小さな掌の与太話
松たけ子
三月某日より
第一篇『昼──空がどんな模様になっても、時間だけは変わらない』
遥か遠く離れた場所から訪れてきた雨粒たちが街の至る所で音を奏でている。
乱雲という指揮者によってリズム良く落ちてくる彼らの楽しげな音楽を聴きながらお気に入りの本を読んでいると、お腹が空腹を訴えて鳴き出した。
読書に夢中になっていたから、すっかり時間が過ぎるのを忘れてしまっていた。そろそろお昼になっていてもおかしくはない。
雨の日は時間の感覚が分からなくなる。地上から見上げる空は雲に覆われていて、朝と昼の境目が曖昧だ。
それでも私の優秀な体内時計はきちんと昼の訪れを教えてくれる。
私はそんなお腹にご褒美をあげるべく、傘を持ってコンビニへ向かった。
さて、今日のお昼ごはんは何を食べようか。
第二篇『月──言葉では伝えられないから、君を見つけるんだ』
星だけの夜でも、月はそこにある。
ただ姿が見えないだけで、消えてしまったわけじゃない。
だから僕は今日も夜空を見上げて月を眺めるフリをする。
僕が見つめる先に、地球の影に隠された月があると信じて。
それはまるで報われない恋とひたむきな信仰心を混ぜ合わせたかのような行為で、他人から見たら無意味に思われるんだろうなと自嘲する。
でもいいんだ。僕にとっては無意味じゃないから。
月だって星の一つなのに、自分だけ地球の影に隠されて誰にも見つけてもらえないのは寂しいはずだ。
少なくとも、僕なら寂しくなって蹲ってしまうだろう。
だけど月は何度姿を隠されても輝いてくれる。
夜空に昇り、僕を見つめてくれる。誰にも見つけてもらえない僕を月だけは見つけてくれる。
だから、たった一日だけ隠されて、夜空から消えてしまったとしても、僕も月を見つけようと思った。月が寂しくならないように。
これはそう、僕なりのお礼なんだ。
第三篇『花──あなたのために咲かせた花で、私を見送って』
あなたの花になりたかった。
初めて会った時から、私はあなたの花になりたかったの。
朝、目覚めて一番最初に会える存在にしてくれてありがとう。
辛い時に慰められる存在にしてくれてありがとう。
楽しかったことを話せる存在にしてくれてありがとう。
あなたの人生という庭に私を咲かせてくれて、本当にありがとう。
あなたは優しい人だった。私の体をいつも気遣ってくれたわ。
大変だったでしょうに、それでも毎日お世話をしてくれた。
水を与えてくれた。光を与えてくれた。何よりも愛情を込めて育ててくれた。
私は花を咲かせることでしかあなたを喜ばせてあげられなかったけれど、本当に嬉しかったのよ。
わたしが人間だったら、ありったけの言葉でお礼を伝えて、抱きしめてあげられたのに。悲しそうな顔をしているあなたに「大丈夫よ」と笑ってあげられたのに。
こうして枯れていく今、それをしてあげられないことだけが、私の唯一の心残りです。
第四篇『夢──夢とは美しい檻に囚われることなのかもしれない』
クジラになる夢を見た。
海底を彩る鮮やかな珊瑚の花園、美しい尾鰭を揺らして踊るように泳ぐ熱帯魚たち。水面から微かに差し込む光。マリンブルーの水中。
ここはまるで海に沈んだ楽園、魚たちだけが棲むことを許された安息の地だ。
そこで私はクジラになっていた。
大きなクジラだった。楽しそうに寄り集まっている熱帯魚たちや珊瑚の上を泳ぐと、そこら一帯を不気味な黒い影で覆いつくすほどの。
熱帯魚たちは私の姿を見て散らばっていくが、すぐにまた集まって踊りだす。
ゆらゆら、ゆらゆら。
まるで可憐な踊り子のように。時には貴婦人のワルツのように。
彼女たちが踊るたびに極彩色の鱗が水中に差し込む僅かな光を浴びて瞬くように煌めく。
ここは間違いなく美しい海の楽園だ。誰もがこの場所で永遠に過ごしていたいと思うほどの。
だけど、どうしてだろう。こんなに美しいのにとても狭い檻のように感じてしまうのは。
第五篇『朝──いつかこの夜が明けて、朝を抱きしめられますように』
もしも、この世界から朝が消えたら。
未来に対して漠然とした不安を抱かなくて済むのだろうか。
明るい世界の中で孤独を感じて息苦しくなることもなくなるのだろうか。
生きるという行為から逃げるような理由ばかりが浮かんでは消えるのは私が弱いからだろう。
きっと普通の人は美しい夜明を前に今日という日に希望を抱くはずだから。
夜明け前が一番暗い——本来は外国の諺らしいが、本当の夜明けはもっと明るくて蒼い。まるでパンドラの箱から出てきた希望が世界を覆い尽くそうとしているかのようだ。
昼間に見るような青空とは違う、訪れる朝を歓び、去りゆく夜を名残惜しむような空に私は泣きたくなるような寂しさを感じた。
きっと夜だけがわたしを置いて遠くの空へ行ってしまったからだ。
夜だけは朝から離れることができるから。
私もいつか、朝を置いてどこか遠くへ逃げることができるだろうか。
それとも、朝に歓びを感じる日が訪れるのだろうか。
今の私には分からない。今はただ、朝が寂しくて仕方がないから。
ただ願わくば、多くの人にとってこの朝が寂しいものになりませんように。
第六篇『夏──よく言うだろ? 事実は小説よりも奇なりってね』
むかしむかし、とある国の夏の話だ。
その国は夏になると死者があの世から戻ってくるので、帰る家を間違えないように玄関先にランタンを吊るす風習があったという。
ランタンの形は家庭によって様々で同じものは一つとしてなかった。花の形をした物もあれば、動物の形を象った物もあり、そのランタンを見ればどの家の物なのかが分かるようになっていた。
今じゃ夏の夜中はずっとランタンに火を灯すようだが、当時は死者があの世から戻ってくる日の夜から翌日の明け方までしかランタンに火を点けていなかったそうだ。
ある年の夏から風習が変わったのさ。何故かって?
流行病だよ。罹患すれば最後、絶対に助からないと言われるほどの恐ろしい死病が国を襲ったのさ。だからどの家もランタンを灯すどころの話じゃなかった。
そこで、当時の国王が兵たちに命じて各家のランタンに火を灯しに行かせたんだ。
するとどういうことかねえ。流行病がピタリと治まったというじゃないか。
国民たちは戻ってきた死者たちが助けてくれたんじゃないかと考え、その恩義を忘れないように夏の間は死者が戻ってこない日でもランタンを灯すようになったらしい。
嘘か本当か、まあ所詮はただの言い伝えさ。
第七篇『春──文字通り、身を粉にして咲かせたそうだよ』
その国の春はまるでこの世の楽園のように美しかった。
色とりどりの花が咲き乱れ、美しい蝶たちがその周りで遊ぶように飛び回り、温かな陽射しの下では人々が活気に満ちた表情で歩いていた。
多くの国を旅してきたが、あれほど美しい春は見たことがない。きっと、これから先もないだろう。
特に「サクラ」という花は見事だった。
小さなピンク色の花が群れになって咲いているんだ。花の中でも長寿の種類らしく、私が見たサクラは植えられてから五百年は経っていると言っていた。
私が「立派な花ですね。育てるのはさぞかし大変だったでしょう」と言うと、その花の世話を任されているという男性は首を横に振ったんだ。
「いいえ、育てているのは私ではありません。彼女ですよ」
「彼女? 他に世話をされている方がいるのですか?」
「はい、あちらに」
そう言って彼は何処を指さしたと思う?
私が見ていたサクラの木の下さ。
第八篇『星──ねえ、寂しくなくてもあなたに逢いたいよ』
星の子に出逢った。
どうやら地上があまりにも眩しかったので星空と間違えてしまったらしい。
「だってこんなに眩しいんだもの」
そう言って星の子はビルの窓から溢れる蛍光灯やネオンで輝く街を眺めながら溜息を零した。
「ねえ、もう私たちの光は必要ないの?」
星の子は悲しそうに聞いてくる。
遥か昔の人は星を頼りに生きていた。星もまた、人と共に輝いてきた。
だから人が星からの光を手放した時、彼らはとても寂しかっただろう。もう誰にも必要とされないのに、輝き続けなければいけなかったのだから。
「そうだね。でも、私にはあなたの光が必要だよ。だって寂しいから」
「……そっか。じゃあ、寂しくなったら空を見て、私の星を探してね。私の光を分けてあげる」
「うん、きっと見つけるよ」
私が笑ってそう返すと、星の子も嬉しそうに笑って夜空に帰っていった。
ただ眩しいだけの人工の光に背を向け、私は独り、遥か遠くの空を見上げながら暗い夜道を歩き出した。
第九篇『恋──運命が悪戯をするんじゃない、するのは神様なんだ』
ティーカップ一杯分の友情。
小匙一杯分の羨望。
大匙二杯分の恋慕。
シロップポット一杯分の祈り。
これが私の恋。神様に用意された運命。
神様は何を思って私にこんなものを用意したのだろう。何かの間違いだとしか思えない。
それでも私の目は姿を追いかけ、私の耳は声を拾い集め、私の心は苦い想いで満たされている。
叶うことのない恋を捨てることができずにいる。
出会わなければ良かったと恨めたらどんなに楽だったか。
それなのに、出会えたことで得られた幸福が私の心に尽きることなく注がれるから、溢さないようにするのに精一杯で。その幸福が愛を生み出す糧となるから、恨む余裕を与えてくれなくて。
もっと悪い人だったら。
もっと優しくない人だったら。
私のことを好きにならない人だったら。
そんなたらればを考えては無意味だと消し去って、また恨む理由を探しているうちに恋に落ちる理由ばかりが見つかって寂しくなる。
恋でなくてもいいから、せめて同じだけ好きになってくれたらいいのに。
そんな希望を運命というティーカップに一滴ずつ垂らしながら、私は今日も恋をするのだ。
第十篇『夜──逃げる理由を夜に求めた』
ただ逃げたかった。
真夜中の高速道路を目的地も決めずに走ろうと思ったのは、そんな小さな理由だった。
別に何かあったわけじゃない。今日という平凡な一日に満足も不満もない。
ただ、散り積もった〝何か〟がそうさせたとしか言えない。
しがらみ、責任、社会……そういう生きていく上で煩わしいものを全部、誰もいない真っ暗な夜道に捨てたくなった。ただそれだけのこと。
あと数時間もすれば朝になろうかという時間に走っている車は運送トラックぐらいなもので、私は心の赴くままに車を走らせた。
どれぐらいそうして走っていただろう。
やがて海岸沿いに出ると真っ暗な海が見えてきた。地平線の向こうから微かに群青色が覗いている。
もうすぐ夜が明けるのだ。そうすればこの逃避行も夢のように終わってしまう。それが悔しくて、私はアクセルを強く踏み込んだ。
途中のサービスエリアでビールの代わりに炭酸の缶ジュースを買い、煽るように飲みながら波一つない海を眺める。
さっきまでの悔しさと苛立ちは車を停めた瞬間にとてつもない虚無感へと変わっていた。
私は何がしたかったんだろう。本当は何から逃げたかったんだろう。
そんなことばかりが頭の中でグルグルと巡っている。
——ああ、いっそこの答えが見つかるまで夜が明けなければいいのに。
膝を抱えて蹲る私を嘲笑うように朝日が昇り始めた。
第十一篇『空──この蒼空に魂を植え、花を咲かせましょう』
この空のどこに天国があるのだろう。
もしもあるとしたら、それはどんな場所なんだろう。
晴れ渡った晩冬の蒼空を見上げながらふと、そんなことを思った。
人は死んだら天国とやらに行くらしいが、果たしてそれはこの頭上に広がる場所のことなのか。それとも、もっと向こう側に存在しているのだろうか。
雲一つない晴天はどこまでも続いていて、遥か彼方に別の世界があるような気さえしてくる。
かつての人間が見果てぬ空の向こうに魂の拠り所を求めたのは、見えない場所への憧れもあったのだろうか。
この空の遥か先に、ここよりももっと幸せになれる場所があると夢を見て、せめて魂だけでもそこへ辿り着きたいと願って。
私もいつかそこへ行けるだろうか。
もしも行けたなら、私はまた花を咲かせよう。
ああ、どうか。こんな名も知れぬ路肩で咲く小さな花でも、空が迎えに来てくれますように。
第十二篇『秋──今でも思い出せないんだ、あの村の場所が』
秋になると私は冬に備えて帰路につくようにしているのだが、その道中で立ち寄ったとある村の話をしよう。
その村には秋の終わりから冬の間にかけて山の頂で祭りを行うという風習があってな。
神から授かったと言い伝えられている『聖なる火』を囲んで歌い、踊り、酒を呑み交わすんだ。元は神を讃えるための儀式だったそうだが、やがて盛大な祭りへと変化したらしい。小さな村だったが、通りすがりの旅人である私のことも快く受け入れて、祭りに参加させてくれたよ。
村人たちは全員、華やかな民族衣装に身を包み、陽気な音楽に合わせて聞いたことのない言語で歌いながらクルクルと楽しそうに踊っていた。
私が「あれはなんという言語ですか?」と聞くと、村長らしき人が一瞬だけ驚いた後、顔を真っ青にして私を村人たちの輪から離してこう言ったんだ。
「いいか、今から一度も振り返らずに山を下りて村から出ていくんだ。決して振り返ってはいけない。そして、次の秋を無事に迎えたかったら今日聞いた歌を忘れなさい。さもなければ……」
話を聞いた私は慌てて荷物を纏めて下山し、村を後にしたよ。言いつけ通り、一度も振り返らずにね。
村長に何を言われたかって? ……それは……おや、なんだったかな?
第十三篇『冬──終わりじゃない、ここから始まるんだ』
冬は旅をしないことにしている。
一年間に巡った場所を思い返すためにね。
さながら、根雪の下で春を待つ草花のように、じっくりと雪が溶けるのを待つんだ。
今年も様々な場所へ足を運んだよ。
美しい花の国や変わった習わしのある国、場所が思い出せない村……ああ、不思議な人にも出会ったね。
東の国には「一期一会」という言葉があって、それは一度きりの出会いを大切にしなさいという意味らしいが……旅とはまさしくその一言に尽きる行いだ。
旅だけではない。今こうして過ごしている季節もまた、一期一会だ。同じ冬は二度と訪れない
私はね、冬が一等好きなんだ。舞い落ちる雪やそれに彩られる景色。暖かな暖炉、燃える薪の音、澄んだ星空……私はそれらがもつ瞬きの時間を共に過ごしていたい。だから旅をしないと決めていたのだが……それもそろそろ終いにする時が来たかな。
今度は冬にしか出会えないものたちを探すために旅に出ようと思う。
かつて巡った場所、これから巡る場所が迎える冬を愛しに行くよ。
そうと決まれば、旅支度をしなければね。
小さな掌の与太話 松たけ子 @ma_tsu_takeko
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