第3話 オロチ

 住む家が出来上がると、ナギと使用人たちは炭の材料になる樹木の伐り出しを始めた。多くの村人も仕事を手伝った。彼らにとってナギは、知識と富をもたらす神にも近い存在だった。


「こうして汗を流すのは、楽しいな」


 父親がそう言うのを、エビスとツクヨミは木陰で見ていた。


 ナギがツサ国に住み着き半月もすると、炭の原料に切り出された樹木はうず高く積まれ、木々を運ぶ道は整備されて山の景色も変わった。


「舟だ。あれは何だ?」


 木を切り見通しの良くなった山の中腹から、キラキラ光る湾がよく見通せる。その鏡のような水面を、8艘の舟が連なって入ってくる。


「オロチ王の一党です」


 村の者たちが顔色を変えた。その声には戸惑いと恐怖の色がある。


「オウ国の王なのですが、食い物は奪うわ、女たちは奪うわ。……アシヅチ王も手を焼いておるのです。おっと、女房や子供たちが心配だ。ナギ殿も隠れてくだされ」


 村の者たちは、仕事を途中で止めて坂を走り下った。


「お前たちはここに隠れていなさい。しばらく大きな音は出すな」


 ナギは娘たと使用人にたちに命じ、ナミが留守番をしている家に向かった。


 家に着くと、ナミと使用人の女3人は冬に備えて保存食を作っていた。


「あなた。どうかしたのですか?」


「悪党が来たらしい。隠れたほうがいい」


「まあ!」


 驚いたナミが、真っ先に使用人食料を持たせて山にやった。


 ナギとナミが家を出た時、野太い声がした。それはもう目と鼻の先だ。


「ここに渡来人がおるだろう!」


 家々の前の広場に顔を見せたのは40人ほどの男たちで、弓や槍、銅剣といった武器を手にしていた。


 先頭を歩くオロチの身体は、全身が蛇の入れ墨で覆われている。胴をぐるぐる回った身体から、手足に向かって各二つずつ、合計八つの頭が伸びていた。腕や脚を巡る頭は手足の前側と後ろ側に一つずつ、不気味な口を開けて牙をむいている。


「お前が渡来人だな」


 ナギの衣装を目にした彼が瞳を光らせた。


「なにか、珍しいものはないか?」


 オロチが手の甲に向かって口を開けた蛇を誇示するように、ナギの目の前に右手の拳を突き付ける。


「孫子、孔子、荘子など書物ならいくつかございますが」


 ナギは地面に膝をついて応じた。


「馬鹿にしておるのか。ワシは文字など解さん。漢の銭があるだろう。それを出せ」


 倭国ではまだ銭は流通していない。どうやらオウ国も大陸の国々と貿易を行っているらしい。すべてハバラにやってしまったことを後悔した。


「すべて、船賃に差し出したもので、銭は1枚もございません」


「銭がないだと!」


 怒りをあらわにしたオロチは6軒の家を覗いて回り、最後には唾を吐いた。


「まったく、使えない道具ばかりだな」


 製鉄に使うふいごなどの道具は高価だが、鉄を打たない男には無価値な道具だった。


 諦めてくれるか。……ナギの胸を期待が過る。


「仕方がない……」


 ナミを見るオロチの眼が光った。ナミの容姿容貌は、倭国の女に比べて手足が長く、切れ長の眼には知性が宿っている。


「この女をよこせ」


 オロチが、ナギの後ろに隠れるように膝をついていたナミの手を取った。


「これは大陸の匂いだな」


 彼がナミのうなじに頬を寄せてにやにやと卑猥な笑みを浮かべた。


「お止め下さい」


 ナギが止めようとしても多勢に無勢。オロチの部下の拳が頬を打ち、ナギは転んだ。槍の柄で叩かれ、蹴飛ばされて地面に這いつくばる。


「殺すな」


 オロチが命じると、部下が手を止めた。


「イヤー」


 ナミの悲鳴がする。


 ナギが頭をもたげると、ナミがオロチに引きずられて坂を下りるところだった。


「助けて、あなたー」


 ナミが叫んだ。


 妻を返してくれ!……言ったつもりだが、オロチの部下に傷められたナギの身体から、声は出なかった。


「無茶を言うな。鍛冶屋が俺たちに刃向えるはずないだろう」


 助けを求めるナミに向かってオロチが笑う。彼は足を止めてナギを見据えた。


「男、鉄をうち、毎年10本の鉄剣を納めろ!」


 一方的に言うと、オロチは抵抗するナミを半ば担ぐようにして船に向かった。


 ナギは痛む足を引きずって坂道を下った。しばしば転び、泥と枯葉と血と涙にまみれてオロチを追った。


「ナミー!」


 ほどなく声が出た。その時、ナミの姿は林の陰だ。「あなたー」ただ、悲痛な声だけがした。


 呼び合う2人の声を聞いても、村の者たちは姿を見せなかった。下手に手を貸せば自分の命が危ないに違いない。ひっそりと家にかくれ、神にも似た渡来人の哀れな姿に同情し、手を合わせて祈っていた。


 ナギが浜辺に着いたとき、ナミを乗せた船は沖に出ていた。遥か東のオウの国へさらわれてしまったのだ。


 ザザザーという波の寄せる音が、ナギにはナミが助けを求める声に聞こえた。


 ナミを連れ去られたことを知ったエビスとツクヨミは毎日、泣いた。ナギも失意に暮れたが、仕事を放り出すわけにはいかなかった。2人の娘を育てなければならないし、使用人たちも食べさせなければならない。何よりも、オロチへの貢物を用意しなければ、今度は娘たちが奪われるかもしれない。


 ナギは黙々と働いた。そんな姿に、娘たちは冷たい視線を向けた。使用人や村人は違った。彼らはナギに同情し、以前以上に仕事に精を出した。


 仕事に精魂傾けると時の流れは早く、すぐに冬がやってきた。ツサ国の冬はイザ村より暖かかったが雪は多い。鉛色の空と海は、ナギの家族の心も灰色に変えた。


 ナギは、昼間は仕事で怒りも悲しみも忘れたが、夜はそうではなかった。娘たちが寝た後に、ひとりかまどから立ち上る炎を見つめ、無力な己に対する怒りと、連れ去られたナミへの思慕で身も心も炎に焼かれるような痛みを覚えた。


 一度心に火がついてしまうと、どんなに疲れていても眠ることができない。


「スサノオ、どこにいる」


 降り積もる雪の音を聞きながら、妻の代わりに、今はそこにいないスサノオを呼んだ。そうすることで妻を思う心を、スサノオを思う親心の中に埋めて自分をごまかした。


 夜を超えても海と空が鉛のようなのは、耐えるナギの心に似ていた。

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