黒い穴、青い朝

川野笹舟

第1話

 もうすぐ昼になる。四月の日差しが背中に集まっている。光は徐々に重みを増していく。

 土と草の臭いが滞留した庭にしゃがみこんでいると、自分も一匹の獣になったような気がしてくる。どちらかといえば虫に近いのかもしれない。


 僕は目の前にある雑草をつかんだ。なるべく根本に近い所をつかんで、ゆらしながらゆっくりと引き抜く。

 うまく根本まで抜けた。

 田舎特有の無駄に広い庭は、祖父により、ある程度手入れはされているものの、雑草がいたるところに生えている。すべて抜くことはあきらめざるをえない。


 抜いた雑草の山に蟻が侵入していくのを見送り、また目の前の草を抜いた。

 今度は根が強いものにあたったようで、地面に出ている青い葉だけが引きちぎれ、根は残ってしまった。そういう場合はスコップで掘り返すべきだが無視した。雑草はしつこい。こんな半分死んだような状態でも、またそのうち葉が生えてくるのだろう。半年後か、一年後か。その頃、まだ僕はこの実家に居座っているのだろうかと考え、手が止まった。


 ほんの数瞬だけ、風が強く吹いた。

 顔を上げると白地に紫の模様を持つパンジーが小刻みに揺れていた。その模様は人の顔のようだった。にやけ顔で僕をあざ笑っているようにも見えた。パンジーのまわりだけ高速で時間がすぎているような揺れ方だった。

 風がやむと、ぴたりと動きをとめた。雑草よりもこのパンジーのほうが害悪であり、抜くべきだと僕は思った。


 家のドアが開いた。

 祖母がドアから顔を出して目を細めた。そのまましばし固まっていた。

 わかりやすいように僕は立ち上がった。

 ようやく僕を視界に収めた祖母は「ご飯にしよう」と言った。僕は「うん、片付けたら戻る」とだけ伝えて、そのまま庭の反対側にいる祖父を呼びにいった。家を回り込むように歩くのが面倒で、やはり無駄な広さだと思わざるを得なかった。


 昼食の後、二階の自室へと戻った。ドアを閉めても、一階のダイニングで祖父母が会話する声が聞こえた。祖父の耳が悪いのでどうしても声は大きくなる。怒鳴っているように聞こえる。実際そこに怒りの感情はふくまれていないが、僕のことを責めているように聞こえて胃が不快だった。僕は音楽をかけて声が聞こえないようにした。


 パソコンで転職サイトを開いた。名前すら聞いたこともないような零細企業からスカウトのメールがいくつか来ているのを読み飛ばした。スカウトといってもそこへ応募すれば確実に就職できるわけでもなく、企業側もとりあえず目についたサイト利用者へ機械的にメールを送信している。

 

 IT業界の求人に絞り、流し見ていく。数十件ぶんの求人を見送ったあたりで、以前働いていた会社の求人が目に入った。

 提示されている給料は相変わらず安かった。あの営業は、また無茶なスケジュールの案件を取ってきてエンジニアに押し付けているのだろうか。あの上司は、また部下を恫喝して残業と休日出勤を命じているのだろうか。

 

 彼らの声を思い出しただけで呼吸が浅くなっていた。

 胸に手を押し当てるまでもなく、心拍数が上がっていることを理解した。

 祖父母の声とは異なり、上司の声は音楽でかき消すことができなかった。ひとまずパソコンを閉じて、ベッドに寝ころんだ。固いベッドのはずだが、体はどこまでも沈み込んでいった。


 大学卒業後にIT系の会社に就職し、二年目の途中で僕は潰れた。少しずつ仮病での欠勤が増え、最終的に出社できなくなった。ある朝、体が動かなくなった。適応障害と診断され休職し、そのまま復帰できず退職した。IT業界に向いていなかったのか、「社会人」という曖昧な立場に向いていなかったのか、そもそも人間として生活することに向いていなかったのか。


 ベッドの上で右を向いたり左を向いたりしながら過去に思いをはせたが、思考は連想ゲームのように無関係な記憶に飛び火し、何も建設的な答えは出なかった。潰れて、病と診断されたその時から、脳の性能が著しく落ちたような気がする。また、その頃から目を閉じるといつも同じ風景が頭に浮かぶようになった。


 そこは荒野だった。

 重苦しく今にも雨が降り出しそうな曇天の下、どこまでも荒野が続いていた。

 草も木も生えない荒野に、小さな池が一つだけある。その池の真ん中に人一人が座れる程度の小さな岩が水面に顔をのぞかせている。


 僕はその岩の上にいつも座っている。


 強めの風が吹いているにも関わらず、池は凪いでいた。池の水は濁っているのか、岩の上にいる僕からは草も魚も見えず、曇り空だけが映っている。僕はそこから動くことができず、岩の上であぐらをかいで、荒野の果てと雲の果てをただ眺めているのだった。

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