最期-1
瀬川宏太郎は、地下室の入り口で
弟の静樹を見ていた。
制服の胸の辺りが赤黒い血で染まった弟の静樹を、見ていた。
「……嘘だ、静樹、」
震えた声が漏れた。
ようやく、宏太郎の足が動いた。ゆっくりと静樹に歩み寄って、そっと屈む。静樹の手に触れると、既に冷たくなっていた。その温度に、心臓を
「誰が、こんなこと」
その問いに応えるかのように、地下室の扉が開いた。
宏太郎はばっと振り返る。
そこには包丁を持った両親が立っている。
「……父さん、母さん」
鈍い動作で立ち上がりながら、宏太郎は口角を歪めた。
「二人が、やったの?」
両親は無表情で、虚ろな目をして、こくりと頷いた。
「何で」
宏太郎は俯きながら、糾弾するように尋ねた。
「シラトワさまに見放されたんだ」
「シラトワさまに見放されたの」
「シラトワさまの声が聞こえないんだ」
「シラトワさまの声が聞こえないの」
「シラトワさまの姿が見えないんだ」
「シラトワさまの姿が見えないの」
「シラトワさまがいないんだ」
「シラトワさまがいないの」
両親の言葉を、宏太郎は否定しようとする。
でも、そうすることができなかった。
あれだけ見えていたシラトワさまの幻影が、何故かここ最近見えなくなっていたから。
解放されたように感じていた。
喜んでいた。
嬉しかった。
でもその思いは、宏太郎だけだったのかもしれなかった。
「死ななくてはならないんだ」
「死ななくてはならないの」
両親が少しずつ、宏太郎に近付いてくる。
ようやく宏太郎は、自分が殺されそうになっているのだと認識した。
でもどうしてか逃げる気になれなかった。
二本の包丁の
――ああ、そうか。
思い至った結論に、宏太郎は悲しそうに微笑んだ。
――もう静樹が、死んでしまったからか。
二本の包丁がゆっくりと、宏太郎の身体へと沈んでいく。
真っ赤な血が、とろとろと溢れ出す。
宏太郎は、目を閉じる。
――静樹と、父さんと、母さんと、オレで……幸せになりたかった。
*
弓山蘭は、曇り空の下を走っていた。
マフラーに顔を埋めて、肌を刺すような冷たい空気を感じながら、ただひたすらに駆ける。
彼女の右手にはスマートフォンが握られていた。時折画面が明るくなり、新たなメッセージが表示される。
〈もう疲れた〉
〈死ねば楽になる気がする〉
〈俺は生きてちゃいけない存在なんだ〉
〈間違って生まれてきたんだ〉
〈間違いなんだ〉
〈間違いだ〉
〈間違いだ〉
〈間違いだ〉
〈死にたい〉
〈死ねば楽になると思う〉
〈救われると思う〉
〈ねえ、蘭〉
〈死んでいい?〉
赤信号の交差点で立ち止まって、蘭はぜえぜえと呼吸を繰り返す。今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、恋人である雅雪からのメッセージを開き、必死に文字を打った。
〈駄目です〉
〈死なないで〉
〈今家に向かってるから〉
〈大丈夫だから〉
〈あたしは先輩の味方だから〉
間違いなんかじゃないから、という言葉を打つ。
それを送信しようとして、大きな音に気付いてふっと顔を上げた。
目の前にトラックがある。
蘭は目を見開いた。
もう、どうすることもできなかった。
身体が
彼女の手から離れたスマートフォンは、
途方もないほどに痛くて、でもその痛みも不思議と薄れていって、蘭の目から一筋の涙が滑り落ちた。
――雅雪先輩に、あたしだけを愛してほしかった。
*
糸野千里は真っ黒の衣服に身を包んで、包丁を持ちながら、窓から零れる月明かりに照らされていた。
彼女は、忍び込んだ家の中にいた。目の前で少年がベッドの上で眠っている。歳の頃は小学校高学年くらいだろうか。名前も境遇も知らない彼のことを、千里は冷めた目付きで見つめていた。
ゆっくりと、少年に近付いた。
祈るように、包丁を持った。
――ようやく、終わるんだ。
気付けば千里は、微笑んでいた。
――全てが終わる。わたしの人生も、抱え切れなかった衝動も、全てが。
とても寂しげで、それでいて優しげな表情だった。
きい、と音がする。
そこには一人の男性が立っている。
彼は驚いたように、あんぐりと口を開けていた。
「……誰だ」
千里は面倒くさそうに笑って、男性へと近付いてゆく。
「誰でもいいでしょ? わたしは、わたしだよ」
男性は千里の持っている包丁に気付く。
千里は床を
彼の心臓にそれを突き刺そうとしたところで、千里の頭に強い衝撃が走る。
気付けば視界が傾いていた。
頭が強い熱を持っているように感じられた。
ゆっくりと右手を持っていくと、べたりと生温かい液体の感触があった。
地面に転がったまま視線だけを上に動かすと、男性の手に花瓶のようなものが握られているのがわかった。
――ああ、結局、殺されて終わりか。
千里の意識が、段々と霞んでいく。
――まあでも、別にいいか。わたしが一番殺したかった人は、もうこの世にいないのだから。
うっすらと、笑う。
――もう一度だけでいいから、陽毬と話したかったな。
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