最期-2

 影谷零は、一人の人間を見つめていた。

 人々の悲鳴が響いていた。都会らしいビル群に囲まれた歩道で、三十代ほどに見える男性が、息を荒くしている。彼の手には包丁が握られていた。


「……皆、おれのことを、馬鹿にしやがって……」


 男性はぶつぶつと言葉を呟きながら、包丁と目を合わせている。


「……見てろ、これがおれの、復讐だ……」


 彼はそう言いながら、転んでしまった幼い少女に近付こうとする。

 零はすっと歩き出した。

 二人の間に割って入ると、 男性のことを鋭い視線でにらみ付ける。


「何だあ、お前……」


 男性は充血した瞳で、零のことをじろりと見た。

 零が口を開く。


「お前は今、この子のことを殺そうとしているのか?」

「ああ、そうだよ……こいつのことを、殺そうとしているんだよ……」

「この子が尊い人間であるかもしれないのに、か?」


 零の質問に、男性はぱちぱちと瞬きをしてから、可笑おかしそうに笑い出した。


「うぇへへっ……そうだよ……むしろその『尊い人間』とやらだったら、嬉しいよ……」

「何故だ?」

「このくそみたいな世界を、傷付けて死ねるからだよ……」


 零は苛立いらだった様子で、男性を見据える。

 思い出したように振り返って、少女に向けて言葉を発した。


「おい、逃げろ」

「え……?」


 不思議そうに零を見つめる少女に、「いいからさっさと逃げろ」と声を掛ける。

 少女はゆっくりと立ち上がって、覚束おぼつかない足取りで走り出す。

 零は再び、男性の方を向いた。


「俺は、お前のような愚かな人間が憎いよ」

「愚か……?」


 繰り返した男性を、零は嘲笑あざわらうように見つめた。


「ああ、そうだ。お前は愚かな人間だ。お前のような奴がいると、迷惑なんだよ!」


 呪詛じゅそを吐くように告げた零に、男性は表情を歪めながら足を踏み出した。


「黙れっ……黙れよお!」


 零は逃げようとしなかった。

 腹部に包丁が刺さり、真っ赤な血が衣服に染み出すことも気に留めず、嗤った。


「……お前みたいな奴等が、可能な限り苦しんで死ねばいい」


 そう言い残して、零はそっとくずおれる。


 ――愚かな人間が、滅んでほしい。


 *


 嶋倉絢人は、川沿いの道を歩いていた。

 強い雨が降っていて、彼のさしている傘の上には丸々とした雫が幾つも付いていた。空いている左手をコートのポケットに突っ込みながら、道を進んでいる。


 橋を渡っていると、誰かの叫び声が聞こえた。

 絢人は目を見張って、辺りを見渡した。周囲にそれらしき人は見当たらなかった。叫び声はまた聞こえて、絢人は思い出したように橋の下を覗き込む。

 見えた光景に、絢人は息を呑んだ。


 ――増水した川で、幼い少年が溺れていた。


 少年は苦しそうにもがいている。このまま放っておけば、深い水の中に沈んでしまうだろう。そしてその瞬間は、そう遠くないうちに訪れそうだった。


「助け、呼ばなきゃ」


 呟きながら、絢人はスマートフォンを取り出す。でも、そうしている間にも、少年の動きが少しずつ鈍くなっているのがわかる。絢人は首を横に振ると、橋から身を乗り出した。


 水面は遠かった。

 それでも彼は、落ちることを選んだ。

 水に打ち付けた身体が痛かった。濁流にまれながら、絢人は必死に少年へと近付いていく。


「大丈夫だから……!」


 少年は絢人に気付いたようだった。小さな手を、絢人に向けて伸ばす。


「たすけて」

「うん、助ける」


 絢人は微笑んだ。水が気管に入ってせる。そのまま、少年の手をつかんだ。

 少年を抱きしめながら、岸の方まで歩いていく。ようやく辿り着きそうだったその瞬間、一際強い流れが絢人の身体を押した。絢人の足に強い痛みが走る。


 絢人は少年から手を離した。

 少年は小さな瞳で、流されていく絢人の姿を見つめていた。


「早く、岸へ」


 絢人の言葉に、少年は頷いて、のろのろと岸に上がった。

 川の中に段々と呑まれながら、絢人は今にも泣き出しそうに微笑った。

 今なら願いが届くかもしれないとふと思って、そっと祈った。


 ――瑠花の病気が、治りますように。


 *


 鶴木文香は、屋上のへりで風に揺られていた。

 十階建てのマンションから眺める地上は、遠かった。そのことが文香を安堵あんどさせた。ここから飛び降りれば、確実に命は失われる――文香の口角が、ほのかな笑みの形に歪んだ。


 黒い瞳に、夕焼けの赤さが微かに反射している。

 荒れた唇が、開かれる。


「私が、死にますように」


 広がる世界は、狂気的なまでの赤色だった。


「皆も、死にますように」


 彼女の声音は、震えていた。

 足を踏み出すのが少しだけ怖かった。そんな人間のような感情を抱いた自分を、文香は微かに嘲笑った。


「……さようなら、世界」


 自らに対する餞のような言葉を、文香は口にした。

 そうして、空中に身を投げ出した。


 ――この世界が、滅びますように。


 *


 気付けば文香とロゼは、また夜空のような場所にいた。


「どうだった?」


 ロゼに問われて、文香はぼそぼそと話し始める。


「私以外の皆は、命を奪われたんですね」

「そうだね」

「私だけが自分の選択によって、自ら命を壊した」

「うん」


「……一つ、聞き忘れていました。私は今後、死んだままなんですか? それとも、再びあの世界を生きることになるんですか?」

「生きることになるよ。願いを叶えた世界を見届けてほしいから」


 ロゼの言葉に、文香は悲しそうに俯いた。


「生きたかった皆を差し置いて、生きたくなかった私だけが生き返るんですね」

「そうだよ」

「最低ですね、私」

「そうかもしれないね」

「否定しなさいよ」

「そう言われても」


 困ったように笑うロゼに、文香は淡く微笑んだ。


「でも、満足です。……絢人くんはやっぱり、偉大な人でした。彼は元いた世界でも、誰かを救おうとしていたんです。それを知れただけで、見た価値はあったというものです」


 広がる景色のきらめきを見つめながら、文香は呟くように言った。

 そんな彼女の姿を、ロゼは見ていた。


「……それじゃ、鶴木文香。そろそろ、お別れの時間だ」


 文香は、ロゼと目を合わせる。


「聞かせて。きみの願いは、何?」


 そう問われ、文香は少しだけ視線を落としてから、再びロゼを見つめた。


 ゆっくりと、口を開く。



「――私の願いは、」

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