エピローグ
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雪が降って間もない頃、男子トイレが荒らされる事件が起きた。俺はその荒らされる現場を目撃してしまった。荒らしていたのは、俺が高校で世話になっていた先輩だった。俺に一年のズボンを盗ませていた鹿野先輩だった。
「よお、佐野」
悪びれることもなく、鹿野先輩は俺に向かって手を挙げた。そして強引に俺の肩を組む。
「見違えたよ。お前が働くなんてな。しかも、何だよ、その恰好!」
タバコの脂で汚れた歯を見せて、鹿野先輩は大声で哄笑した。朝から酔っぱらっているのか、全身からアルコールの臭いがした。もちろん、マスクも他人との距離も気にしていない。金色に染めた髪はパサついていて、ピアスが耳の縁を飾り、服装もだらけている。まるでかつての俺を見ているようで、気分が悪い。
「なあ、そんな恰好、お前のタイプじゃねぇよな? 仕事なんかほっぽって、遊ぼうぜ」
確かに、こんなダサくて紫ババアみたいな服は着たくない。頭の三角巾も、すぐにでも取り去ってしまいたい。しかしこの作業着があるから、今は就業中として俺の意識が変わるようになった。仕事をする前には我慢できなかったことにも、我慢が効くようになった。
「鹿野先輩。俺は今、仕事中なんで」
肩に回された鹿野先輩の腕を払いのけるようにしてながら、俺はへらへらと笑いながら言った。毅然とした態度で言い返せないところが、先輩に弱い俺の欠点だ。
「はあ? 何お前がいい子ちゃんぶってんだよ?」
男子トイレの中で、俺は何とか鹿野先輩を落ち着かせようとした。しかし、酔っぱらっていて足もおぼつかない鹿野先輩は、俺の言うことに反して、しつこく付きまとう。
「じゃあ、これでいいだろ?」
鹿野先輩は、タバコ入れにしていた缶ジュースの中身を、トイレの床にばら撒いた。煙草の吸殻と、炭酸のジュースが床を汚した。その光景を見た瞬間、俺の中に走馬灯が灯った。仕事はお金だけではなく、社会の中の自分の位置づけを知るものだ。仕事をしていないと、自分の社会的価値が分からないから苛ついて、暴力的になる。かつての自分のように、他人の迷惑を顧みず、相手に認められている気になっていた。しかし、今の俺ならそれを稚拙で迷惑な行為だと言うことが出来る。俺の社会的価値は、清掃をして利用者にいい気持ちで仕事をしてもらうことで成り立っている。だから自信があり、社会にも居場所がある。自分で自分の居場所を確保しようともせずに、他人にその苛立ちをぶつけて満足するしかできないのは、それだけ子供だということだ。
「やめてください」
俺が毅然と言うと、鹿野先輩は大きく舌打ちをした。
「つれねぇな。掃除なんてやめちまえよ。もっと楽しいことがあんだろ?」
「鹿野先輩が楽しければ、それはそれで構いません。ただ、ここを汚すのはやめてもらえませんか? お願いします」
俺が鹿野先輩に頭を下げると、鹿野先輩は俺の頭を殴った。俺はよろけてそのまま床に尻餅をついた。そこに、時間がかかりすぎて不審に思った秋元が入って来てしまった。
「何だ、このババア? 何、佐野。お前まさか、このババアに洗脳されてんのか?」
俺は咄嗟に秋元を庇った。その様子を鹿野先輩は再び笑った。
「マジか、お前! まさかこのババアに惚れてんのか?」
「鹿野先輩、今日も平日ですが、仕事はどうしたんですか?」
秋元はあまりの状態に、言葉を失い、鹿野先輩と俺を見比べている。
「はあ? 仕事? してるわけねぇだろ、そんなもん」
鹿野先輩を見ていると、昔の俺を思い出す。以前なら苛ついていたところだが、今はそんな感情は起きなかった。ただただ、情けなくて、みっともなかった。俺も秋元に出会っていなければ、鹿野先輩のようになっていた。そう考えると、秋元は俺の恩人ということになる。秋元には借りが沢山ある。今日こそは、その借りを返さなければならない。
しかし、事態は暗転する。外で待っていた鹿野先輩の仲間とみられる男女が、しびれを切らして男子トイレに入って来たのだ。
「鹿野、遅い!」
「何やってんだよ、鹿野!」
鹿野先輩の仲間は、似たり寄ったりの格好をしている。原色に染めた髪に、清潔感のない服。耳にピアス。指にはごてごてとした指輪。噛みっぱなしで味の抜けたガム。
「何これ、汚な」
「そうなんだよ。ホント汚ねぇよな」
トイレの床の汚れを見て、鹿野先輩の仲間は嗤う。自分で汚した個所を、まるで他人がそうしたように振舞う。ここまで来ると、子供か大人かのレベルの話しではなく、人間としてどうなのかという話になる。
「で、鹿野の後輩ってどこよ?」
鹿野先輩は俺の方をちらりと見て、鼻を鳴らした。
「いや。俺の勘違いだった」
「マジで? あり得ないんだけど!」
「鹿野は馬鹿だからなー」
そう言いながら、鹿野先輩たちはトイレからやっと出て行ってくれた。しかし、鹿野先輩は俺に向かって「お前が仕事なんて、キモいだけだ」と吐き捨てて行った。それでも、俺はそれが負け惜しみにしか聞こえなかった。以前の俺なら、キレて、ケンカに発展していたところだが、今は憐れみしかない。
「手伝います」
秋元は女子トイレから水拭きモップを持ってきて、吸殻を拾い、モップをかけ始める。
「佐野君、偉かったですね」
「そうでもねぇよ」
俺も水拭きモップでジュースを吸い取ってはバケツに入れる。
「佐野君、これは足し算と引き算です」
「は?」
何故今算数が出てくるのか、俺にはさっぱり分からない。
「多くの仕事は、足し算しかありません。サービスや物を足しているんです。でも、この仕事は余計な足し算を引いて、新しい価値を足していくんです。これは他の仕事との大きな違いです」
余計な足し算が汚れたゴミならば、それを消す俺たちの仕事は、確かに引き算だった。そしてハンドソープを補充したりするのは、確かに足し算だ。
「私たちの仕事は、つまりはプラスマイナスゼロの仕事場なんです。足し算や引き算を繰り返して、常にゼロにリセットします。そして少しだけ自分を強くするんです」
「わけわかんねぇ」
俺はそう言いながら、本当は分かっていた。仕事をすることで、人間は少しだけ強くなれる。それは身に染みて分かっていた。
「私がいなくなっても、忘れないで下さい」
「え?」
「私は春から、別の場所に清掃に行くことになりました」
いきなりの告白に、一瞬言葉を失った。もう冬だ。冬なんかあっという間に過ぎてしまう。仕事をしていれば、時が経つのは一瞬だ。春にはもう、秋元はいない。そんな仕事場を、俺は想像できなかった。
「佐野君なら、大丈夫です。ありがとうございました」
「まだだろ」
まだ、俺は何も秋元にお礼も言えないし、何のお返しも出来ていない。
「はい?」
「春まで、よろしくだろ?」
秋元は一瞬、ポカンと口を開けたが、すぐに笑った。
「はい。よろしくお願いします」
俺は視界が曇るのは、久しぶりにタバコを見たせいだと言い聞かせながら、モップを動かした。止まっていると、秋元と過ごした今までのことが走馬灯のようによみがえり、仕事にならなさそうだったからだ。
今日も俺たちは少しでも足し算と引き算を巧くやって、ゼロにリセットし続けている。誰に文句を言われようと、何をされようと、差別と偏見の中で、必死に働いている。ここが俺たちの仕事場だからだ。
〈了〉
『リセット‐日常清掃員の非日常‐』 夷也荊 @imatakei
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