エピローグ

エピローグ

 新しい制服は、白を基調とした色合いだった。

 文香は鏡の前で、随分と短くなった黒い髪を櫛でかしていた。

 真っ赤なヘアピンを一つずつ、髪に留めていく。

 四本を留め終えて、文香は小さく頷いてから、洗面所を後にする。


「文香、もう行くの?」


 玄関でローファーを履いていると、そうやって呼び止められた。

 顔だけ振り向くと、そこには姉の和来わこが立っていた。

 透き通るような白い肌をしていた。セミロングの黒髪に、赤色のカチューシャがえている。

 文香は立ち上がると、和来に向けて微笑んだ。


「うん、行ってくる」

「気を付けてね! そうだ、文香、ちょっと待ってー」

「何?」


 和来の右手が、文香の頭に伸びる。

 優しい手付きで、和来は文香の頭をでる。


「いってらっしゃいのなでなでだよー」

「……お姉ちゃん、昔から人の頭撫でるの好きだよね」


 あきれたように笑う文香に、和来は「そうだっけ?」と首を傾げた。


 *


「あの、鶴木さん」


 教室の机で文庫本を読んでいた文香は、そうやって声を掛けられる。

 顔を上げると、二人の女子生徒が目の前に立っていた。

 長い髪をポニーテールにした快活そうな少女と、眼鏡を掛けた穏やかそうな少女だった。


「……どうかしましたか?」

「仲良くなりたいなーと思って話しかけたの! この時期に転校って珍しくない?」

「まあ、そうですね。転校生は学期の切れ目に多いはずですから」

「そうだよね、今二月だもんね」


 眼鏡の少女の言葉に、文香は微笑みと頷きを返す。

 そのとき、だった。

 誰かが転ぶような音が響いて、文香は驚いて音のした方向を見る。

 教室の後ろで、一人の女子生徒が床に倒れていた。そんな彼女の側に、三人ほどの女子生徒が立っている。楽しそうな笑い声が、教室に反響している。


「うわあ、またやってる」


 ポニーテールの少女が、呆れたように目を細めた。


「またやってる、とは?」

佐渡さわたりたちのグループ、いじめが好きなんだよね。あいつらには近付かない方がいいよ」

「ほんと、怖いよね……」


 二人の言葉を聞き終えるや否や、文香は椅子を引いて立ち上がった。

 そのまま、歩き出す。


「お前、気持ち悪いんだよ」

「生きてる価値あんの?」

「死ねよ!」


 悪意に満ちた言葉をさえぎるようにして、文香は彼女たちの近くで立ち止まった。


「見ていて不愉快なので、そういうのやめてくれますか?」


 教室の中の目が、一斉に文香に集中する。


「は? 何お前」


 髪の色が随分ずいぶんと明るい少女が、苛立ったように文香に近付いてきた。


「貴女が佐渡さんですか?」

「そうだけど。というか何、転校してきた分際ぶんざいでいきなりヒーロー気取り? 殺すよ?」


 少女――佐渡の言葉に、文香は口角を上げる。



「死ぬことの、何が怖いんですか?」



 ぞっとするような冷たい声音で、文香は返答する。

 たじろいだ様子を見せる佐渡に、文香はさらに近付いていく。

 てつくような視線を、投げ掛ける。


「……誰かを殺すということについて、何一つ本気で考えていない癖に、知ったような口をきかないでください」


 そう言ってから、文香は倒れている少女に近寄ると、すっと手を伸ばした。

 そっと、微笑んだ。


「大丈夫ですか?」


 少女は少し逡巡しゅんじゅんしてから、ゆっくりと文香の手を取った。


 *


 放課後、文香は少し遠くの町に訪れていた。

 一つの家の前で足を止めて、インターホンを鳴らす。

 少しの静寂の時間を、風の音を聴きながら過ごした。


 やがて、一人の少女が姿を現す。

 ベリーショートの黒い髪。柔らかそうなセーターと、丈の長いスカートに身を包んでいる。

 文香は微笑んで、口を開いた。


「初めまして、こんにちは」

「……こんにちは」


 不思議そうな顔をしている少女に、文香はまた言葉を紡ぐ。


「私は、鶴木文香といいます。嶋倉絢人くんの友人です」


 少女の目が、見開かれる。



「……貴女が、嶋倉瑠花さんですか?」



 文香の質問に、少女はそっと頷きを返した。


 *


 瑠花がれてくれた温かな紅茶を、文香は丁寧な手付きで口に運んだ。


「……驚きました。兄のご友人が、わざわざ来てくださるなんて」


 テーブルの向かい側に座っている瑠花は、そう言って微笑んだ。

 文香はことりとティーカップを置くと、頷いた。


「瑠花さんの話は、絢人くんから聞いていました。大変な病気だった、とも」


 文香の言葉に、瑠花は寂しげに頷いた。


「そうです。余命宣告もされていましたし、死ぬのだろうと半ば諦めていました。……だから、不思議なんです。お医者さんも、奇跡のようだと仰っていました。私自身も、どうして私が今生きているのか、よくわからないんです」


 どこか困ったような表情を浮かべて語る瑠花に、文香はそっと笑った。


「絢人くんが、そう願ったからかもしれませんね」


 その言葉に、瑠花は目を見張る。

 それから、その瞳いっぱいに涙を浮かべた。

 手でその液体をぬぐいながら、瑠花は口角を歪める。


「すみません、何だか私、嬉しいのに悲しくて、……悲しいのに嬉しくて」

「わかりますよ」

「お兄ちゃんはいつだって、誰かを救おうとする人だったんです。私はそんな兄のことが、誇りで……」


 嗚咽おえつを漏らす瑠花に、文香は切なげに微笑んだ。


「そうですね。よく、わかります。……私も、絢人くんに救われたから」


 *


 そこには、夕暮れの海が広がっている。

 青色と橙色が溶け合うような美しい情景が、どこまでも続いている。

 文香はそんな世界の砂浜に立ち尽くしていた。


 隣には、絢人の姿があった。

 だから文香は、これが夢の中なのだということを、ゆっくりと理解する。


「……君は願いの力を使って、瑠花のことを救ってくれたんだね」


 彼の黒い髪は、海風によってさらさらと揺られていた。


「ありがとう」


 絢人の感謝の言葉に、文香は口角を歪める。


「……私が瑠花さんを救ったのは、貴方のためだと思っていますか? だとしたら、間違っていますよ」

「どういうこと?」


 尋ね返した絢人のことを、文香は見なかった。

 ただ、海だけを見ていた。


「嫉妬したんです。どこか遠くの世界で、死んでしまった貴方と瑠花さんが二人で幸せに過ごすことを、嫌だと思ったんですよ。だから私は、瑠花さんを救ったんです」


 波の打ち寄せる音が、微かに響いている。


「私は冷たい人間だから、そういう救済しかできないんです。嫌な奴でしょう?」


 その言葉に、絢人は驚いたような顔をしてから、微笑んだ。


「ありがとう」


 文香は、目を見張る。

 震えた声で、尋ねた。


「どうして、感謝するんですか?」

「どんな理由であれ、君が瑠花を救おうと思ってくれたのは、本当に嬉しいことだから」


 ようやく、二人の視線が絡んだ。

 文香は今にも泣き出しそうに、微笑った。


「……そうでした。貴方はいつだって、愚かなまでに優しい人でした」



 ――だから、好きだった。

 ――私とは正反対だったから、好きだった。



「嘘です。少しだけ……ほんの少しだけは、貴方のためでした」



 潮の香りも、波の音も、浮かぶ橙も、全て嘘なのかもしれなかった。

 でもどうか、この言葉だけでいいから、本当の彼に届いてほしいと切望した。


 文香の瞳から、涙が流れる。

 彼の手が伸びて、拭ってくれた。

 その温かさを、いつまでも覚えていたかった。


(完)

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自分勝手で最低で、それでいて美しい救済 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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