第4話 幼くて急く

 ツサ国を離れた天磐船は海産物や翡翠の勾玉などを仕入れながら日本海を西に向かっていた。海流の流れが逆なので速度は上がらず、立ち寄る浦も多くなった。


 スサノオは各地で初めて見る産物、文化風習など、全てのものに喜んだ。それ以上に、操船技術を学べるのが嬉しかった。マウラについて舵取りを学び潮目を読むことを学び、ツクリについて空の色と雲の形を読んで風を読むことを学んだ。代わりに、彼らに自分が知っているわずかな文字を教えた。


 マツラ国を出た後は、船は順風満帆、……とはいえイルカが波を切って船を追い越して行く。


 イキ国から対馬に渡る天磐船に揺られ、スサノオは船縁に寄りかかって雲と波を見ていた。そうしていると風の精霊と海の精霊が語りかけてきて大きな夢を見せてくれる。


「スサノオ、何をぼーっとしている?」


 ツクリが訊いた。


「ぼーっとはしていない。精霊と話しをしていた」


「ほう。精霊は何と言った」


「間もなく大波が来る」


「まさか……、しかし、そうなら早く教えないか!」


 ツクリが顔色を変えた。


「海が荒れても、天磐船は大丈夫だと精霊が言った」


「そ、そうなのか?」


 ツクリが空を見上げて雲を探す。空は青く風は穏やかで嵐が来るような気配はなかった。


「あれを、舵を切って」


 スサノオは水平線を指した。海が一直線に泡立っている。波の先端が崩れているからだ。


「津波だ! 右へ舵を取れ!」


 ツクリが後方のマウラに向かって叫んだ。


 マウラは舵を切りながら「かいを取られるなよ!」と水夫たちに向かって叫んだ。


 天磐船が右に進路を変えると後に続く他の船も舵を右へ切った。


 船が進路を変えた直後だった。目の前に水の壁が立ちはだかった。帆柱ほどの高さの垂直の壁だ。


「船につかまれ!」


 そう言ったツクリがスサノオを守るように覆いかぶさった。


 スサノオは波に背を向けるような恰好で船縁にしがみ付く。とても怖かったが死ぬことはないと思っていた。


 船の舳先へさきが波に突き刺さる。


 ドドーン……、衝撃が船を揺らした。身をかがめて櫂にしがみつく水夫たちの頭の上に波が襲いかかる。


 スサノオはドキドキしていた。それが津波の恐怖なのか、背中に触れるツクリの乳房の柔らかさからくるものなのかわからない。ドキドキしながら、海に潜ったように水に沈み、視界がなくなる経験をした。


 上下に揺れた船が大きく舳先をあげる。一時は波に飲み込まれかけた船が波に乗ったのだ。切っ先は波を潜り抜け、船の前半分が宙に浮いていた。脆い船ならば、半分に折れてしまうに違いなかった。


 スサノオが息を止めて耐えていると、突然、体が浮いた。波を越えた船が落下しているのだ。


 息をついた時、「アゥッ」と耳元でツクリの声がした。青い空にツクリの影が浮いて見えた。スサノオ同様、彼女も飛んでいた。


「ツクリ!」


 叫ぶのと右手でツクリの腕を取るのが一緒だった。


 再びドドーンと船に衝撃が走る。船体が前傾して着水していた。


 スサノオの身体の上にツクリの身体がドサッと落ちた。


「万歳!」


 水夫たちが一斉に叫んだ。後続の船からも歓喜の声が上がった。


「スサノオのおかげで助かったぞ。横波をくらっていたら、ひとたまりもなかった」


 スサノオが照れるほど、ハバラを始め水夫たちが喜んだ。声には出さなかったが、舳先にいたトリイが一番喜んでいた。


 船団が対馬の巌原浦いづはらうらに入ると、後ろを走っていた船頭たちがスサノオの元に集まり、同じように礼を言った。


「このワラシは守り神だ」そう言う者まで現れた。


「海の神はエビスだろう」


 スサノオは姉の名誉のために反論した。


「おうよ。エビスが海の神なら、スサノオは我ら船乗りの神よ」


「そういうことか」


「そういうことだ」


 海の男たちは火を盛大に焚き、酒を回し飲んだ。


 村の女たちがやってきて、三々五々小屋の中へ消えていく。


「スサノオもどうだ。まだ若いが一人前の船乗りだ」


 ハバラが若い女を連れてきて言った。


 スサノオは女の顔を見た後、「俺はいい」と断った。


「女は嫌いか?」


「俺は、まだ子供だ」


 スサノオが応じるとハバラは笑い、その女を連れて焚火を離れていった。


 笑われたスサノオは面白くない。ハバラと女が暗闇に消えるのを、じっとにらんでいた。


「子供と大人の間に、境目など無いのだぞ」


 教えながら、ツクリがスサノオの椀に酒を注いだ。


 天磐船を中心にした船団は、巌原浦いづはらうらを出ると夕方には豊玉浦に着いた。翌朝、海の女神に航海の安全を祈願して儀式を行うと、その日のうちに出港し夕方には鰐浦わにうらに入った。


 砂浜に村の女たちが集まるのも、酒盛りが始まるのもいつもの通り。


 スサノオは船を降りるとツクリの肩をトンとたたいた。前にそこを訪れた時、ツクリの胸ほどまでしかなかった背丈が、鼻ほどまでになっていた。


「ツクリ、あの池に行こう。身体を洗いたい」


 ツクリは、真っ黒に日焼けしたスサノオに視線を向けると眩しそうに眼を細めた。


「いいだろう」


 彼女がうなずき、先を歩き始めた。


「懐かしいなぁ」


 小川沿いに森の奥まで続く小道は、スサノオをウキウキさせていた。前に来たのは昼前の空気が澄んだ時刻だったが、今は空も紫色に変わっていて空気もどこかねっとりしている。


「ここだ、ここだ」


 池が見えるとスサノオは走り、池の端に腰の剣を投げると頭から飛び込んだ。航海を続ける間に、泳ぎも覚えていた。下腹部には毛も生えた。


「ツクリ、遅いぞ!」


 水面に頭を出したスサノオが手を上げると、「急くな!」と言ってツクリが後を追った。


 ツクリが水に潜ると、背後からスサノオが迫り背中に乗った。ツクリは身体をひねって振り落とし、スサノオをにらんだ。


 スサノオは水中で舌を出してツクリを笑った。子供っぽい変顔に、ツクリは思わず笑って水を飲んだ。


「スサノオ、何をする!」


 慌てて水面から頭を出すツクリ。周囲にスサノオの姿はない。


「アゥ……」


 ツクリの右足首をスサノオが握り、水中に引きずり込もうとする。


「このワラシ、河童か!」


 ツクリは自ら水中に潜り、スサノオと格闘した。


 スサノオとツクリの水遊びは陽が沈むまで続いた。


「スサノオ。泳ぎがうまくなったなぁ」


 岸に上がったツクリの息が上がっていた。


「ツクリのおかげだ」


「わしの?」


 2人は裸になって衣類を枝に干すと草の上に横たわる。見上げた空は群青色に変わっていて、星々が瞬いている。


「前に来た時、投げ込まれた。あの時は、溺れ死ぬかと思った」


「なんだ。そんな昔のことを恨んでいたのか?」


「恨んでなどいないぞ。あれくらいのこと」


 スサノオの目に、とりわけ青く輝く星が飛び込んだ。凶星だ、と思った。


 運命を変えなければならない。……ツクヨミの声が脳裏を過った。


 どうやって?


 道は、己で開け。……それで声がやんだ。スサノオは身体を起こしてツクリの乳房に手を置いた。


「な、何をする……」


 ツクリが慌てた。しかし、逃げることはなかった。


「ツクリは昔のままだ。乳が小さい」


「な、何を言う。ワラシが……」


 笑ったはずの頬が引きつっていた。


「俺は変わらなければならない。ツクリ、俺を大人にしてくれ」


 身体をヅクリに摺り寄せる。身体の芯が彼女を欲していた。


「浦では女を断っただろう。何を今更……」


「今、気づいた。俺は急いている」


「何故だ?」


「早く大人になって、父さんの力にならなければならない、……そんな声がする」


「精霊か?」


「精霊……。そうかもしれないし、ツクヨミの姉かもしれない」


 スサノオは真剣だった。これから大陸に渡るが、時間がたっぷりあるわけではない。だから必要なことはできるだけ早く経験し、自分は大人になるべきなのだ。


「そうか。……マウラには話すなよ。ハバラにも、他の船乗りたちにもだ」


 ツクリの両手がスサノオの顔を挟んだ。


「わかった」


「トリイにもだ。ナギやナミにも……」


「うん」


 空に揺らめく天の川の中を、沢山の天狗が走った。

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スサノオ立志伝 ――少年期4・急く―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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