応えの代わりに梔子を

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

 随分と長い間、眠っていたような気がする。


 動きがぎこちないまぶたをゆっくり開くと、頭上から降り注ぐ柔らかな日差しが目に入った。深く茂り重なった葉を透かして届く光は、影を含みながらも澄んだ色を宿している。


 頭を預けた木の幹の感触。体の下には柔らかく茂った下草。微かに鼻に届くのは、名もなき野草が咲かせる花の香りか。



 ──初夏、か。



 一等好きな季節の気配に、緩く口元に笑みが浮く。


 そんな表情の変化に、かたわらにあった誰かが小さく息を呑んだ音が聞こえた。


 その声に、さらに口元の笑みが深くなるのが分かる。


「……おはよう、晶蘭しょうらん


 姿が見えるよりも前に、呼びかける声がこぼれていた。それが正しかったのかと確認するために視線を流せば、同じ木陰の中に誰よりも見慣れた姿がある。


 艶やかに流れる夜色の髪。きっちり高い位置で結い上げられた髪型にも、暑い季節であっても緩むことのない着付けにも、片膝を地面についてこちらの様子を伺っている姿にさえ、几帳面さがいかんなくにじんでいた。


 動きやすい武官平服も、腰に下げられた剣もいつもと変わらないのに、いつだって厳しさしかなかった顔には今、ふとしたら泣き出しそうな、それでいて呆気に取られたような、見たことない表情が浮かんでいる。


 ふと、その姿がぼやけて、一瞬の後、頬を温かい何かが伝った。


 多分、まだ寝ぼけているせいなのだろう。いつだって隣にあって、四六時中顔を合わせている癖に、何だか久しぶりに晶蘭の顔を見たような気がした。


 何だかそれが、ひどく嬉しくて、……同じだけ、切ない。


「もしかして、俺、寝坊した? ……ん、違うか、居眠り……? 起こしに、てか……探しに来てくれたんだろ、蘭蘭」


 ゆっくりとまばたきながら言葉を紡ぐと、一瞬だけクシャリと晶蘭の顔が歪んだような気がした。だけどそれは本当に一瞬で、一度瞬きをするだけで常の厳しい顔に戻った相棒は、いつものように生真面目に声を上げる。


「おはようございます、殿下」


 その言葉に、風が追従するかのように揺れる。


 爽やかな、善き風だ。その風に晶蘭の髪と、水晶の欠片が連ねられた髪紐が優雅に揺らめく。木陰も、纏った衣もザワザワと揺れ動く中、晶蘭の黒曜石のような瞳だけが、揺らぐことがない。


 そんな些細なことに、なぜかまたまなじりからポロリと雫がこぼれる。


 ──嗚呼、なんだか……


 夢、みたいだ。


 いまだに眠りの裾を引きずるような夢見心地のまま、紅殷こういんはひたすら晶蘭を見つめていた。

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応えの代わりに梔子を 安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売! @Iyo_Anzaki

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