた。足元の白いジャック・パーセルが眩しい。

 街のスーパーマーケットで買ったビニールシートを広げて座った。脱いだ靴を四隅に置いて重しにした。

 ムーが作ってくれた弁当を広げた。弁当箱の中には唐揚げ、ゆで卵、フライドポテト、おにぎりが入っていた。噴水がある湾岸の公園にうってつけの弁当だった。


 霧雨のように薄く喋りながら、俺たちは静かに弁当を食べた。咀嚼音やアルミホイルからおにぎりを取り出す音が鳴った。弁当は美味しかった。平日だからか俺たちの他には誰も見当たらない。湿った風が頬を撫でていった。

「料理できるんだね」

 ムーは感慨のない声で言った。「あんまりイメージないでしょ? 料理ってほどのものでもないけど」


 弁当とビニールシートを片付けて、シートと一緒に街のスーパーマーケットで買ったフリスビーを俺たちは投げ合った。ムーが投げるはフリスビーは高確率で明後日の方向に飛んでいった。

 俺は広範囲を守る外野手のように、でたらめな軌道を描くフリスビーを必死で追いかけた。ほとんどうまくキャッチできなかったが、どうにかこうにか手のひらに収まることもあった。息が切れ、重たく汗ばんだ気配を感じて切り上げた。


 俺たちは手を繋いで海岸通りを歩いた。両脇には背の高い街路樹が続いている。道路の左側に寄り、日々薄くなりつつある木の葉の下を真っすぐに進んだ。柔らかな木漏れ日が俺たちを包み込み、穏やかな時間が流れた。


 公園で走り回った色濃い疲労を引きずり、アーガマを開店させた。今日はいつも以上に暇で、まったくと言っていいほどやることがなく、俺もムーも時間を持て余していた。

 十九時を回った頃にようやく最初の客がやって来た。ジョーだった。ジョーはひとしきり店内を眺めてから、やおらカウンターに近寄ってきた。

「暇そうだな」ジョーは舞い降りた蝶のようにステンレススチールのスツールに腰をかけた。

「だいたいいつも暇さ」

「この前はありがとう」ムーは髪をかきあげながら言った。

「なかなか楽しかったな」ジョーは微笑んだ。

 いつも通りジョーにハートランドの瓶とグラス、それから灰皿を差し出した。するとジョーは右手で灰皿を制した。

「タバコは辞めたんだ」

「どういう心境の変化だ?」

「身体に悪いし、金の無駄だということに気がついたのさ」

「無駄じゃないことがあるって言うのか?」俺は灰皿をひっこめた。「一般論として」

「どうだろうな」ジョーはビールを一息で飲み干した。「それでも喫煙が非生産的なことは疑いようもない。そのへんの、ただ生きてるだけの野良犬だってナンセンスだと言うさ」

「そうかもしれない」俺はセブンスターに火をつけて、ジョーの前から引き上げた灰皿を自分の前に置いた。


 その日、ジョーは珍しく寡黙だった。ビールを飲むペースはいつも通りだったが、肩を落として沈み込んでいるように見えた。ジョーは黙ってひたすらビールを飲んだ。そういう種類の装置のように。俺もまたそういう機械のように、瓶が空になれば無言で新しいビールを差し出した。ジョーの他に客は一人もやって来なかった。ムーは作業台に突っ伏すように眠ってしまった。


 一時間半が経過した頃に、ジョーは重たい口を開いた。

「彼女をつくろうと思う」

 それは出し抜けだった。俺は顎を手の甲でさすった。ユゲ先輩がムーのことを『俺の女』と言ったことが脳裏に浮かんだ。

「つくればいいと思う」

「俺だって、彼女くらいつくってもいいと思う」ジョーはグラスの水滴を指でなぞった。「そのくらいはいいはずさ」

「もちろんだ。三人くらい彼女をつくるのもいいかもしれない。何なら、子どもをつくったって構わないさ」俺は言った。

「子どもはごめんだな」ジョーは首を横に振った。

 俺もそう思った。「それでもきっと、あっという間に父親になっても違和感がない歳になる。あるいは俺たちが気づいていないだけで、すでにそういう時期に差しかかってるのかもしれない」

「何もかもが過ぎ去っていく」ジョーは居心地悪そうに腕を組んだ。「なあ、タバコを一本くれないか?」


 ジョーと会ったのはその日が最後になった。

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