第2話

 夕方、部屋のドアをノックする音で目が覚めた。考え事をしたまま眠ってしまっていたらしい。


「龍太、ただいま」と母がドアから顔を出した。

「おかえりなさい」と僕は言った。

「何か、いい仕事あった?」

「いやぁ、ない」

 母は「そう」とだけ言ってドアの前から去っていった。


 両親は共働きで、父は自動車メーカー勤務、母は介護職だった。二人とも定年間際でもういい年だが、平日は毎日働いている。自分があの年齢まで働き続けることなど想像もできなかった。僕も仕事をしていたころにためた貯金なら少しあるが、現状は両親に養われている状況のため、彼らが疲弊して帰宅する姿を見るのは辛いものがあった。


 夕食は一家全員がダイニングに集まる。父もいつの間にか帰宅していた。

「いい仕事見つかったか?」とどこかで聞いたような台詞を父が口にした。毎日家族の誰かしらからこの問いを投げかけられる。

「んん、まだ」と僕は言った

「なんでもいいから働け。なんならうちで働くか?」


 父は人事部でもないので、僕を紹介する権限など持っていないと思われるが、時々こういうことを言うのだった。僕は「いや、いい。自分で探す」と適当にあしらった。

 母は表情を変えず魚をつついていた。祖父は聞こえていないようだった。祖母は僕の顔を見て笑い、何も言わなかった。


 その後は、食べ終わるまで誰も何も話すことはなく、それぞれの咀嚼音と食器の音が静かに鳴っていた。

 我が家では基本的に食事中に会話をしない。

 マナーとして正しいのかもしれないが、僕はこの沈黙が嫌いだった。

 僕の仕事について会話が盛り上がるのは避けたかったが、それ以外の話題で勝手に盛り上がってくれれば、少しは気が楽になるだろうなといつも想像する。たまに会話をしても全員が本心を言わず、他人行儀でうすら寒い人達だった。もちろん僕もこの食卓において何か本心で喋った記憶はあまりない。


 家族が寝静まる時間、僕はほぼ毎日酒を飲んでいる。多くない貯金を切り崩して買うものといったら酒か煙草くらいのものだった。贅沢はできない。できるだけ強くて安い酒を買う。


 ブラックニッカの小瓶を開けて、そのままラッパ飲みで口に含んだ。安いわりに悪くはないが、薄味で、あまり好きではない。酔えればよかった。舌で味わうことなく、喉と食道と胃が焼けるのをただ感じた。

 何も楽しくはなく自傷行為に似たものだと理解しているが、やめることはできなかった。

 

 酒の肴は、SNS上に流れてくる有象無象の書きこみだった。自分にとって意味のない情報をひたすら頭に注ぎこめば、少しの間だけ楽になれた。酔うのが下手で、いつもは少し気分が悪くなるくらいの効果しかないが、たまにほんの一瞬だけ楽しい気分になることもあった。その時は何の理由もなく誰かれかまわず愛を伝えたくなるほどであった。人類愛にでも目覚めたかのような状態になる。しかしそれは長続きせず、すぐに消え去り、自分すら愛せない僕が取り残される。


 たちの悪い酔っぱらいだった。なんの解決にもならない。一日のうちで楽しいと感じるのは上手く酔えた時のほんのわずかな時間だけで、あとの時間はすべて、曇天の荒野で突っ立っているような気分で過ごす。大型百貨店の中で迷子になった子供のような不安感に満たされている。


 頭がじわじわとしめつけられて、脳の血管が痺れ始める。

 視界が狭くなる。

 何を考えているのか自分で把握できない。

 そのあたりでいつも意識を手放し、どうやって動いたのか覚えていないが、きちんとベッドに入り布団をかぶって眠るのだった。電気はつけっぱなしで、毎回翌朝になってから、居候の身分で無駄な電気代を使ってしまい申し訳ないという気持ちになるのであった。


 翌日、目を覚ますと珍しく気が楽になっていた。夢の影響だった。夢の中では、まだ働き始める前の、失敗する前の人生を送っていた。起きて夢を思い出すということは、夢を夢だと認識してしまうということだった。その時点で夢は消える。夢の続きを見るため、僕は再び目を閉じた。


 二度寝から目を覚ますと十時だった。両親は仕事のため既に家にはいなかった。

 カーテンを閉めているのに部屋が明るすぎるなと思って天井を見ると、やはり電気がつけっぱなしになっていた。ベッドサイドテーブルにはウィスキーの小瓶があり、一口分だけ中身が残っていた。ゆっくりとそれを飲み干して完全に目を覚ました。気分が悪かった。


 ここ最近、睡眠時間が増えてきている。眠れないよりはましだが、これはこれで問題であった。なぜか常に眠いのだ。寝ると現実逃避できることを体が覚えてしまったのかもしれない。数日前に「ずっと寝ててどうするんだ。それはだめだろ」と父に言われた。

 それはわかっている。

 しかし眠い。働いてもいないし、何もしていないのに常にひどく疲れていて、寄せては返す波のように眠気が僕の意識を奪っていくのだった。寝ている間だけは疲労を忘れることができるし、夢の中だけが幸せを感じられる場所だった。


 顔を洗いながら二度寝した時に見た夢を思い出す。ぼやけているが、辞めた会社の上司がいた。何をやったかは覚えていないが、出てきたという事実だけで不快だった。忘れることにした。二度寝は失敗だった。


 ハローワークへ行くから昼食はいらない、と祖母に伝えて家を出た。

 自転車に乗って田んぼの間を抜けていく。タンポポが咲いている。暑くも寒くもない春の日だった。本当はハローワークではなく図書館へ向かっているのだという嘘が、この良き春の日を汚していた。


 最寄りの図書館は、家から自転車で十五分ほどの場所にある。山の上にあり、たどり着くまでにかなり急な坂道を登っていく必要がある。


 立ちこぎで坂道をじりじりと登る。涼しい日であるにもかかわらず、ひたいに汗がにじみ始めた。


 一匹のスズメバチが僕と並走するように飛んでいた。不自然なほどのオレンジ色だった。羽音が大きく聞こえた。少し怖いが、自転車をこぐのに必死でそれどころではなかった。少し気を緩めると途中で止まってしまいバランスを崩し倒れこみそうだった。一度倒れると、再度自転車に乗ってこぎ始めようとは思えないだろうなという予感があった。一息で頂上まで登り切りたかった。


 坂の頂上に着くころには汗だくになっていた。息を整えながら街を見下ろすとどこまでも田んぼが広がっていた。もちろん、田んぼだけではなく、ある程度かたまりになった一軒家があったりアスファルトの道もあるが、やはり目につくのは田んぼだった。右手側の向こうには山々が連なり、左手側の向こうはぼやけて見えないけれども海があるはずだった。

 風景以外に何もない街だった。


 平日のため図書館に人はまばらだった。客層は定年をすぎた男性が多いように思う。この図書館はよく利用しているので、だいたいいつもいる人の顔を覚えてしまった。

 大きな机を占領して新聞を広げる男性、スーツに中折れ帽を被り哲学書を読みふける男性、漫画のような絵を描き続ける女性、同じ椅子に座って眠りつづけるホームレス……。

 僕もこの面子の一員として、「ニートのお兄さん」とでも覚えられているのだろうか。家の近所を昼日中からふらつくのは恥ずかしくてできないが、この図書館には顔見知りがいないので心地よかった。


 プログラミングに関する本を手に取りかけて止め、館内の棚をすべて回った後に、小説と哲学と心理学の本を一冊ずつ持って椅子に座った。

 小説は最初の数ページと最後の一ページだけ読んだ。哲学の本はもくじを読み、気になった章だけを読んだ。心理学の本は飛ばし読みをしながらもだいたい最初から最後まで読んだ。


 外に出ると日が暮れ始めていた。今日も何もしなかった。学ぶべきことを学ばなかった。何も進まなかった。

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