第8話

 庭仕事以外に何もしなかった日、食卓で祖父が養命酒を飲んでいた。特に体が悪いわけではないが健康のために時々飲んでいるのを見たことがある。酒というより薬だろうと思い、今まで興味がなかった。ふとボトルに書かれたアルコール度数が目に入った。十四度。かなり強い。最近酒を買う金も減ってきたため、今晩はこれをいただこうと決めた。


 深夜、こっそりと納戸に忍びこみ、養命酒を見つけ、コップ一杯注いだ。本来は付属の小さなキャップにほんの少し注いで飲むのが適正な量である。一口か二口程度だ。薬といっても気休め程度ではあるだろうし飲み過ぎても問題はないだろうと決めつけ、副作用などは気にしないことにした。


 部屋に戻って匂いをかぐと薬草のようなドクターペッパーのような複雑な香りがした。おそるおそる一口含むと甘ったるさとアルコールの強さにびっくりしたが嫌いではない味だった。肉体疲労、冷え症、病後の体力回復などに効果があると書かれていた。今の僕に効いてくれるだろうか。


 そもそも今の僕は病気なのだろうか。休職直前に適応障害と診断され薬を出されたものの、休職中にどうでもよくなり通院も勝手にやめて薬も途中で飲まなくなった。その後、退職して一人暮らしのアパートも引き払って実家に戻ってきたため病気はうやむやなままになっている。


 仕事をしていた頃は不眠気味になったり、出社しようとすると体が――特に胸のあたりが――重くなったりしていたが、そのような症状は仕事を辞めてから収まっている。僕は医者ではないのでわからないがもう治ってしまったのではないだろうか。今すぐにでも働ける気もするし、やはり働き始めると再び発症する気もする。


 ともあれ今の自分は健康だと思っている。しかし、確実に自分の中の何かが欠けてしまったという感覚もある。もう二度と、一生、元の自分に戻ることはないのだという確信があった。僕は社会に潰されたのだろうか。いや、勝手に潰れただけというのが正しいのだろう。


 この欠落を抱えた人間と、欠落を想像もできない側の人間との間には見えない壁、いや膜がある。それは存在しないもののように無視されるが、絶対に破ることのできない断絶をもたらす。こちらの声はあちらに聞こえないし、あちらにあるものの正しい姿はこちらからはっきりと見ることはできない。何もかもが違う。


「ここに膜があるのです」とあちらの人に伝えるか伝えないかは僕しだいで、伝えないまま生きていくこともできるのだろう。沈黙を選んだ場合、表に出せなかった苦く重たい言葉達を一人で抱えなければならなくなる。あちらの人達が発する正しく美しい言葉は、こちらにたどり着くまでに情報が抜け落ちてしまい、僕の耳に届くころにはよくわからない言葉の羅列なっている。あちらから見て自然な笑顔になるように僕らはいびつな笑みを浮かべる必要がある。それでもできるだけ自然に振舞えるように演技し続けることになるのだ。


 ともあれ養命酒を飲むだけで僕の心まで健康になってしまったら、それはそれで虚しいものだと思う。そんなことで解決してしまうほど単純な生き物なのだとしたら馬鹿らしいものだ。


 あくる朝、深い海の底から急速に浮かび上がるようにして目が覚めた。呼吸が荒く心臓が痛いほど早鐘を打っていた。時計は五時十分をさしていた。

 数分かけ呼吸を落ち着かせた。酷い起床にも関わらず妙に体は元気だった。養命酒が効いたのだろうか。いつもより確実に深い眠りだった。深く長い眠りの中でみた夢はまだ自分の中に鮮明に残っていた。


 一つ目の夢には、中学の頃に所属していた部活の顧問が出てきた。彼の担当する授業は体育だったが、夢の中では和室にいた。

和室であぐらをかいて僕と彼は向き合っている。それぞれ書類を手に取って内容をチェックしていたように思う。


 書類に何が書かれていたのかは覚えていない。手に持っている一枚について確認が終われば、それを放りすてて次の書類を手に取る。それは手当たりしだいといった感じで、その場に落ちている紙を適当に拾って、チェックして、捨てるという流れ作業だった。確実に同じ紙を何度も見直していたに違いない。ともかく、その作業を延々と続けていた。


 最初は手の届く範囲に数枚の紙が散乱している程度だったが、夢が進むにつれて紙がどんどん増えていき、畳の部屋一面に広がっていった。一体どこからその紙が来ているのかはわからないが、無限に増殖していた。僕はその増殖に気づいた時点から気が気ではなくなり、「このままでは紙に埋もれてしまう」という恐れに支配された。

 その恐怖を自覚した途端、部屋の障子をなぎ倒しながら大量の紙が部屋になだれこんできた。そんな状況にも関わらず顧問は何事もないようにチェックの作業を続けていた。二人は紙に埋もれてしまった。僕は息ができなくなり、「死んでしまう」と考えた瞬間に目が覚めた。


 その時点ではまだ夜中だった。喉が渇いていたが、冷蔵庫まで飲み物を取りにいく気にはなれず、枕元のコップに残っていた養命酒で喉をうるおし、また眠りについた。


 二つ目の夢には、小学生時代の友人が出てきた。

 光の白すぎる夏。茶色の地面。学校の運動場よりも更に広く、どこまでも続く土。その土の上を自転車に乗って進んでいた。数人の友達も一緒に横並びになって進んでいた。最初は会話しながらゆったりと進んでいたのだが、少しずつスピードが速くなっていく。「速くなっている」と気づいたらもうおしまいで、途端に足に力が入らなくなる。いくらこいでも前に進まなくなる。しだいに友達との距離が離されていく。僕だけが置いていかれて、追い付くことはできない。


 そのうち友達は見えなくなってしまった。一人になったと自覚した途端にまた足に力が入るようになり、普通に自転車をこげるようになる。そのまま進んでいると景色が変わった。

 さきほどまで進んでいた土の地面ではなく、アスファルトで舗装された道路の上にいた。四車線ほどある国道のような広い道だった。前後左右を見渡しても車や歩行者はおらず僕一人が自転車をこいでいる。草も木も標識もなく、ただ道があるだけだった。なぜここを走っているのかわからないが、止まることができなかった。ひたすら前に進むしか選択肢がないのだと思い込んでいた。もう友もおらず何も楽しくない一人遊びだった。


 道は少しずつ細くなっていった。最終的には車一台がぎりぎり通れるくらいの細い道となった。

 意識の隙間に挿入されたかのように唐突に川が現れた。前方百メートルほど先に、細い川が道と直角に交わるようにして横たわっていた。川には小さな橋がかかっている。橋の欄干は赤く錆びている。その錆び具合に見覚えがあった。この橋は僕の家の近くにある橋だ。


 橋に向かって自転車を進めている僕は突然、影につつまれた。上空を飛行機が通りすぎていった。飛行機はやけに地面に近く巨大に見えた。「あれだけ地面すれすれに飛ぶと墜落してしまうのではないか?」という考えが頭によぎった。その思考がきっかけとなり、飛行機はバランスを崩し、走高跳の選手が背面跳びをするかのような角度であっけなく墜落した。

 墜落の爆発に巻きこまれながら夢から抜け出した結果、呼吸と心拍数が荒れ狂った起床となったわけだった。


 夢がどんどん昔の内容に遡っている。逃避したいという気持ちのあらわれだろうか。いくら昔の要素を含んだ夢を見せられたところで、こうも悪夢ばかりだと気が滅入る。夢の中は唯一幸せを感じられる安寧の場所だったはずがどうしてこうなってしまったのだろうか。

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